「何処へ行っていた」
「沖だ」
短く答えると、パーシヴァルはサングラスを持ち上げながら紅い瞳を細めてジークフリートを見上げた。
その瞼と睫毛には傾き始めた西陽の色が宿って艶めいている。水着でビーチチェアに寝そべる姿は彼らしい品の良さを備えつつも優美で、ジークフリートはふと、ずぶ濡れの戦闘用水中着を身につけて無骨な武器を携えた自身の容姿を省みた。
こういうふうに自分の見た目に意識が行くようになったのはつい最近のことだ。最近――つまり、具体的に言えばパーシヴァルと恋人同士のような関係性になった少し後の頃合いから、急に思考が及ぶようになった。とはいえ、いつ何度考えてみたところで自分の姿が彼と様子を異にすることが理解できるだけで、そのことが持ち含む意味や良し悪しについてはよくわからない。
「沖へ何をしに行った」
「魔物が出たと聞いてな。誤報だったんだが。だが、それを確認できたことにも意義はあったはずだ」
「そうか。それはお前の言うとおり、意義はあったろう。浜辺の平和のために必要な善き行いだ。――それで、お前は今、何をしている?」
「貝を採ろうかと思っているところだ」
「今からか?」
「ああ。もともとはそれが目的だった」
魔物が出たと聞いて貝のことは後回しになってしまったが、まだ今からでも日没までは時間がある。道具は借りてきてあるし、山盛り採ることは難しくてもこの浜の生態について知見を得るくらいならば充分に可能だろう。宿の本棚にあった図鑑と、実際に生きている個体とを見比べてみるのが今から楽しみだ。
周囲は静かで、ひと気は無い。このあたりがビーチの外れであることも影響してか、海で遊ぶ者達の明るい喧噪は遠く聞こえてくるのみだった。そういえば、パーシヴァルは何故こんなところで一人で居るのだろうか。波の音を聞きながらゆっくりするには良い場所かもしれないが、閑散としていて設備も古いし、わざわざこのような物寂しいところまで来る必要も無さそうなものだが……。
「貝か。ときどき潮干狩りをしているようだが、好きなのか?」
パーシヴァルはゆったりとした余裕のあるしぐさでビーチチェアから身を起こし、手にしていたサングラスをチェア脇の小さなテーブルに置いた。
「そうだな。面白いぞ、貝は。それから、ほかの砂浜の生物も」
「……そうか」
短い返答と同時にジークフリートを見たパーシヴァルの瞳は、悠然と落ち着きながらも燻るような情熱を灯し、あかあかと燃え立つように力強く息づいていた。
ふいに強くぶつけられた視線に射貫かれ、ジークフリートは呼吸を止めた。何気なく会話をしていただけの相手が、急に触れがたいものになってしまったかのようにその気配の色味を変えてゆく。目を逸らしても瞼を下ろしても逃れられない。いったん距離を取ろうとしても、すでに捕まえられてしまっている。
「ならば俺も手伝おう。道具を貸せ」
声は、耳の内側をくすぐりながら脳髄まで届いて甘く響いた。
(手伝うとは、なにを、……ああそうか、貝を)
ふしぎだ。
そんなに真剣な目で言うほどの行為ではないはずだ。
まるで何かの秘密の告白をするかのような思い詰めた声音で告げるほどの重みも、今のこの場にふさわしいようには思えない。
「俺が居ると不都合があるか?」
「いや……そんなことはないが」
「貝を採る目的は何だ。観察か? それとも夕餉の材料にでもするのか」
「観察だな。この浜に生息する生物についての図鑑を見て、せっかくだから実物を見てみたいと思ったんだ」
「ほう。ならば後で俺にもその図鑑を見せてみろ」
「……」
不敵なようにも見える得意げな微笑。その表情には深い愛情が宿っていることをジークフリートは知っている。
たとえば、街で困っている子どもを手助けして礼を言われたときに彼はこういう顔をする。彼が認める家臣や仲間が好ましい手柄を立てたときにも。いや、でも、それらは今のこの自分に向けられた微笑とは少し違うような気もするが――どちらにしてもジークフリートは憧れずにはいられない。相対するものを甘く満たすような端然たる佇まいと器量に酔わずには居られない。
ついてしまった溜め息の音を聞かれただろうか。これではまるで、熱に惑い思い詰めているのはパーシヴァルではなく自分の方であるかのようだ。もしかしたら本当に、彼はいつも通り冷静で、自分ばかりがおかしくなってしまったのではないか。想いを燻らせているのは彼ではなくこの身なのではないだろうか?
俄に沸き立つ思慕を持て余して視線を逸らしたジークフリートの様子など意に介すこともなく、パーシヴァルはチェアから下りてビーチサンダルに足先を入れて立ち上がった。そのしぐさ、表情、吐息の音ひとつひとつ、あらゆる全てがジークフリートの気を惹いて、熱を持ったままの心が揉みくちゃにされてゆく。
何も言えず、ただ立ち尽くしたままでいても文句ひとつ言わずに潮風に服の裾を揺らがせている男の横顔がうつくしい。どうしたらいいのだろう。橙色の気配を帯び始めた西向きの陽光が彼の輪郭を煌めかせて、眩しく頼もしく、どうにもならず恋しい。この男が俺に惚れていると言うのだから世の中はほんとうに不思議なものだ。到底信じられない。何かに誑かされているのかもしれない。でも、パーシヴァルが俺に嘘を言うはずがないから、やはり俺達はたしかに恋仲なのだろう。――とんでもないことだ。
「パーシヴァル」
その場で屈んで、武器を置き、代わりに足元に転がしてあった潮干狩りの道具を手に取った。視線を砂浜に落としたまま名を呼ぶ。すこし声が揺れたことに彼は気がついただろうか。
「なんだ」
立ち上がる。
気配と声と体温が近くなる。
もう少しこうしていたい。そばに居たいし、手放すには惜しい。感情を押し上げてくるような願いは焦燥にも似て、制御できぬ何かに駆り立てられるかのごとくジークフリートは口を開いた。
「しばらく俺の傍に居てくれないか?」
言ったあとで、ひどく身勝手で傲慢な事を口にしてしまったことに気がついて顔が熱くなった。訂正しようと顔を上げると視線が出会い、絡め取られたように何もわからなくなって、頭の奥がじわじわと麻痺してゆく。後戻りできないことを直感する。
「言われずとも、無論」
伸ばされた手に肩を抱かれ、身体が溶けてしまうような錯覚で震えた。熱すぎるくらいの体温にとろけてゆく肌を撫でられ、耳元に囁かれ、こめかみのあたりに攻めるようなキスをされて進退窮まり黙り込む。
「しおらしいな。もっと我儘を言っても構わんが、どうだ?」
そんなことを問われても、どう答えたら良いものか。
抱き寄せられることで甘い感情が闇雲にふくらむ。自分のようなものがそういう想いを持っていることが酷く恥ずかしいことのように思えてならないと言うのに、パーシヴァルは恥ずかしいものを煽り立てて引きずり出そうとするかのようにキスを繰り返してくる。髪へ、耳へ、目元へ、唇へ。耳に注がれる言葉の意味を上手く噛み砕くことができない。受け止めるのがむずかしい。こういうのは、いまだに、どうしても慣れない。
ぎりぎり認識できる範囲で、自分が彼に愛されていることを悟って訳もわからず溢れるほどに満たされながら、こぼれたものを処理しきれずにジークフリートは声もなくあえいだ。水着越しに、あるいは直に素肌に触れてくる指先は僅かに汗ばんで湿り気を纏い、熱く誤魔化しようもない恋慕を濃厚に滴らせながら、切々と肌に擦り込むかのようであった。