パーシヴァルの顔が近づいてきて、じっと見つめてくる澄んだ赤い瞳が迫ってきて、吐息の気配、体温と熱、肌で直に感じるそれらを受け入れたときに、ああ、キスされるのか――と、思って瞳を閉じたところで、ジークフリートはふいに熱っぽい圧から解放されて拍子抜けする。
緊張して身構えた唇がこわばったまま放り出される。瞳を開ければ目の前では何やら苦虫を噛み潰したような顔のパーシヴァルが気まずそうに赤面していた。
もしかして俺は何か間違っていたのだろうか。受け入れるにあたって言わねばならぬ台詞でもあったか、あるいは表情や佇まいに不足があったのか? しかしキスひとつ程度、厳密な手順があるわけでもないはず――と、思うのだが。
考えてみてもわからず、ジークフリートはその場で首を傾げる。
「どうした?」
なんと声を掛けて良いものか難しいが、パーシヴァルのほうから弁明してくる様子が見られないので尋ねるしかなかった。
「しなくていいのか?」
重ねて訊くと、パーシヴァルは半歩ほど後退って距離を取りながら軽く頭を振った。赤い髪がはらはらと揺れる。耳の外側のあたりが少し熱っぽく赤らんでいるようだ。
「……今はまだその時ではない」
「その時というのはいつ来るんだ?」
「いずれ来る」
「ふむ、そうか」
そう言われてしまえばそれまでだ。
ジークフリートは奪われることのなかった自らの唇を指先で撫でた。無意識の行動ではあったが触れることで唇や顎まわりに不自然な力が入っていることに気づいてそのまま指先で撫でほぐす。変に乾いてしまった唇を舌先で湿らせると、ふとパーシヴァルと目が合った。唇を見られていたような気がした。
「本当に、しなくていいのか?」
くどいと叱られるかもしれないと思いつつ、もう一度尋ねてみる。煽るような気持ちも、無いと言ったら嘘だ。
「今はいい」
文句を言ってこないところを見るにどうもあまり余裕はないらしい。この唇への興味、ある種の切望じみたものを隠し切れていないくせにどうしてその気持ちを抑圧するのだろう。自分達は一応、暫く前から恋仲と呼べる関係性になっていて、そういう間柄ならば唇を重ねることもあるものだろうから、したければしてくれて構わないのに。
パーシヴァルはゆっくりと立ち上がった。グランサイファーの個人船室は広くはないがベッドの他に小さな机や椅子、簡素な棚などが設置されていて生活に不便しないような造りになっている。この部屋はジークフリートに与えられている私室で、いまはパーシヴァルと酌み交わすための酒瓶が二本、テーブルの上に置かれていた。酒もそろそろ仕舞いにして解散としようか……という頃合の深夜、目眩がするような恋の気配が満ちて、しかし何も起こらずに終わった。未遂のキスがひとつ。まあ、でも、今は未だその時ではないとパーシヴァルが言うのならば、それで良かろう。
立ち上がった背のガウンの赤色を視線で追いながら、ジークフリートも立ち上がった。あまり自覚は無かったが酔いが回っているのか思考と行動が明瞭に結びついていないような気がする。ふわふわとした気分のままパーシヴァルの背に身を寄せる。何をしようとしているのかその手元を覗き込むと、彼はベッドサイドの小さなテーブルに置かれた水差しから空のグラスに水を注いでいた。
「パーシヴァル。俺にも水をくれないか」
なみなみ注いだ水を半分ほど飲んだパーシヴァルに声を掛ける。
「なら、あちらの棚から自分のぶんのグラスを持ってくるといい」
「そのグラスでいい」
「しかし」
「ひとくちでいい。分けてもらえないか?」
「……」
パーシヴァルは無言で、振り返らずに、飲みかけのグラスをジークフリートに差し出してきた。澄んだガラスのグラスを受け取って、くちをつけて、ごくごくと飲む。冷えていて美味い水だ。これで、このふわふわとした酔いがさめてくれればいいが。
「すまないな、助かった」
グラスを返す指が熱い指に触れ、そこが汗ばんでいることに気がつく。彼も酔っているのだろう。
「美味い水だな。ひとくちと言いながらたくさん飲んでしまった。すまん」
「謝ることはない。水ならばまだある」
「なあ、パーシヴァル」
「なんだ」
「お前は、……、おっと」
言葉の途中で、ふいに周囲がぐらりと揺れて床が大きく傾いた。
ジークフリートは二歩ほど後ろへよろめき、後方へと倒れそうになってベッドの上に腰を落とした。尻餅をついたような形になり、寝台が軋む音を立てる。
油断していた。普段ならば踏みとどまれるのに、やはり今宵は酔っているのだ。扉の外で伝声管越しに気流の乱れを告げる声が響いていた。深夜であることを考慮してか、落ち着いた調子の静かな警告が一度きりで、あとは再びの静寂となる。
揺れはそのとき限りだった。パーシヴァルもよろめきかけていたが持ちこたえ、ぐらつきが収まったタイミングで彼はジークフリートに手を差しのべてきた。
「平気か」
「ああ、問題ない。ありがとう」
手を取り、立ち上がる。
彼のやさしい手が伸びてくるときに、頭の片隅で変な想像をした。後ろに倒れかけた身体をそのままぐっと押し倒され、ベッドに組み敷かれてシーツに押さえつけられる――という妄想を。恋人への軽いキスを躊躇うような慎重な男がそんなことをするわけがない。わかっているのに、それでも、脳裏に思い描いた彼の顔は情熱を帯びて鋭く燃え立つような視線でジークフリートを貫いてきた。動けないように拘束されて手首を掴まれ、脚が絡んできて、身体を――。
(……ああ、……)
この揺らぎを表に出そうか隠そうか、ジークフリートは迷った。そして、隠すことにした。酔ってはいるがまだ理性はある。熱の籠もる首もとから邪念を散らすように首を振り、椅子に腰掛けながら瞳を閉じる。
気流の音、艇の駆動音。星の見えぬ夜の闇。部屋に残る酒の匂い。閉じたまぶた越しに揺れている火明かり。時おり風の荒れる音はあるが、夜は沈むように静かだった。パーシヴァルの気配がある。あたたかな熱がある。彼はそろそろ部屋に戻ると言い出すのだろう。自分も、そうするのがいいと思う。あまりいつまでも就寝せずにいたらさすがに明日に響く。酒はまた、いつでも飲める。
「パーシヴァル」
瞳を開けて、目の前に立つ男を見上げる。
変な気分だ。気を引きたいような、甘えたいような。
どうした、と囁く声に惹かれる。
もうひとこと何か言って欲しい。
「今宵は随分と酔ってしまったようだ……」
見上げる視線と見下ろす視線が正面から出会って濃密に絡む。浮つく頭には背が震えそうな熱が散って、制御できなくなりつつあることを自覚しつつあった。パーシヴァルの瞳にも潤みがある。頬が紅潮している。すこし乱れた前髪のかたちにくらくらするような色気がある。
「もう寝ろ」
形の良い唇が短く理性的に命じると同時、熱っぽい赤い瞳が細められて視線が逸れた。
「今宵は仕舞いだ。俺も部屋に戻る」
触れ合う寸前まで近づいたときの緊張や、想像の中で押し倒された際の獰猛な表情を思い返し、現実のような幻想のような、はざまに揉まれてジークフリートは懊悩した。
良く休んでおけ、と言い残して背を向けた彼の声音と優しさが身体を一杯に満たして息が苦しくなる。それでも声を絞って、おやすみ、また明日、とその背に声を掛けると、パーシヴァルはちろりと振り返って未練を隠さぬ甘い視線で無言の返事を残していった。
扉が閉まり、ひとりになった。
風の音だけが時おり響く、ひどく静かな夜更けだった。