メリークリスマスアゲイン 屋敷の前まで送り届けてもらい、車内で少しだけ触れたり悪戯したりと名残惜しさを共有した。
どちらからともなく唇や指先、髪の毛を触れて回り、至近距離で見つめ合う。たいそうくすぐったい時間が流れているのは百も承知だが、のちにこらえきれないほどの気恥ずかしさが胸を襲ったとしても、とにかく今はその手を離したくなかった。
不意に鳴り響いた無線により、そろそろ行かなきゃ、と大蔵がさびしそうに呟く。タクシーを降りるため腰を浮かせると頭をかき撫ぜられた。乱暴な手つきと熱い指先に胸が鳴る。それはもういとも簡単に。
「――では、行きますね」
ドアを開け、外に出るとつめたい夜風が頬を撫でた。夜の匂いを嗅いでいると、後ろから腕を取られて振り返る。
「――明日、仕事終わったら来ても良い?」
運転席から助手席の方まで身を乗り出し、中途半端な体勢で丁呂介の手を握る。腰をひねったことにより、大蔵の脇腹のあたりにシートベルトが食い込んでいた。窓からこぼれる月明かりのなかで目が合う。だめ? とお伺いを立てるように聞かれた。
「…だめじゃない、です」
咄嗟に顔を左右に振る。だめじゃない、と伝えるたびに耳元で髪の毛が擦れる音がした。
「…いいの?」
「…もちろんです。…ご飯を作って待ってますから」
いつになく素直に答えると、やった、と大蔵が笑った。そういった屈託のない笑みを見たことがないとはまでは言わないが、ともすればひとりで闇に溶けていきそうな危うさのある大蔵の、心のなかにある一切の濁りのない輝きを見出すたび、胸の奥をしみとおるような愛しさを感じる。
丁呂介が屋敷に入らないことには、大蔵は立ち去れないらしい。視線の先に映る目じりのしわを見つめながら、「明日、待ってます」と伝えた。
離れがたくて離れがたくて胸がかきむしられそうなほど。大蔵のためにと小走りで勝手口の方へ向かうと、背中からタクシーのエンジン音が聞こえてきた。遠ざかっていく音がさびしいことに間違いはないのに、その響きには未来がある。幸福めいた色がある。
中庭の砂利を踏みしめて歩く。吐き出す息は白く、夜もすっかり深まっているというのに、丁呂介のからだは火照っていた。心臓の鼓動が冬の夜に溶けていく。
これまで感じたことのない高揚感を抱きつつ、勝手口から家の中に入ると、扉のすぐ向こうで十四雄が待ち構えていたので軽く悲鳴を上げてしまった。照明もつけずにぼんやり佇み、おかえり、とにっと笑う。
「………び、びっくりした…」
落ち着かせるように胸元を撫でながら呟くと、十四雄がおおきな目をさらに見開かせた。
「驚かせちゃった?」
「…驚きますよ、まさかこんなところにいるなんて…」
「あはぁ、ごめんね。エンジンの音が聞こえたから、もう帰って来るころかな、と思って」
だから待ってたの、と十四雄が平然と続ける。思わずぎょっとして姿勢を正すと、「僕はとくべつ耳が良いみたい」と含みのある言い方をして微笑む。
「………とくべつ?」
「うん。とくべつ。…あれ? そういえば、丁呂介さん…」
「な、なんですか?」
丁呂介の手元を見つめながら十四雄が不思議そうな声をあげ、お酒は、と言って寄越した。
「――え?」
「お酒。お店開いてなかったの?」
「えっと…いや、開いてはいたんですけど…」
普段はよく回る口がうまく機能してくれず、それらしい言い訳が思い浮かばない。もしかしたら心のどこかで、嘘は吐きたくないという心理が働いたのかもしれない。大蔵とのことで嘘を吐きたくなかった。十四雄に嘘を教えたくなかった。
着物の裾を握っていると、十四雄が笑った。それから、やさしい声で言う。
「ま、いっか」
そういうこともあるよね、と十四雄はやたらと楽しそうにしていて、丁呂介が酒を買ってこないことはお見通しのような口ぶりだった。
「ね、それよりさ、早く戻ろうよ、みんな待ってるよ」
あっという間に手を引かれて、みんなが待つ居間へと連れていかれた。羽織りを着たままだったが、脱ぐ間もない。赤く染まった鼻先を隠す間もない。待って、とお願いをするも、もう待てないよ、とくすくすと笑われた。歌うようなおねだりに、頭のてっぺんからつま先まで、温かい気持ちが満ちていく。
大蔵といる時間も大切で、でもこうしててらいのない優しさを向けてくれる兄弟たちとの触れ合いも、丁呂介にとってはかけがえのないものになっていた。
そのあとは五人でえらく盛り上がり、けっきょく明け方までどんちゃん騒ぎをした。酒は好きな方なので丁呂介もかなり飲んだが、大蔵が来るというだけで理性が働くらしい。すっかり陽が昇ったころに一番乗りで起き出し、湯浴みをしてから台所へ向かった。
朝食用の味噌汁を作っているとふと視線を感じ、振り返ると一がいた。ねむたそうに目を擦りながらも、じっとこちらを見ているので、朝食は食べられるかと尋ねる。
「…食べられるけど」
「…そう、それは良かったです。先に二人で朝ごはんにしちゃいましょうか。――といってももう十時過ぎてますけど」
いただきものの大根があったのでそれを味噌汁に。葉も入れて二つの食感を楽しめるように。きっとみんな泊まっていくだろうと人数分の焼き鮭を準備しておいた。グリルで焼いたそれと卵焼きを清水焼の器に盛り付けると、なかなか良い朝食が出来上がった。
「あ、一くん。ごはんよそってもらえます?」
「ん」
「お茶碗、その棚にありますから」
「ん」
なんてことない話をしながら二人で朝ごはんを食べていると十四雄がやってきて、僕も食べたい、とはしゃぎ出す。十四雄のために味噌汁を温め直していると、おかわりが欲しいと一が言うので少しばかりときめいた。作ったものを食べてもらえる幸せ。みんなでごはんを食べる幸せ。改めて噛みしめる。
朝食で使った食器は一と十四雄が洗ってくれた。けっこう優しいんですね、なんて褒めてやると、一があからさまに戸惑う。
「…べつに、これくらい、ふつー…」
「そうですか。――あ、あとでお茶淹れましょうね」
昨日食べ損ねたクリスマスケーキがある。一度取り出したものを箱に押し込み、さらに冷蔵庫に入れたので、クリームがかさついているかもしれない。でもみんなで食べたらきっと美味しい。
中庭で日向ぼっこをする二人を眺めながら長机に頬杖をつきつつぼうっとしていると、玄関の呼び鈴が響いた。きっと大蔵だ。耳が良いらしい十四雄は、なぜか見向きもしない。一は庭に遊びに来た猫に夢中になっている。
忍び足で玄関へ向かうとくたびれた様子の大蔵がいた。ネクタイを解きながら、疲れた、と呟くので、お疲れさまです、と精一杯労う。その瞬間、ぼーんぼーんと古時計が正午を知らせた。
ネクタイの結び目に掛かる大蔵の指があまりにも色っぽく、暫し放心してしまう。無言で眺めていると、丁呂介さん、と名前を呼ばれた。顔を上げる。目が合う。ただいま、と言われたので、おかえり、と返す。恥ずかしくなって視線を下ろし、髪の毛を耳にかける。なんだろう、これ。胸の奥が昨夜からずっと甘酸っぱい。庭からは一と十四雄の声が微かに聞こえてくる。唐次と百々史はいまだに起きてくる気配はない。覚悟を決めるように深く呼吸をする。
「…大蔵さん」
「…ん? なに?」
高鳴る心臓を抑えつつ、一歩大蔵に近寄り、あたりを警戒しながらも瞼を閉じた。すぐにすべてを察した大蔵が、大胆ね、とくつくつ笑い、身を屈めた。
ちゅっと、触れるだけのキス。すぐに離れていく。どきどきした。それはもうたまらなく。こんなクリスマス、生まれて初めてかも。
瞬間、十四雄の笑い声が響いて、二人で妙に照れた。
「…朝ごはん、といってももうお昼ですけど… 食べますか?」
「まじ? 食べたい。…って言いたいとこだけど、ちょっと仮眠していい?」
あのあと酔っ払い来て大変だったんだよぉ。欠伸交じりに大蔵が嘆いて、おもむろに丁呂介の肩を抱いた。おでこに頭を擦りつけられ、耳たぶを甘噛みされる。感じたことのないスピードで自分の心臓が動いている。
「…お布団敷きますか?」
「…ん、いらない。居間で良いよ」
「…でも、それじゃあ体が休まらない」
「いいの。丁呂介さんの近くにいたい」
とろけるような甘い声でこめかみにキスを落とされた。
「――あ、でも掛け布団だけ持ってきて」
とのわがまますらも、可愛いと思えるなんて。
布団の代わりに座布団を三枚敷き、掛け布団を掛けてやると大蔵はものの数秒でねむりの世界に落ちていった。いっさいの寝息も立てずに安らかな寝顔を見せる。しばらくその寝顔を眺めているとタイミングよく百々史が起き出してきて、お腹空いたぁと甘える。
「ケーキもありますけど、どうします?」
「ん~、ふつーにごはん食べたい」
「ふふ。ケーキはあとにしましょうか」
「うん。てかなんでこの人いるの?」
「え?」
呆れたように、でもどこか楽しげに、百々史が大蔵を指差して、間抜け面だねとにししと笑う。
「…よだれ出てんじゃん」
「…疲れてるんですって」
「…ふうん。なんだ、ほんとに仕事だったんだね」
「…ああ、まあ、そうみたいですね」
百々史とふたりで大蔵の寝顔を眺めていると、むしょうに笑えてきた。このあどけない寝顔を独り占めすることと、こうして一緒になってひとしきり笑えることと、その幸せはきっと共存する。
台所へ向かうために伸びをすると、百々史が呟く。
「…やっぱさびしかったんじゃん」
からかいのなかにも嬉しさが混じっている。丁呂介も相槌を打った。
「…たぶん、さびしかったんじゃないですか?」
百々史の食事を準備していると唐次も起きてきた。連日仕事が立て込んでいたらしく、久しぶりによく眠れたと朝から快活に笑う。
二人の朝食を居間へ運び、日向ぼっこを終えた一と十四雄を迎え入れる。おのずと五人の話題は逞しく眠りこける大蔵に集中する。丁呂介の膝元あたりで蹲るようにして布団を抱き締める大蔵が、ふてぶてしさを通り越して、いっそ愛らしい。
「――クリスマスだからほんとにプレゼント交換とかしたら良かったね」
百々史が独り言のように呟いて、使い終えた茶碗を持って立ち上がった。
「丁呂介さんはなにが欲しい?」
おもむろに聞かれたが、答えを必要としていない口調だった。軽やかな声に続いて、百々史が唐次の肩を叩き、食器を持つようにあごでしゃくる。
「しょうがないから茶碗くらいは洗ってあげる」
もっと言い方があるだろうと思ったがあえて突っ込まなかった。一と十四雄はいつの間にか庭で土いじりをしている。
何が欲しい、との問いが頭のなかでリフレインする。
何が欲しいだろう。きっと、欲しいものなんて無限にあって、願えば願うだけ溢れてくる。でも、それでも、丁呂介がいっとう欲しいものは――。
瞬間、ぐっと手を取られて、寝ぼけているとは思えない強さで指を絡められた。振りほどこうとして左右に手をにじると、余計に追い掛けてくる熱い指先。大蔵が目を覚ましていることは明白で。
「…なんですか?」
布団のなかから大蔵が視線だけを動かして、あっという間に視線が絡み合った。
「…何が欲しいの?」
聞いたこともない甘い声で囁かれて息が止まる。
「…何がって」
「…俺は丁呂介さんが欲しいよ」
「…え?」
あまりにも真っ直ぐな願い、それでいて有無を言わせない声だった。俺は欲しいよ丁呂介さんが。同じことを何度も囁いて願う。
「…丁呂介さんは?」
ぐっと手を引かれて、頭から布団を被せられて、隠れるようなキスにされた。至近距離で頬にかかる熱っぽい吐息。
「…クリスマスプレゼントって、二十五日の朝に貰えるんだよね?」
今日って何日、と聞かれた。すこし躊躇ったが、意を決して二十五日だと答えると、大蔵が顔をくしゃくしゃにして笑った。
「…俺、丁呂介さんが欲しい」
プレゼント貰えるかな、と背中に手を回される。大蔵のからだはあたたかかった。
この調子だと貰えてしまうかもしれない。そんなようなことを伝えると、大蔵が子どもみたいに顔を綻ばせた。
この続きはみんなが帰ってからにする?
メリークリスマス、アゲイン。