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    risya0705

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    ポン中軸柏真 #4

    ##ポン中軸

    #4 蛇の体温、焦がれる心臓2005年6月某日


    打ち付けるような激しい雨に流されて、いつもの印象的な血の匂いはあまり感じなかった。

    互いに口を開かないままずぶ濡れになって暫く経つ。彼が限界なことなどずっと前から知っていた。

    「……くる…し…ぃ…………」

    土砂降りの雨音に紛れる病人のようなか細い声。隻眼の水晶体はどろりと濁って向かい合わせにいるこちらの姿を映さない。隈が酷い。顔色も尋常じゃない。躊躇いながら伸ばされた手は黒革の中、温度を内に閉じ込めているままだった。

    その黒い指先が、こちらのネクタイをグイッと雑に緩めて襟を引っ張り、ボタンがぶちぶちと弾け飛ぶ。昔、この男に文字通り齧り付かれ抉られた傷痕がシャツの下に残っている。その色素の沈着した部分に触れ、なぞり、そこで力尽きたように手指はだらんと垂れ下がった。

    「…………たすけ、て……くれんか……」

    ぐらりと後ろに揺れる肢体を強く抱き寄せて捕まえる。蛇革の服の内、細腰の素肌に触れている。濡れて酷く冷たかった。

    やっと、だ。

    やっと縋ってきた。やっと捕まえた。
    不自由を嫌う獣がそれでも息ができないと哭くのなら、いっそ芯まで縛り付けてやる。

    かくんと仰け反った死人のような肌色の首筋に、本懐を遂げんとばかりに歯を立てて噛み付いた。










    真島を俺の自宅に軟禁するようになって一週間になる。

    いや、仕事であれば外出も許しているので軟禁ともいえない。よくて監視程度だろう。同棲とは間違っても言えないが。こんな薬物依存性真っ只中の奔放な男でも歴とした三次団体の組長であり、真島の判や声がなければ滞る事態もある。致し方ないことだ。何より俺自身も、主がよく不在にする事務所に出ないわけにはいかなかった。

    本当は軟禁どころか監禁してしまいたいのに。

    独りにさせている間は焦燥が募る。真島を外に出す日は、俺の仕事を終わらせると神室町の何処かで行き倒れている真島を探し出して拾い、一旦神室キャッスルに寝かせ、車で自宅に連れ帰る。十年以上の付き合いだ、場所は大体の目星はついている。背丈の割に細身とはいえ、自分と同じ程の身長の男を毎度部屋まで連れ込むのも体力が要るが、飼い殺しの過程と思うと苦ではなかった。どうしても出席しなければならない会合以外では夜に外での飲食もほとんどしなくなり、到底上手いとは言い難いが自炊もするようになった。

    注意を払ってはいるが、花屋が本気を出せばすぐに俺と真島の逢瀬は知られてしまうだろう。嶋野組の若頭と繋がっているのがどういう意味を持つのか、分からない筈もない。危ない橋を渡っているのは重々承知していた。

    (それでも、今のアイツには俺しかいない)

    帰宅したらまず真島の足に枷を嵌めて鍵を掛ける。枷には鎖が繋がれている。鎖は長くトイレや風呂へは伸びるが、部屋の外へは行けない。もっとも、真島が本気で抵抗をすればこの鎖も枷も呆気なく破壊されることは承知の上だ。ただの見掛け倒し。それでも、素直にしゃらしゃらと鎖を引き摺って俺の部屋で暮らす真島の姿に、叫び出したくなるほどの優越感と生臭い欲情を駆り立てられ、優しいひとの皮を被って毎晩必死で抑え込んでいる。

    彼を犯すのは、眠れないと懇願されるときだけ。そう自分に決まりを課している。そんなものはただの言い訳でしかないと、誰より自分が知っている癖に。

    ドブ魚、とふと脳裏を過ぎる声。いつだったか遠い昔、真島と魚の話をしたことがある気がした。アンタも俺とおんなじドブ魚やないか、と。あの頃の真島はイカれていたがまだ元気だったなと想起する。愉しげに蝙蝠傘やバットを振り回しては血塗れになって笑っていた。

    今日の夕飯は魚にしようか。真島は殆どまともに物を食べないのを知っているが、それでも二人分の食事を用意するのはもはや意地だった。










    真島は眠っている。

    少し前までは蒼白な顔で眠れないとよく嘆いていたものだが、近頃は昏々と長い時間眠り続けることも増えてきた。今日は俺が帰宅したときには既に床の絨毯に倒れるように寝転がっており、その身体をソファに寝かせてやってから食事の用意をしたが未だ目を覚まさない。ふと不安になってその首筋に指をあてがう。脈動はある。その指を口元に持ってくる。呼吸もしている。思わず安堵の息を漏らしてから、その肩を揺する。起きねぇのか、飯は。そう呼びかけても一切の反応はなく、仕方なくその寝顔を視界に入れて一人で食卓についた。

    以前の真島であれば、身体に触れようとした段階でぎろりと目が開いてドスが飛んできていただろう。実際、そんな遣り取りも過去の神室町ではあった。今は電池切れの人形か何かのように、ひたすら睡眠に耽っている。

    桐生の逮捕をきっかけに、真島は誰の手にも負えなくなっていった。暴対法の普及につれ、それまでのように好き勝手暴れ回るのを嶋野に窘められるのが増えたと親父から聞いたこともある。擁護のしようもないが、元が暴力と興奮のアドレナリンで生きているような男である。気絶するまで殴り合える喧嘩相手を失い、退屈と鬱憤の捌け口はもっぱら酒と薬物に向いたようだ。依存症は着実に進行し、睡眠障害に摂食障害、感情の極化など徐々に症状を呈していった。

    (知っているとも。……ずっと見ていたんだから)

    あいつに噛み付かれたあの日から、狂犬病の毒が身体を巡っている。いや、本当は、それよりもずっと前から──。










    碌に経口摂取もしていないため慢性的な栄養失調に陥っている、と採血結果を見せられながら知人の医者に言われた。神室町の人間ではない。柄本のほうが腕も人柄も信頼できるだろうが、あの街の人間に真島を診させる訳にはいかなかった。金を使うことに躊躇はない。

    「そもそもね、依存症そのものを綺麗さっぱり治す薬なんていうのは、少なくとも日本じゃ扱ってないんですよ」

    闇医者の説明を受けながら俺が真島に針を刺し、栄養剤の点滴バッグから伸びるチューブを繋げる。毎度遠くから出張するのも面倒だとぼやく男に、それならばとその役を買って出た。材料費だ指導料だのとふんだくられたが構わない。

    倫理すらも金で買えた。

    「そりゃあ、幻覚だの躁鬱だのを抑える薬はありますけどね。あくまで対症療法だ。それにだって副作用はあるし…ま、副作用のない薬なんてありゃしませんからねえ。ええ、ちゃあんと「処方」していきますよ。見たところ行動療法なんかをまともに受けられる患者とも思えんし……ああ、いやいや、これは失敬。そう睨まんでくださいよ。お互いの利益がある間は、宜しくやりましょうや」

    札束の詰まったキャッシュケースを満足そうに引っ掴んで男は帰っていった。

    「…………そりゃあ、まともな訳ねえだろうさ」

    真島も、俺も。ヤクザ相手にマトモなんかを求めるのがおかしくて笑ってしまう。なあ、と同意を求めるように真島の頭を撫でていると、ふいに真島の瞼が上がった。眩しそうに、何度かぱちぱちと瞬きをして薄く目を開く。

    「おう、おはようさん」
    「……?」

    真島がひどく億劫そうな動作で首を回して、自身の腕から伸びる点滴を不思議そうに一瞥する。抜かれるかと思ったが、そのあとは興味なさげに視線を外してされるがままになっていた。

    振り払われないのをいいことに撫で続けていると、真島がのそのそと身じろいで俺の手を掴まえた。掴んだ指先を口に咥えて、がじがじと歯を立てて甘噛みしてくる。指の腹に舌の湿った感触を感じる。ぞくりと身体に熱が籠もるのを意識の外に追い出しながら「腹減ったか?」と問うが緩く首を振られる。そうか、とだけ返して、真島のしたいようにさせておいた。

    真島は噛み癖があって、煙草のフィルターやストローにはいつも歯型が残っている。歯を立てていると落ち着くようで、行為の後や暴れた後には転がりながらうとうとと俺の手指をよく齧っていた。ぶち、と真島の八重歯が指先に小さな穴を開けて血が滲む。それに吸い付いてちゅうちゅうと舐め取る姿は赤ん坊のようで、堪らなく何よりも愛おしかった。










    ────もうずっと、悪夢がやまない。

    色を変え形を変え、夜な夜な襲い来るそれらに慢性的な不眠をもたらされ、正直なところ心身が摩耗している自覚がある。もう真島の顔色を揶揄できないだろう。組員にも心配されるが、何でもない、気にするなとしか言えない。以前と変わらぬふうを装いながら、内心では一刻も早く真島の元へ帰りたくて頭がおかしくなりそうだった。縋りつかれた筈のこちらが、幼子の分離不安のような気持ちを常に味わっている。真島の傍にいたい。


    会いたい。あのひんやりと冷たい皮膚に触れていたい。シャブが切れて嘔吐きながら叫んで暴れる身体を、羽交い締めにしてベッドに縫い付けて。一昨日は酷かったな、と想起する。手当り次第部屋の物を投げて支離滅裂なことを狂い喚くもんだから、吸殻が山になった灰皿までぶん投げられて部屋に見事な惨状が出来上がった。本気で相手をして、やっとのことで無理矢理に安定剤を飲ませて眠らせた頃にはこちらも肋の二、三本にヒビくらいは入っていたようだったが、傍にいるためなら構いやしなかった。










    今日もまた、薬が欲しいと泣きじゃくる真島を押さえ付けて激しく犯した。何度目かの強制的な絶頂の後、ぎゅうってしてや、と彼が言い出してぎょっとした。気付かないうちに自分も覚醒剤の類を摂取したのかと疑った。怖気付きながらもその身体を抱き締めるが、返ってきたのはそっけなく振り払う手と「ちゃう」という掠れた声だった。空中で彷徨ったままの両手を取られて、彼の白い首に宛てがわれる。

    「ここ……ぎゅうって、してや……」

    なにか憑き物でも落ちたかのように、今まで見たこともないほど柔和で無垢な笑みを浮かべていた。

    「……なあ……」

    彼が目を閉じる。傷付いた左目と揃いに伏せられ、今か今かと期待に睫毛が震えている。半開きの口から濡れた舌が覗き、自身の唇をゆっくりと縁どって舐めた。俺の腹に真島の勃起した雄が当たっている。長い脚が煽るようにこちらの腰を撫で、じゃら、と歪な鎖の金属音が鳴った。

    「………………ッ!」
    「──ッ!か、は……ッ!」

    指先に力を篭めて首を絞める。同時に最奥を熱い滾りで穿った。絞めた首に従順な内襞がぎゅうぎゅうと締まり、突き立てた肉欲に絡み付いた。青白い貌が鬱血して生理的に赤く染まる。身体が跳ねるたびに足元の鎖がじゃらじゃらと煩い音を立てて、理性のストッパーを外していく。悦楽に隻眼をひん剥いて涎を垂らして身悶える姿がいやらしくて、誰にも渡すものかと獣のように息を荒らげて、犯して、犯した。










    目を閉じる。

    腕の中で真島が死んでいる。俺が殺した。
    ばきりとあらぬ方向に曲がった首筋に、俺の手形がくっきりと残っていた。赤い痣が白い肌に麻縄のように映えて綺麗だった。

    目を閉じる。

    足元で真島が死んでいる。俺が刺し殺した。
    雨の中立ち竦む俺の手に、鬼炎のドスが握られて赤黒い血を滴らせていた。そういえば、ドスを持って舞い狂う真島の姿を最近は見ていない。それもそうだ、ここで死んでいるのだから。

    目を閉じる。

    頭上で真島が死んでいる。俺の部屋で首を吊っていた。
    律儀に足枷を嵌めたままでいるのがいじらしくて愛おしい。弛緩した身体に伝う排泄物に、綺麗に拭いてやらねえとな、と思った。

    目を閉じる。

    ──開けたくない。

    目を閉じる。

    いいや、目を開けようとしたことなど一度もない。それでも容赦無く彼の無惨な像が象られていくのだ。俺の心が何度も何度も真島を殺し続けている。

    目を閉じる。

    目の前で骸骨になった真島が泣いていた。










    「────やめろぉ……ッ!」

    溺れている。水底に引き摺り込まれる。身悶えするたび水草が絡み付いてきて逃避を赦さない。身体中の隙間から孔から水や泥が侵食してきて息ができない。堪らなく苦しい。魚になんてなれやしない。

    「……、……ぃ……な、……」

    なにか聞こえる。深く潜りくぐもっていても、それが誰の声かなんて、それだけははっきりと分かるのだ。

    「……まじま……ッ!」

    吸えない息を思い切り吸って、肺をドブ川の水でいっぱいに満たして彼を呼んだ。それはいっそ祈りの響きに似ていた。










    「……ん……目ぇ、さめたか?……だいじょーぶ、大丈夫やからな…………」

    とん、とん、と穏やかなリズムで背を叩かれる。意識が急に現実世界に引き戻されてぐらりと目眩がした。耳鳴りがしている。どくどくと脈打つ自分の心拍音がやけに煩く籠る。ぐっしょりと冷や汗をかいていて、触れるのも気持ち悪いだろうに、気にした様子も見せずに真島は俺の頭を抱いて煙草をふかしていた。

    「……真島……」
    「随分、魘されとったなあ……」

    よしよし、なんて掠れた声で言った真島が紫煙を吐いてこちらの頭を撫でてくる。その首には確かにうっすらと絞めた指跡が残っている。意地を張らずにその素肌の胸に顔を埋めると、相変わらず皮膚は冷たいが確かに心臓は仕事をしていた。頬を生温い雫が伝う。

    「おお、泣いとる」
    「……泣いてねえ……」

    生理現象で水分が勝手に溢れていくだけだ。止めようと思って止められるものでもなかった。

    真島の鼓動のリズムはどこか不規則に感じた。これだけ内側から緩やかな自死を続けているのだから、丈夫が取り柄の身体にもガタがきていておかしくない。そう思うと更に溢れるものが止まらなかった。本当は、失うのが怖くてたまらない。

    「ほら、落ち着くでえ」

    真島の吸っていた煙草が口元に宛てがわれる。誘われるままに吸い込んだそれは馴染みの味ではなかった。

    「……これ、大麻じゃねえか……」
    「うん……大丈夫、怖い夢もみんようになるからなあ……」
    「うん、じゃねえよ……くそ、いつの間に……」

    こっちがどんなに必死になっててめえのヤク中を──説教しようとして、やめた。もうどうでもいい。それよりも、ただ触れていたい。真島の手からそれを奪い取り、深く吸い込んだ。惚れた人間ひとり、泥沼から掬い上げられるような器すら持ち合わせていない。それでもこの手を離してやれない。ならいっそ、一緒に堕ちるところまで堕ちてやりたい。傍にいることだけ、それだけが、情けないことに今の俺が真島にしてやれる唯一だった。

    煙草もどきを奪われて手持ち無沙汰になった真島が俺の耳や襟足を弄りだし、額に押し付けるように唇をあてがう。こちらを哀れむような仕草が癇に障ったが、唇が人間の温度と柔らかさを伝えてきて、ただそれを享受した。

    「なあ、誰があんたを泣かしたん……?」

    殺してきたろかぁ、そいつ。
    真島がにいっと笑う。


    どこか懐かしい表情だった。



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