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    risya0705

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    ポン中軸柏真 #1

    ##ポン中軸

    #1 大蜘蛛の巣覚醒はいつも泥から這い出るような感覚だ。

    かろうじて瞼は上がるが身体が鉛のように重くて動かない。いつからか見慣れるようになったリビングの、テーブルには綺麗に拭かれた灰皿だけが載せられている。少し温めの空調が素肌を柔らかく撫でる。外界の喧騒を遮断したこの温室のような部屋で、空気清浄機の音だけが微かに聞こえていた。心地よくて再び意識が微睡んでいきそうになるのを、まばたきを二、三度して堪える。もう既にかなり眠っていた筈だ。今日は珍しく寝起きの頭痛が軽い。少し、喉が乾いた。

    直近の記憶はないが、革張りの上質なソファに寝かされていた。また何処かで電池切れになっていた自分を家主がわざわざ拾い上げて横たえたのだろう。本当に物好きな男だ。彼は今何処にいるのだろうか、いい加減ここに寝転んでいても邪魔になるだろう。もう一度、まばたき。ふと、視界に自身の指先が入る。

    (……あ?)

    身体はただ重くて持ち上がらないと思っていたのだが、そうではない。ソファからだらんと伸ばした腕に赤い目をした大きな黒蜘蛛が這っていた。ぶくぶくと肥えたそいつが手指を喰らい、チューチューと身体の中身を啜っている。肉や皮膚は不味いのかして、噛まれた指は無造作に棄てられていた。ちぎれた指や腕の先から黒い血が垂れ落ちて清潔なフローリングの床を汚していく。ぼたぼたと滴る雫はやがて水溜まりを作り、波紋がじわじわと部屋を浸蝕していっている。こうしていては部屋どころか彼までをも汚してしまうだろう。早くここから出ていかなければ、とソファを転がり落ちてなんとか身体を動かした。

    足が重い。立ち上がれない。上体を起こそうにも喰われてしまって腕がなかった。なんとか腹に力を込めて、芋虫のように這いずって扉へ向かう。それにしても広い部屋だ。扉はこんなにも遠かっただろうか。目指すべき玄関はどこだったか。

    自身の断片から滲み出るどす黒い汚染の波紋は既に液体の体をなしておらず、焼け跡の煤のように染みて部屋の壁を伝いどんどん広がっていっている。早く、行かなければ。急がないと、はやく、はよう。



    「……どこへ行くんだ?」

    静かな声がかかる。反対側のドア、確かキッチンに通じている扉を開けて家主がじっと見ていた。彼がこちらの顔を見て部屋へと足を踏み入れるのに、来たらあかん、と祈るように言ったが無視をされた。平然とした表情で彼が向かってくる。彼の足が泥を踏む。毛足の長い高そうな絨毯も台無しだが、そんなことより黒いヘドロが彼の足元を汚していくのを絶望して見ていた。叫び声はあげられない、蜘蛛に気付かれてしまう。

    「……っ、帰らな……」

    彼がすぐ傍までゆっくりと歩いてきた。黒は腰の辺りまで這い上がってきている。黒の正体を間近で凝視してしまい、喉の奥でひゅっと息が詰まる。

    蟲だ。

    俺の血から染み出た無数の蟻と害虫が彼に纏わりついて媚びるようにモゾモゾと蠢いている。嫌だ、嫌だ。吐き気がする。瞼が重い。頭が痛い。気持ち悪い。

    「帰る?」

    彼が手を伸ばしてくるのを顔を背けて避ける。触れられたくない。触れればその指が腐り落ちてしまう。蜘蛛の毒だ。こちらが逃げを打つのに、彼は一度舌打ちしたようだった。音がぐわんぐわんと反響して聞き取りづらい。転がっているだけなのに眩暈が酷い。世界が回っている。黒のぐちゃぐちゃな世界。おかしい、世界はもっとイカれた極彩色で構成されていたはずなのに。

    「──誰がそんな真似許した」

    彼がこちらの肩を強く掴み、あろうことか覆い被さって唇を塞ぐ。悲鳴は口付けに吸われて消えた。

    「ッいや、や……!」
    「……今更、離してやれると思うのか」
    「ンん…っ、や……ッ、ちゃう……アンタが、すすに、血ィ……毒が、アンタが、アンタに……ッ!嫌や、蟲が…蛆の湧くとこ……みたない、いややぁ……ッ!」

    人の言葉の話し方を思い出せない。喉がかすかすと余計な息を漏らす。彼はじっと待つように黙って間近でこちらを覗き込んでいる。その瞳に化け物のような醜い自分が映り込んで滑稽だった。

    「……きれいな、まんまでいてや……」

    縋るような情けない声が出る。彼はすっと目を伏せてこちらの剥き出しの下腿を撫でた。そのかさついた掌が足首に触れると、冷たい金属音が鳴る。どうやら何かが足に嵌っているらしい。蜘蛛の牙だろうか。頭が重くて足元を見られないが、じゃら、と鎖のような音も聞こえた。

    「……生憎だが、それは叶えてやれねえな」

    彼が自嘲したように笑い、またキスをくれる。今度は逃げずにその唇を受け入れた。離れていては息ができない。蜘蛛に頭を喰われていないのは幸いだった。

    「もうとっくに手遅れだ」

    世界が黒に侵蝕され尽くし、ぐにゃりと歪む。いつの間にか自身に腕が生えているのに気付いて、彼を大蜘蛛から隠すように、その首に手を回して必死に抱き寄せる。もっと、もっと近くに。



    ふと、彼が笑った気がした。



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