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    saltabcd

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    saltabcd

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    庭師げんみ❌
    庭師後の乱チャン

     ぱた、とノートパソコンを閉じる。終業チャイムにしては随分と頼りない音だけれど、あたしだけのチャイムはあたしにだけ聞こえればいい。

     時刻は23時。日付が変わる前には寝ておきたいし、先にシャワーを浴びている今日はこれくらいの時間に終えるのが妥当だろう。1ヶ月前まではこの時間まで玲子の情報を探していたから、夜まで画面を眺め続けていても特段疲れることはない。
     明日調べることをふせんに軽く書き留めておき、ノートパソコンの上に貼る。やや左肩上がりの文字は、眼鏡を外した途端にぼやりと滲んで読めなくなった。
     職場での終業時刻からあたしだけの終業時刻までは何時間もある。急に空いてしまったしまったその時間は、持ち帰ってきた仕事やら調べ物やらで埋めるしかなかった。今のあたしは、玲子の死を静かに悼む余裕なんて持ち合わせていない。

     玲子の遺品がひとつでもあれば、それを眺めて過ごす時間は多少できていたと思う。でも、遺品があたしの手に渡ることは終ぞなかった。せめて手帳くらいは欲しかったけれど、あの子に関わる物は事件の重要証拠品として全て押収されてしまっている。悔しさはあったにせよ、駄々を捏ねてどうにかなることとならないことの区別くらいついているから、遺品については大人らしく、大人しく引き下がることにしていた。
     アパートの床を踏み締めたあの日のことを思い返す。手帳のページに乗っかっていたのは、あの頃のミミズが這ったような字ではない。お世辞にもきれいとは言えないけれど、大人の女性の書く字。それがほんの少しだけ左肩上がりだったことが、知らないうちに死んだことにされていたあたしの無力感を抉った。あの日を勝手に思い出して勝手に溜息を吐く夜は、決して珍しく訪れるものではない。

     これを、あと何回繰り返せばいいんだろう。

     と思ってすぐ、口角がにそりと上がる。繰り返せばいい?やらなくていいことをやらされているような言い様に、あたしの口元は自嘲を形作っていた。玲子の中では、あたしはとっくに死んでいた。それを知らされた時、あの子はどれだけ傷付いたことだろう。偽りのあたしの死に傷付いて、ナイフで傷付けられて、死んでなお銃で傷付けられた。姉が自分の遺体を別の人としてずっと扱っていたことも、天国で傷付いていたに違いない。そんなことなどつゆ知らず、あたしは度々くだらないことに時間を費やしていた。そんなあたしがちょっと思い出して傷付く程度、一体何だって言うのだろうか。
     それに、あたしがもっと早く人花教のことを突き止めていれば、玲子を洗脳から助け出せたかもしれない。まゆみんが種を作って渡すこともなかったし、ももちは玲子を撃った罪悪感に苛まれずに済んだし、利根っちはさがみんと今頃幸せな結婚生活を送っていたかもしれない。
     ゼロの不幸は、あたしの怠慢が作り出したもの。それはあの日の夢の中で玲子が教えてくれた、たった一つの事実だった。

     ぱた、と音が鳴る。

     玲子と同じそれが手首から流れ落ちて、ノートパソコンに貼ったうさぎのシールを、赤い水玉模様に彩る。
     派手な色をしたシールが並んでいる中でも、特に気に入っているうさぎのシール。玲子はうさぎが好きだった。
     それをぼんやりと見つめているうちに、自身の行動の愚かさにはたと気が付いて、慌ててティッシュを手繰り寄せる。やってしまった、と、急いでうさぎを拭った。こういうものにやたら聡くて弱い同僚がいるから、うっかり染みを残すわけにはいかない。ティッシュを何度も押し付け、うさぎの模様が完全に消えたことを確かめるとほっと息をつく。全く愚かなことこの上ない。こういうことは、仕事道具を傍にどけてからするべきだろうに。

     ぱたぱた。

     玲子が流した血も、痛みも、こんな程度ではなかったはずだ。唯一の姉が、唯一の妹の傷を背負わないなんてことはあってならない。でもお腹や首にこれを刺したら、多分あたしの身体は出血量に耐えられないから、それはやめておく。もっと深くまで刃を押し込むことも大方危ない。こんなことであたしが死んだら、ゼロのみんながことさら悲しい顔をする。
     ももちは、やっぱり守れなかったと絶望してしまうに違いない。彼は少し弱虫なだけで誰よりも仲間思いな人なんだと、今となってはよく分かっている。自分が南を撃ち抜いたせいで宵影は、とまで思うかもしれない。今度飲みには誘ってみたけれど、妹ひとり救い出せなかったあたしは、ももちに前を向かせるどころか、後ろ向きにさせることになるかもしれない。そんなこと、やってみなければ分からないのだけれど。
     その理屈ならまゆみんも、あたしが自死を選んだ時、玲子をバケモノにした自分のせいかもしれないとなおさら自責することだろう。責任感の強さはまゆみんの格好良いところでもあるけれど、憔悴を穏やかな微笑みで包み隠す様子は、どうも痛ましくて見ていられない。何も知らずに種を作ったまゆみんが悪いなら、何も知らずにのうのうと過ごしていたあたしも悪い。それでもまゆみんは多分、あたしが悪いなんて微塵も思ってくれていないのだろう。
     利根っちは、どうだろうか。想像がつかない。うまく背中を押してやれなかった、なんて思うのだろうか。信頼していた部下に勝手に死なれて、失望してしまうのだろうか。いずれにせよ、利根っちは本当に強い人だから、二度とそんなことが起きないよう努力に努力を重ねて、どんどん先へ進んでいくのかもしれない。
     でも欲を言えば、一番好きな人だから、一番悲しむ顔を見たくないけれど、一番悲しんでほしい。
     何とも身勝手な考えに、また鼻の奥と手首へつめたい痛みが走った。

     ぱたぱたぱた。

     こんなことしたって、玲子との痛み分けになるわけがない。もう玲子は死んだのだし、生きていたとしてもこの行為で玲子の痛みが減るわけがない。あたしは賢いから、それくらい分かっている。
     でも、こうでもしないと、あたしは玲子とゼロへの罪悪感を隠し果せることができない。あたしは馬鹿だから、それくらいしか取り繕う方法が分からない。

     今まで笑っていられたのは、玲子が生きていると信じて疑わなかったから。その希望すら霧散してしまった今は、痛みに全てを委ねるしかなかった。

     あたしが悲しい顔をすると、みんなも悲しむ。ゼロだけではない。うさちゃんもまっすーも。みんなあたしのことが大好きだから、みんなの前では笑っていたい。笑っていれば楽しくなれるはずだと、昔から玲子にも自分にも言い聞かせてきた。
     笑っているために、あたしは背負わなきゃいけない。玲子と、痛みを分かち合わなきゃいけない。分かち合った気になって、救われた気にならなきゃいけない。ゼロのみんなの苦しみも一緒に背負えたら、とまで考えるのは多分、おこがましいことだけど。

     ぱた。ぱたぱた、ぱたぱたぱた。

     催促するように、終業のチャイムが鳴り響いた。今日はこの辺りにとどめておこうと、カッターナイフを手首から離す。
     ここからは残業の時間になる。空になったティッシュ箱を抱えて、新しいティッシュ箱と救急箱を取りに行かなければならない。机の上を綺麗に拭き取って、傷口を軽く乾かしてからガーゼを当てておくのだ。処置が早くて的確であれば、傷跡もずっと目立たずに済む。
     立ち上がりながら空箱を潰していると、赤い線の走った手首がふと目に入って、唐突に後悔の念が押し寄せてきた。
     
     シャワー、後にしとけばもっと痛くなれたのに。

     どうしようもないあたしの贖罪は、あたしが下手くそな笑顔を貼り付けている限り続くのだろう。
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