似合いの手「この仕事、辞めようと思うんだ」
一度組んで仕事をして、二度目の仕事が終わったその後で、唐突にそう言ってきた五つ歳上の男の顔をまじまじと見やり。まだ『檸檬』とは名乗っていなかった十代の頃の檸檬は、一重の目を丸くした。
「あんたのことなんだから、好きにすればいいだろ。何で俺に言うんだよ」
真夜中、公衆便所の手洗い場で血に汚れた手を洗いながら、檸檬は口をへの字に曲げた。と言っても、男の言葉に不満があるわけでも、残念に思ったわけでもない。ただ、爪の間の汚れがなかなか取れず、少しばかりイライラとしていただけだ。
「辞めると言った俺のことを、君が始末したりするのかな」
「だから、何で俺が。金も貰わないのに、そんな面倒くせえことするかよ!」
「だよな」
少し頬が痩せ、落ち窪んだ二重の目のせいで年齢以上に老けて見える男が、鏡の中の檸檬に笑いかけている。僅かに口角が上がっている口元には少し影が落ちているけれど、この男はなぜかいつも寂しげな表情をしていたので、檸檬は特段気にもしなかった。
「タオル、使うかい?」
「サンキュー」
工務店の名前と電話番号が入った真新しいタオルを檸檬に寄越した男の手は、小柄な体型に似合わず指が長く、ひょろりと背が高い檸檬の手の大きさと比べてみても大差ない。けれども、指先のカーブに沿って丸く切られた爪の形のせいか、檸檬の手とは違って繊細な雰囲気もあった。
無骨で冷たい銃はあまり似合わない手だな、ああだからこの仕事を辞めたいのか。だなんて、檸檬は思いながら、男の手から新品のタオルを受け取った。
すっかり忘れていたその男の姿を檸檬が目にしたのは、それから半年ほど経った頃だった。回収業者が乗ってきたハイエースのバックスペースに始末したモノを積み込む手伝いをした時、おざなりに包んだブルーシートから手足をはみ出させている死体がそこに置かれていた。刹那、檸檬の記憶が蘇ったのだ。
相変わらず、綺麗に爪が整えられている長い指。右足の靴は脱げてしまったのか、親指の先に穴が開いている灰色の靴下のみで、もう片方の足は踵を踏み付けた薄汚れた生成り色のローカットコンバースを履いていた。傷口から流れ落ちたのだろう。シューズの甲に散っている血の跡を見つけた檸檬は、まだ半ばでぼとりと虚しく地面に落ちてしまった線香花火の紅い玉を思い出した。「俺と仕事をしたときは、もうちょい金を掛けた気の利いた格好をしていたのにな」と思いながら檸檬はブルーシートを少し捲り死体の顔を確かめる。瞬きをする途中みたいな両目は薄い水の膜で覆われていて、何だか悲しい夢でも見ているように思えた。檸檬はしばらくその場に佇み、血の気の失せた黄色っぽい顔を眺めていたが、やがて(これでもう、仕事を辞められるじゃんか。良かったな)と胸の中で呟くと、ブルーシートを元に戻した。
(コイツも、こんな仕事は辞めたいと思ってるのかな)
初めて蜜柑と二人で、仕事をした日のことだ。待ち合わせ場所である駅前広場に設置されているベンチに座り本を読んでいた蜜柑の手を何気なく見やった檸檬は、声を掛けるよりも先に、そんな事を考えた。爪がきれいに切り揃えられたその長い指を見て、よく似た手をしていた男を思い出したのだ。
けれども、それから数時間後に仕事を終えたときには、檸檬はそんな想像をした事などすっかり忘れていた。というのも、物騒さとは無縁で繊細そうに見えた蜜柑の指先は些かの躊躇いも見せずに無骨な銃の引き金を淡々と引き続け、表情一つ変えることなく目の前に立ち塞がる男たちを手際よく始末していくのを目の辺りにしたからだった。終わってみれば蜜柑の足元に転がる死体の数は、檸檬の周りにあるそれよりも、一体多かったぐらいだ。
「何だ?」
仕事を済ませ、仲介業者にその報告もし終えた蜜柑は、携帯電話を持つ自分の手にじっと視線を寄こしてくる檸檬の顔を、訝しそうに細めた目で睨みつけた。けれども檸檬は蜜柑の鋭い眼差しに怯むどころか、夢中になって砂場に穴を掘っている子供のように口をつんと尖らせている。
「なあ、お前さ。本と銃、どっちが好きなんだ?」
「なんだその質問は」と顔を顰める蜜柑を、檸檬は返事を促すように黙って見つめている。その目にあるのは、何の思惑もない無邪気な好奇心だけだった。蜜柑はそれを見て取り、ため息を一つ吐いた。
「俺は、本は好きだ。けど、商売道具である銃は好き嫌いで分類するもんじゃないだろ。更に言えば、どちらが好きかだなんて比べる話でもない」
「だよな。俺もトーマス君は大好きだけど、銃を持つのはそれが無いと仕事にならねえからで、銃が好きだからってわけじゃねえ。お前も俺と同じってわけだ」
檸檬は血で汚れた手を、真夜中の公園の水飲み場で洗いながら「なるほどな」と満足げに頷くと、水道の蛇口を閉め、濡れた手を左右に振って滴を飛ばしてからチノパンの尻のあたりで両手を拭いた。
「お前が辞めなければ俺たち、また一緒に仕事をやるかもな」
驚いたように軽く目を見開き、何か言いたげな表現をしている蜜柑の顔を横目で見やった檸檬は「悪い話じゃねえだろ?」と、白い歯を見せ愉しげに笑った。
(終わり)