「いつまで笑ってんだよ」
「わらってないよぉ…」
「どっからどう見ても笑ってんだろ」
肩を震わせひぃひぃ言いながらも、チェカは必死に笑い声を噛み殺していた。ベッドに腰かけて笑い転げるチェカのすぐ目の前には、呆れや怒りの陰にほんの少し恥ずかしさを覗かせたレオナが立っている。
二人の寝室で、二人が向かい合って話しているなんて、よくある日常の一コマだった。ただ一点を除いては。
「ったく。満足したならもういいだろ」
「待って!やだやだ!まだ満足してないから!だからまだ脱がないで」
「なんでだよ」
服を脱ごうとするレオナの手をチェカは必死で捕まえて、もう少しだけと急に弱弱しい声で懇願した。そしてレオナの姿を見て、もう一度にんまりと笑う。
そんなチェカの態度に機嫌を損ねましたとでも言いたげに、レオナはぷいとほんのり赤くなった顔を背けた。いつもの光景だが、一つおかしいのはレオナの着ている服。明らかにサイズの合っていないそれは、チェカの学生時代の真っ白な制服だった。
レオナも白い服は普段も愛用しているが、学生服となれば話は変わる。もう卒業して何年も経ったレオナが着れば当然違和感が生まれる。
しかも大分サイズが合っていないため、あちこちに皺を寄せ隙間を作っているのがわかる。レオナが緩めな服が好きだとは言え、あえて緩く作る服とは違い、体のラインに合わせた制服が皺を作るのはどう考えても不自然なのだ。
「せっかくだし、もうちょっとちゃんと見せてよ」
「さっさとしろよ」
ベッドに腰掛けながらレオナの両手を握り、制服を着た姿をしっかりと眺めた。立襟が首元を隠していて、それがどこか禁欲的で。普段との差にチェカは溜息を漏らした。
どうしてこうなった、とレオナは内心悪づくが、経緯は至極単純だった。数時間前、チェカがレオナの背を越したのはRSA入学して1〜2年の頃だったと言ったのが始まりだ。それにレオナが3年か卒業近くなってからだっただろ、と返したものだから軽い言い合いになった。男として体格が上と言うのはやはり譲れないポイントの一つだったから、たった1年の差でも二人にとっては重要だった。
けれどチェカが卒業して数年経った今、この言い争いを確かめることは中々に難しい。すでに今のチェカはレオナの背も体格も、比べるまでもなく上回っている。どう決着をつけるべきかと悩んだとき、チェカが声をあげた。
「あ、僕が2年の時の制服をレオナさんが着れば確認できるよ!」
「……は?」
何を言ってるんだと、レオナは眉をひそめる。けれどチェカはいたって本気のようだ。あっという間に侍女に自分の制服を持ってこさせて今に至る。
「色々残ってるの恥ずかしくてちょっと嫌だったけど、こういう時には便利だね」
王族愛用の物はペンやら何やら一見なんでもないものまで、保管、そして物によっては展示されてしまう。制服も同様に大切に保管されていたのだ。
そんな意味のわからないことを思いつくことにも、すぐに持ってこさせてしまう行動力にも、レオナは脱力し言葉をなくしジッと睨むしか出来なかった。
「これⅡってなってるからちゃんと2年の時のだね。ということは、やっぱり2年の時には僕のが大きかったってことでしょ?」
「うるせぇな。現役の時とはもう厚みも違うんだよ」
「もぅ、意地っ張りなんだから!」
確かに学生時代に比べて、チェカもレオナも体格は変わった。毎日のように部活に明け暮れていた成長期の子供と比べれば、日々机に拘束されてしまう現在とでは当然筋力も体力も変わってしまう。けれど無駄な部分が削げ、レオナは更に美しさに磨きがかかっているともチェカは思っていた。
実際着ていないはずのRSAの制服を着たレオナ。想像したことはある。自分の母校のOBとしてレオナがいたらと何度か夢想した。もしOBだったのならば、部活に顔を出して直接指導してもらえたり、伝説と今でも言われる彼のプレイをこの目で見れたかも知れないのに。もう少し産まれてくるのが早かったら、いやそうしたらこの今状況はないのだから、とチェカは何度も思い直した。
けれど今目の前にいる。真っ白な穢れのない色を身に纏う気高き獅子。彫りの深い顔、均整のとれた骨格、そしてその完全なる造形を完成させる憂いを帯びた目元に走る一本の傷。物語の中の幻想の王子のような人。多くの感情を白い布の奥に隠しこんで、誰にも見せずに。こんな夢か幻のような人が本当にいたら、きっと多くの人を惑わせる。多くの毒を孕んだあの学園だからこそこの魅力を隠せたと考えたら、それも良かったのかもしれない。
「NRCの制服もカッコ良かったけど、こっちも似合ってる。すごく素敵」
「そうかよ」
「しかもRSAのレオナさんが見られたのが僕だけなのも嬉しいな」
「なんだよ、それ」
「だってこの姿は他の誰も見てないんだよ?僕だけ特別」
「特別も何もないだろ、こんな」
ただケンカの流れで着ただけで、こんな風に褒められて熱いまなざしで見つめられるなんて、レオナは考えてもいなかった。さっきの勢いはなんだったのか。キャンキャン言っていたはずなのに、今は嬉しそうに目尻を下げ尻尾をぱたんぱたんと動かしている。
じっと見つめられるのに耐えられず、レオナは繋がれた手を片方無理やり離し口元を隠した。持ち上げた手は袖が余っていて指先まですっぽり埋まってしまっている。その子供みたいなバランスの手元がまた可愛くて、チェカはにこにことレオナの動きを目で追った。大きな袖口から細い指を覗かせて、口は隠せても赤らむ頬はそのままにレオナは視線をあちこちとさまよわせ落ち着かない様子だった。さっきまで威勢の良かった耳も、今は少しずつぺたんと寝始めてしまっている。
「……っ」
急にレオナの耳がピンっと立ち上がる。全身にも力が入るが、さすがと言うべきか、表情はほとんど変わりなかった。きっと目の前にいたのがチェカでなければ、その変化にも気付かなかっただろう。
逃げ出しそうなほどそわそわと落ち着かないレオナだが、片手はまだチェカに掴まれどこかに行くことも着替えることもできない。少し体を捩り何とか制服が見えないようにしているが、それも無駄に終わってしまう。
「ねぇ、レオナさん」
ただレオナのことを観察していたチェカが急に口を開いた。そんな声にすら、レオナはぴくんと反応する。きょろきょろと忙しく動く視線はチェカと絡むことはない。口元から袖が外れることもないので、表情も良く見えない。ただ掴まれた腕にはわずかに力が篭っていた。
レオナの手を握ったまま、チェカはゆっくりと立ち上がりレオナの背後に回った。並んで立てば、今はもうレオナのつむじを見下ろすことができるようになった。見上げていたはずの叔父が、いつからこうして全て見られるようになったのだろうと思い返す。
レオナさん。もう一度名前を呼んで、後ろからふわっと抱きしめる。腕の中で布地が折れ重なって、中々レオナ自身の感触がチェカの腕に届かない。ぎゅうっと少し力を込めてもレオナの体が遠くて、それが寂しくて抱きしめる力がどんどん強くなった。
「おい、チェカ…」
「ねぇ、レオナさん…?」
「な、んだよ…」
「僕の匂い、したの?」
返事はなかった。けれど、強張る体が声よりもわかりやすくその答えをチェカに伝えた。綺麗に洗われて洗剤の香りに包まれている制服だったが、鼻先へと持っていけばかすかに染みこんだ香りが拾えてしまったのだ。
獣人の嗅覚はこういう時は厄介だとレオナは思った。無意識でもわずかな香りを拾い、それが何なのか、誰なのかもわかってしまう。
生地の奥、繊維に残った微かな香り。それは良く知ったチェカのものだったが、チェカのものではない。今のチェカとはまったく違う香りだったのだ。当時はこんなに近い距離になることも少なかったから、レオナはすっかり忘れていた。
「制服からさ、僕の匂い。した?さっき口元に袖持っていった時」
「し、らない…」
「そう?じゃあ覚えてる?この制服着てた時の僕の匂い。今よりは若かったしね」「……さあ」
「じゃあ、もう一つだけ。今あなたを抱きしめてるのは、どっちの僕?」
はっと息を詰めて、レオナの体が更に硬くなった。普段はあんなにポーカーフェイスなのに。チェカのそういった意味の言葉には、子供みたいにわかりやすい反応を返してくるのが可愛くて、チェカは大好きだった。自分だけに見せるこの素直な反応が。
え、あ、と口ごもって、それからまともな答えは返ってこなかった。そんな素直な反応が可愛くて愛しくて、チェカは更に腕の力を強めてしまう。
ぎゅうと抱きつく時に首元に顔を埋めていたので、レオナの肌も髪もすぐ目の前だった。そして先ほどから鼻先をレオナの汗の香りが、ほんのりと漂っている。暑くもない部屋で。でもたしかに甘いレオナの香りに、混じっている。
「この制服を着ていた僕?それとも今の僕?」
「ど、…っちって…」
「今あなたの体を優しく包んでるのは、学生時代のまだ幼い僕だよね。若くて、まだまだ青い学生の僕。そして今あなたを放すまいと抱きとめてるのは、あなたしか見えなくなった今の僕。ねぇ、あなたは今、どっちに抱きしめられているの?」
「そ、れは…」
「おしえて」
振り向き見上げてくるレオナの瞳は、うっすらと張った涙でぼんやりと揺らめいている。不安と期待とで自身の心をぐちゃぐちゃにして。普段は見せない感情がどろりと溶け出して、幼さも賢さも全てない交ぜにして。チェカだけに欲求を見せてくる瞬間が、チェカにとってたまらない瞬間だった。
「……あ。そ、れは…」
「うん。それは?」
はくはくと唇は動くのに、レオナの声はそれ以上出てこない。まつ毛の先で涙が小さな粒を作り震えている。
可愛い。可愛くて可愛くて、チェカは今すぐこの毒のように甘く酔わせるものを頭からこくんと飲み込んでしまいたくて、抱きしめた指先が震えてしまった。きっと伝わってしまっているかもしれない。チェカはそう思ったが、言ってしまえばここまでが「いつも」なのだ。
口角が持ち上がりそうになるのを必死で抑え、レオナの耳元にそっと呟きかける。
「ねえ、教えて?レオナ先輩」
優しく、そう呟けば、小さな耳がふるりと揺れた。聞こえていると、そう教えてくれる。チェカはもう一度顔を覗きこんだ。真っ赤に色づく顔が、迷いもなく真っ直ぐにチェカを見つめている。 チェカは次の言葉を待った。レオナの答えを、希望を聞き逃さぬように。
「ちぇか…、俺は……」
真っ赤なジャムを塗りたくったような、甘い甘い言葉が今夜も小さな口から吐き出された。
――さあ、今夜のお望みは?
チェカはその言葉にもう口端が歪むのを止められなかった。溢れ出す唾液をこくんと一度、飲み込んだ。もうこの甘い味が忘れられないのは、レオナだけではないのだから。