俺と目薬と202号室 廊下に人けが無いのを確認してから、速やかに自室を出る。202号室の前に素早く到達し、ドアを控え目にトン、トン、と叩いた。
「どうぞ」
中から聞きなれた声が静かに応えてくれて、俺はドアを開け、顔だけ覗かせ室内を伺った。
「ん、海堂か。どうした」
部屋の中には乾先輩がひとり。勉強机の前に座って、こちらを振り向き穏やかに微笑む。ちょっとホっとしつつ、中に滑り込んでドアを閉める。
「……ほかの、先輩方は……」
「ああ、千歳はいつもの徘徊、観月は徘徊する千歳を探しに出かけたよ」
「柳さんは……?」
「何でも切原がドングリを拾いに行ったまま戻ってこないらしくてな、探しに出かけたよ」
「みんな、誰かを探して……」
「そうだな、人は皆、誰かを探して生きているのかもしれないな……」
「?……ッス」
ちょっと言ってる事がよくわからないが、いちいちツッこんでたら話が進まない。この人にはよくあることだ。俺は座っている先輩の真横に立って、顔を少し彼に近づけた。
「風呂上りか」
「ッス」
「なんだ?何か相談事でも……近いな、どうした。甘えたい気分なのか」
「んなワケねー、ないっしょ……。ちょっと、俺の左目、見てください」
「ん……?ああ、少し下まぶたが腫れているな。白目も充血している。ものもらいか」
「……今日、朝から、ちょっと痒くて」
「ふむ」
「夕飯のあと、医務室行ったら、雑菌が入っただけだろうって」
「そうか。擦ってないか?」
「ハイ、我慢したんで……。んで、コレ」
「ん?」
スウェットパンツのポケットから、おずおずと目薬を取り出した。医務室で処方してもらった小さな容器。普段目薬を使う習慣のない俺には、自分専用の目薬など初めての事だ。先輩が反射的に手を差し出してくるので、そのでかい手のひらに容器をそ、と置いた。
「……温まってるな。海堂、目薬はなるべく温めないように涼しいところに置いておくものだ」
「そうなんスか。知らなかったッス」
「で?俺に渡されても困るが……。あ、成分でも調べてほしいのか」
「……じゃ、なくて……」
「医務室で処方されたものなら何の心配もないと思うぞ。ほら」
「……えと……」
「ん、前髪が目にかかりそうだ。風呂上りもバンダナで髪を上げておけ。……どうした海堂、海堂?」
前髪をそっと掻き上げてくれる手を俺は思わずガッ、と掴んだ。しょうがねぇ、恥を忍んで頼むしかねぇ。覚悟を決めて先輩の手首を強く握りしめた。
「先輩ッ」
「な、なんだ……お前さっきから近いぞ。あっ片目が利かなくて距離感がおかしいのか?」
「じゃ、なくて……!」
先輩の手を離し、意を決して二段ベッドの下段、誰のベッドかわからんが勢いよく飛び込んで仰向けに寝転んだ。
「ん⁉どうした海堂、急に眠くなったか⁉そこは確かに俺のベッドだ、鼻が利くな。少し仮眠でも取っていくといい」
「乾先輩ッ!」
「なんだッ」
「目薬、さしてくださいッ!オナシャスッ!」
「……」
♡♡♡
「成程。お前は視力もいいし目が疲れるほど活字を読む習慣も無いから、自分で目薬をさした経験がない、と言う事か……。俺など常に眼精疲労に悩まされているから目薬は必需品、故にそんな人種がいるなど思いもしなかった。世の中にはまだ、俺の知らないことがたくさんあるものだな……」
「同室のヤツらに聞いたら、みんなそうだって……」
「実に興味深いデータだ。興奮してきたぞ。確かに千歳が目薬をさしている所を俺は見たことがない。観月と蓮二は近眼ではないものの、データマンの宿命たる眼精疲労と隣り合わせだから目薬くらい持っているはず……。この合宿所全体の目薬使用率と視力との関係を調べてみる必要がありそうだ。海堂、礼を言うぞ。さっそくデータを集めに」
「ちょ、待ってくださいよッ。データはあとにしてくださいッ」
「あっ、そうか、そうだったな。では俺が目薬をさしてやろう」
「お願い、します……」
風呂上り、何度か自分でやってみようとチャレンジはしてみたのだ。しかし目を開けたまま液体が落ちてくるのを見るのが……正直、こわい!容器の先端がこっちを向いている時点で無理だ。しょうがないから目をつぶって適当にさしてみても、薬液はまつ毛を濡らして頬を伝うだけ。この調子ではすぐに中身が空になってしまうだろう。
「ガキの頃、ものもらいになった時は、母親がやってくれてたの、思い出して……」
「そうか。任せておけ。しかし毎回俺に頼むのでは支障があるだろう。自分でもさせるように一緒に練習していこう。いいな?」
「ッス」
「よし、早速やってみようか。来い」
「えっっ」
寝転ぶ俺の隣にどさ、と座り、膝をぽんぽんと叩く。は⁉膝枕……?
「ちょ、さすがに、それは……」
「……」
ぽん、ぽん。メガネを光らせながら無言で膝を叩く。圧が強い。しかし目薬について俺は全くの素人だ。なんか、やりやすい姿勢とか、そういうのがあるのだろう。仕方がねぇ、「失礼シャス」と小さく呟いて、逞しい太ももに頭を載せた。
「ぅぐ……」
「どうだ海堂、俺の膝枕は」
「ちょ、高さがありすぎて、首が痛ぇス……」
「ふむ、この合宿に来てからというもの俺の大腿四頭筋、すなわち太ももの筋肉はますます強化されているからな。まあ少しの辛抱だ。リラックスして俺に任せておけ」
「ハイ……、ッ、ちょ、いきなりですかッ⁉心の準備がッ」
「蓋を開けただけだ、じっとしていろ……。よし、では行くぞ」
「目、見開いた方がいいスか」
「いや、普通にしておけ。俺が下まぶたを押えているから、まばたきも特に我慢しなくていい」
「……」
「……」
息を詰めてその時を待つ。静かな部屋の中、すー、はー、先輩の呼吸がやけに大きく聞こえる。窓の外で「デッケェ~~~どんぐり!」という甲高い叫び声が聞こえた気がしたがあれは切原だろうか。ていうかまだか。目薬ひとつさすのにどんだけ間を溜めるんだ。
「……乾先輩」
沈黙に耐え切れず口を開いた時だった。俺がちょっと目線を上にあげた瞬間を逃さずに、薬液が眼球にピチョン、と落ちる。冷たい。気持ちいい。しかし、沁みる――。
「ぐぁぁぁあ~ッ!」
「大成功。上まぶたにも下まぶたにも触れず、我ながら実に無駄のない目薬さばきだった」
「目薬さばきって何だよッぐぅッ……」
「目薬というのは正しくさせば何滴も垂らす必要はない。一滴で充分な効果が得られるものだ」
「そうスか。そんじゃ、ありがとうござい……」
「待てッ!!」
腹から響くような大声に、起き上がろうとした俺はすぐに仰向けの姿勢に戻った。試合が白熱した時ですらそんな声出さねーだろ、何だこの人……。
「な、何スか先輩」
「シッ!動くな。目を開けるんじゃあない。薬液を充分眼球に染み渡らせるには、目薬をさした後しばし目を閉じていないと充分な効果が得られない。それが正しい目薬作法というものだ」
「そう、なんスか……」
「なに、ほんの数分じっとしていればいい。どうだ、効いてる感じがするか?」
「あ、ハイ、最初はちょっと沁みたけど……痒みが治まる感じで気持ちいいっす」
「ふむ、朝晩二回ほどさせば良いとは思うが、お前が自分でさせる様にするにはさてどうすれば……」
ガチャ、とドアの開く音が聞こえて俺は反射的に起き上がろうとしたが、即座に額を押さえつけられてしまいそれは叶わなかった。
「目を開けるんじゃあない!せっかくさしたのに台無しになるだろうッ」
「ぐッ」
「む、どうした海堂。先輩の膝枕でうたた寝とは随分ご機嫌な夜だな」
この声は柳さんか。まずい所を見られてしまった……。俺は別に先輩の膝枕に甘えに来たわけじゃねぇ。しかし目薬がさせないから先輩にさしてもらったというのも何だか結局甘えてるみたいだよな――。結局何も言えず動けず目も開けられない。とにかくこの目の痒みを治す事が先決だ。俺は「こんなの珍しい事じゃありませんよ」という体(てい)で押し通すことに決めた。
「……どもッス」
「蓮二。切原は見つかったのか?」
「いや、声はすれども姿は見えず、と云った所だ。放っとけば部屋に戻るだろう」
「面倒になって帰って来たんだな」
「そうとも言う。……海堂、ホームシックか?」
「んなワケねーッ、ないっしょ……。俺はただ……」
「まあそんな所だ」
「乾先輩ッ」
「じっとしてろと言うのにッ」
「ぐ……」
ぎし、と音がしてベッドのマットレスが沈む。どうやら柳さんも腰掛けて俺の顔を覗き込んでいるようだ。何だこの空間。早く浸透しろ目薬……!
「こうして見ると、マムシと称される海堂もあどけないものだな」
「そうだろう」
「まるで幼な子のようだ」
「まったくだ」
うるせぇ~~~~!なんで乾先輩得意げなんだよ……。その時またしてもガチャ、とドアの開く音がして、俺はもう何だか色々諦めた。
「千歳くんッ!待ちなさいったら……。おや海堂くん。先輩の膝枕ですか?いいですねぇ」
「ぐッ……」
「何ね~海堂、甘えん坊っちゃねぇ~!よかよか、まだ子供たい。そんな時もあるばいね~」
「くッ……!」
「観月。千歳を無事捕獲できたようだな」
「柳くん。千歳くんはおたくの切原くんと二人でドングリ拾いに精を出していましたよ。彼も満足して部屋に戻ったようです」
「そうか。それは良かった」
「た~くさん拾ったばい。そうだ海堂、一番でっかいドングリやるったい。ほれ」
いらね~~~~!
「あっ千歳くん待ちなさいッ。ドングリはまだポケットに仕舞っておきなさいよッ。乾くんビニール袋ありませんか」
「ん、机の引き出しにストックしてある。自由に使うといい」
「ほら千歳くん、ポケットいっぱいに詰め込んだドングリ、この袋に全部入れて。間違ってもそのままどこかに放置しないでくださいよ。虫が湧いて部屋がとんでもない事になります。先ず綺麗なものだけ選別して、煮沸消毒をしてからしっかり乾かさないと……」
「観月はドングリに詳しいな」
「めんどくさか~。拾ってこらんかったらよかった」
「じゃあ元の場所に戻して来なさいッ!」
「えぇ~」
うるせ~~~~!結局全員戻って来ちまった。クソ、何としてでもこれからは自分で目薬させる様にならねぇと……。
「まあまあ二人とも。海堂のかわいい寝顔でも見て落ち着け」
「ハァッ⁉」
「動くなというのにッ」
「交代でここに座るといい。心が洗われるようだ」
「サンキュー柳くん……。本当、まるで幼な子の様ですねぇ」
幼な子幼な子うるせぇ~~~~!
「どれどれ。ハァ~ん、むぞらしかねぇ~。赤ん坊のごたる」
ついに赤ん坊になっちまったじゃねぇか……!その後もこの変な三年生たちは俺を囲んで飽きもせず可愛いだの天使だのふざけた事を抜かして、皆の気が済んだと思われる頃に「よし、そろそろいいだろう。目を開けろ」とようやく乾先輩からのお許しが出た。
「……、アザした、失礼シャスッ!」
目を開けるなり跳ね起きて、脱兎のごとく部屋を飛び出した。柳さんも観月さんも千歳さんもスゲー至近距離で俺のこと見ていたな……。何だこの部屋、二度と来るか!しかし目薬を乾先輩に預けたままだったので、俺は翌朝ふたたびここに舞い戻る事になるのである。
自室に戻ると切原がデッケェどんぐりを得意げに部屋にぶちまけていたので、俺は「ちゃんと煮沸して乾燥させねぇと虫が湧くぞ」と親切に教えてやった。めんどくせぇから戻して来るわ、と千歳さんと同じ反応を見せるかと思いきや、切原は「わかった!」と素直に頷いた。