『お手をどうぞ、賢者様』 魔法舎に灯る明かりのひとつに、フィガロは音を立てずにそっと近づく。
カーテンに遮られていない窓からは、部屋の中で賢者の書に何か書き込む晶の姿が見えた。
よく考えながら記しているのだろう。フィガロには読めない彼の世界の文字を書く手を時折止めて、考え込むように顎に手を添え本を見つめる。そして書き込む内容を決めると、すっかり扱いが上手くなった羽ペンにインクをつけて、滑らかに紙面を走らせた。
しばし真剣なその様子を眺めていたフィガロは、ふう、と晶が一息つこうとしたところで窓を軽く叩く。
「こんばんは、賢者様」
すぐに音に気がつき窓に振り返った晶に、ひらりと手を振り声をかける。しかし返ってきた反応は何度か瞬くばかりで、姿が見えていないのかとフィガロは小さく首を傾げた。
「賢者様?」
もう一度名を呼んだところで、やや遅れてようやく状況を理解したらしい晶の顔色が変わった。
さっと顔を強ばらせると、握っていた羽ペンを放り出して慌てた様子で窓に駆け寄る。
「フィガロ!? ここ二階ですよ!?」
飛び込んだ勢いのまま窓を開けた晶は、フィガロの全容を見て箒の存在を見つけると、ゆるゆると肩の力を抜いていく。
安堵に包まれたその顔には、そういえばフィガロは魔法使いだった、とわかりやすく書いてある。
動揺を取り繕うように、こほんと咳払いをひとつして、晶は照れ隠しのぎこちない笑顔を浮かべた。
「こんばんは、フィガロ。こんな時間に箒に乗って、どこか行くんですか?」
「夜風にでもあたりたろうかと思ってね。まだ行き先は決まってないんだ」
陽が落ちて久しく、子供たちならすっかり眠りについている時間。
月明かりがあるとはいえ、昼間のように辺りを照らす強い光はない。けれどもフィガロは魔法使いだ。明かりがなくてもこの身ひとつで呼び寄せることができるし、箒に跨れば月明かりの下どこまでだって飛んで行ける。空高く飛べば遮るものも、邪魔する者もいない静寂を支配できるのだ。
夜は部屋でゆっくり酒を舐めるのもいいし、バーに顔を出して誰かと談笑混じりに酌み交わすのも好きだ。けれども時折こうして夜の世界に入り込むのも悪くない。そういうときはいつも一人で宛てもなく箒を流してさすらうのだが、今日はほの暗い世界の中に光を見つけてしまった。
「賢者様もどうだい? 息抜きも必要だよ」
真面目な賢者様は"こんな時間"ですら、せっかくの一人の時間をくつろぐことなく、この世界と向き合っている。それはこの世界の住人として、<大いなる厄災>と対峙する魔法使いとしてはありがたいことなのだろう。
けれども懸命に賢者をする晶を見ていると、邪魔をしたいわけではないのに、こちらを向かせたくなる。
賢者の書など放っておいて、今のひとときくらいは、目の前の自分を意識して欲しかった。
先程、二階の窓に現れたフィガロに驚き咄嗟に心配してくれたのことに思いのほか心地よさを覚えたからかもしれない。唐突に芽生えた我儘とも言える気持ちを、彼を労わるもっともらしい言葉に変える。
フィガロの提案に、晶はそう迷うことなく頷いた。
「ぜひ、ご一緒させてください。……あ、ちょっと待ってくださいね」
踵返した晶は、床に落ちた羽ペンを拾い丁寧に机に置いた。書きかけの賢者の書に栞を挟み、本を閉じる。
椅子に掛けていた上着を羽織り、再び窓の傍に寄ってきた。
「お待たせしました」
窓台に膝を置き、窓枠に手をかけたまま身を乗り出す。
ふわりと漂う風が晶の髪を優しく撫でると、二階の高さを意識したのか、少し不安げな顔になった。
安定した地面が遠い場所から箒に乗るのに勇気がいるのだろう。
フィガロは箒を窓の近くに寄せて、晶に手を差し出す。
「賢者様、お手をどうぞ」
「――ありがとうございます」
差し出されたフィガガロの手に、そっと晶の手が重なる。それをしっかりと掴み、晶が箒に足を伸ばす前に口に馴染んだ呪文を唱えた。
「≪ポッシデオ≫」
「え、わっ」
魔法で晶の体は重力を無視してふわりと浮き上がり、そのままフィガロの後ろに跨った。
完全に箒に体重がのったところで、ちょっとしたフィガロの悪戯に咄嗟に力が入った手を緩めて、晶は詰めていた息もそっと吐き出す。
「……手を貸してくれる必要、あったんでしょうか」
「まあ、あったんじゃないかな」
繋いだままの手をにぎにぎと遊ぶように握り、真っ赤になった晶に満足して、その手を自分の腰に回させた。
「さあ、しっかり掴まっていてね。賢者様」
箒は滑らかに上昇していく。
昼間は豊かな緑がわかる自然の景色はなく、近づくほどに熱を感じる光もない。鳥たちもどこかで羽を休めていて、生き物の気配も感じられない。
ゆるやかに風が流れる音と、重なった体から互いの息遣いと体温が感じられるだけ。
「静かですね」
「そうだね。賢者様の世界はどんな夜なの?」
「俺のいた世界は、夜も明るいんですよ。魔法はないですけど、その代わり電気などを使った科学が発展していて、どこにでも灯りがついていました。そうそう、眠らない街、何て言われる場所があって――」
適当に箒を走らせながら、この世界の大半を知るフィガロでさえまったく知らない世界を語る晶の言葉に耳を傾ける。
たとえ楽しむ景色もなく、行き先も目的もないただ穏やかなだけの時間。
思い出を語る楽しげな晶の声は自分にだけ向けられているものだ。他の誰もいない、フィガロだけのもの。
それを聞きながら、時折疑問や質問を口を挟みつつ、フィガロは賢者とふたりきりの夜のひとときに満たされ微笑んだ。