形なく縛る「なあ、今日は泊まって行けよ」
私の腰に腕を回し、腹に顔を埋めて悟が甘えた声を出す。言葉と一緒にかかる悟の息は熱い。じんわりと湿った温度を感じながら一言「ダメだよ」と答える。
いつも終わったあとは酷くだるい。さっきまで悟を受け入れていたはずの身体は、急に何かが欠落してしまったようにスカスカした。
どんよりとした倦怠感の中で、私はすでに明日の予定に思いを馳せる。午前中は授業で、午後からは任務だ。そう遠くはないが車を小一時間走らせた先にある、古い洋館に棲みついた呪霊の祓除。確か難易度は高くないが、長らくその場に棲みついており狡猾で地の利を持っているため注意されたし、と渡された資料に書いてあった。
「ケチ」
にべもなく断られ、悟は頬を膨らませた。もういい、と私の腰に抱きつくのを止めそっぽを向く。唇を尖らせて、その後頭部は私の言葉を待っている。
「……悟」
名前を呼んで、膨らんだ柔い頬を人差し指でつつくと、フグのようだった頬がぷしゅーと萎む。尖らせた唇はそのままに、
「じゃあ、俺が傑の部屋に行っていい?」
と悟は言った。
「それもダメ」
「なんで」
拗ねた瞳がこちらを向く。
「最初に決めただろ」
この関係になった時点で決めた。コトが終わったあと、必ず自室に戻ること。翌朝、お互いの身体を貪りあったことなどすっかり忘れたような顔をして、誰にも悟らせずやり過ごすこと。
身体を重ねる際、悟の部屋は都合がよかった。角部屋で、唯一の隣部屋は私の部屋だ。どんな声が漏れようが、音が響こうが、大きな音を立てないよう注意を払えばよほど周囲にばれることはない。
何がどうなってこんな不健全な関係にもつれ込んでしまったのか、もう記憶が定かではなかった。
ただ、お互いに気持ちのいい、身体だけの関係にしよう、そう約束した。
悟に意地悪をしているつもりはない。それは最初に決めたことで、私はただ遵守しようとしているだけだ。そもそも、「身体だけの関係にしよう」と最初に切り出したのは悟の方だ。
そう切り出されたとき、私は自分の胸に広がる安堵に気づいてハッとした。手酷い裏切りにも思えた。
「だって……」
赤ん坊がぐずるかのように悟は言った。おねだりみたいに挑発的な目が私を見上げる。
「だって?」
「もう戻っちまうんだろ?」
身体中、私と悟の体液でべたべただった。ただでさえ悟は行為の最中、私の身体のあちこちを舐めたり、歯を立てたりするのが好きらしく悟の唾液まみれだ。シャワーを浴びたらそのまま自室に戻るつもりだった。
「まあね」
ピロートークがお望みかな? と軽口を叩くと、不意に悟が体を起こし素早く私の左手を絡めとった。指先に唇が触れたと思うが早いか、指の付け根に鋭い痛みが走る。「あっ」と声が漏れてしまった。
ガリ、と薬指の根元を強く噛まれていた。ゆっくりとねぶるようにきつく指を吸われる。ちゅぱっ、とわざとらしい音を立てて悟は私の指を吐き出した。そのまま私に背を向けて再び寝転がる。
馬鹿じゃないのか。
くっきりと歯型の残った指を見てそう思った。ジンジンと甘く痛む根元を呆然と見つめる。馬鹿、痕は残すなとあれほど言ったのに。
「……もう傑なんか知らん。さっさと帰れ」
いじけた背中が呟いた。じゃあ先にシャワー室使わせてもらうよ、と悟の部屋を後にする。
自分でも狼狽えているのが分かった。つけられた痕の意味が分からないほど、馬鹿ではない。足早にシャワー室へと向かう。ギュッと左の薬指を握り込む。誰にも見られたくなかった。
——わざわざそこにつけられたその痕だけが、ひどく熱い。
***
なし崩し的に身体の関係を持ってしまった後、ああ順序を間違えた、と悔やむ俺を尻目に傑は酷く怯えているように見えた。
「お互い気持ちイイだけの、身体だけの関係ってことで」
思わずそう俺が切り出した時、傑の顔に安堵の色が滲んだことにチリッと胸が焦げついた。でも、関係性が変わることを恐れたのは俺も同じだった。
以来、性欲を言い訳に数え切れないほど身体を重ねてきた。実際、持て余した十代の性欲にはちょうど良かった。
いつも通りだった。いつも通り傑の身体を開いて貫いた。俺の匂いも想いも染み込んでしまえばいいのにとマーキングのように傑の身体中に舌を這わせ、歯を立てた。甘噛み以上に力を加えると、傑は敏感に拒絶した。
いつまで、と思った。
傑は馬鹿真面目に最初に俺と交わした約束を守っていた。情事が終われば、すぐに衣服を身につけて帰ってしまう。それは義務的な意味を多分に孕んでいた。
お前が漏らす甘い声のすべてが欲に溺れただけのものなのか? 俺の名前を呼ぶ声も、俺を映す瞳も、俺に縋るような指先でさえも、本当に欲に浮かされているだけなのか?
——傑、これは俺の勘違いなのか?
決定的なことは避けたまま、曖昧な俺たちはセックスを重ねた。いつまで、と思った。いつまでこんな関係のままなのだろう。
そう思うたびにお前の怯えた瞳を思い出してしまう。
「なぁ、今日は泊まって行けよ」
ルール破りなのを理解して傑に言った。頭を埋めた傑の腹から皮膚一枚を隔ててトクン、トクンと心地のいい傑の心音が聞こえる。
「ダメだよ」と傑はすぐに断った。いじけて頬を膨らませ、唇を尖らせる。分かっていても面白くなかった。いつまで。
「ケチ」
そっぽを向くと、「悟」と名前を呼ばれて追いかけるように傑の指が膨れた俺の頬をつついた。戯けて息を吐き、頬を萎める。
「じゃあ、俺が傑の部屋に行っていい?」
「それもダメ」
カチンと来て再び傑の方を見る。「なんで」と聞くと定型文のように「最初に決めただろ」と返ってきた。
そう、最初に決めた。持ちかけたのも俺だ。お互いに気持ちのいい、身体だけの関係でいようと。お前の怯えた瞳と、臆病な俺に負けて。
でも、いつまでそんなもん律儀に守ってなきゃいけないんだよ。
「もう戻っちまうんだろ?」と聞いたら「まあね」と澄ました答えが返ってきた。その余裕ぶった態度に無性にイライラした。
ピロートークがお望みかな? と戯ける傑の隙を突いて身体を起こし、素早く傑の左手の、目当ての指に噛みついた。
普段嫌というほど痕はつけるなと言われている。知ったこっちゃない。強く強く歯をあてがってキツい痕を左の薬指につけた。
いくらオマエでもその指の意味を知っているだろう。
別に傑と婚姻を結びたいだとか、永遠の愛を誓うだとかむず痒いものを求めている訳では一切ない。俺たちにそういうのは不似合いだとすら思う。
——でも、お前につけたその痕は、この世で最もポピュラーな愛の縛りだよ。
その意味に気付かないオマエじゃないだろ。
「……もう傑なんか知らん。さっさと帰れ」
裏腹な言葉を投げかける。帰ってその意味を噛み締めろ。……噛み跡だけに。
遠ざかる傑の足音を背中で聞きながら目を閉じた。いつまでこんな関係のままでいればいい。
傑、俺はもうお前の怯えた瞳に怯えることに飽きてしまった。