教育実習
その人は、五条先生と言った。
教育実習の先生がどうやら美男子らしいという噂は、彼がやってくる数日前から学校中の噂になっていた。長身で、スラリとして猫のようにしなやかで、何よりも顔がいいらしい。女の子の噂は驚くほど早く広まる。季節外れの教育実習生を受け入れる私たちのクラスは、他のクラスからの剥き出しの好奇心に晒されていた。
彼についての噂は、数日前に彼が実習前の挨拶に来たはいいものの約束の時間に遅れ、規則に厳しい教頭先生を初対面から激昂させたことに所以する。神経質そうな銀縁の眼鏡から垂れたグラスコードは怒りに揺れ、「教育者たるものっ」と怒った時の癖で語尾を跳ね上げさせながら教頭先生は彼に説教をした。
下校時刻もとう過ぎていて校内にはほとんど人が残っていなかった。こっくりと赤い夕陽が教室内にまで差し込む。そんな中、教頭先生の大きすぎる怒声に気付き、覗き見てしまった生徒がいたのだ。
声は、旧礼拝堂の方から聞こえていた。旧礼拝堂は教室のある棟から少し離れている。よほどの用がなければ生徒らが近づくことはない。歴史ある建物らしく数年前までは現役で使われていたが、ある事件をきっかけに使われなくなったとかなんとか。ずんぐりと、まさに校内に鎮座ましましている。
夏も終わり、勢いをなくしながらも絡みつくように外装を覆う蔦のくたびれた緑は、夕陽の赤色に染まって血管のように旧礼拝堂を這っていた。
気味悪く血管が張り巡らされたコンクリート壁を背景に、教頭先生と向き合う見慣れない長身の男がひとり。その生徒は見てしまった。差し込む夕陽を銀色に反射させながら彼はふにゃりとした猫背で、教頭先生の怒声を受け流していた。
その横顔が、見たこともないほど美しかった、とかなんとか。
「五条悟です。気軽に五条先生って呼んでくださぁい」
黒板に白いチョークで書かれた美しい文字。生徒たちの方を振り返った、教壇に立つ美しい男。
五条先生の気怠げな語尾が消えるのを、クラス中が息を呑んで待っていた。一瞬の静寂。次の瞬間、歓声で教室が割れた。
「先生っ彼女いるの!」「なんでグラサンしてるの!?」「それって地毛ですかぁ!」
あまりにも多い声はワアワアとしたざわめきにしか聞こえなかった。誰も彼もが興奮している。ただただ嬌声をあげる子、騒ぎ立て質問攻めにする子、とろけるような目で静かに頬を赤らめている子。五条先生はそのどれにも応えなかった。
パァン。
突然、五条先生が柏手を打った。空気が揺れ、怯んだようにざわめきがピタリと止む。
「はい、じゃあ僕の担当は物理なので」
三限目だよね、よろしくお願いしまーす。そう言って五条先生は教室から出て行った。呆気に取られた生徒たちの多くが間抜けに口を開きっぱなしにして、五条先生が後ろ手に教室の引き戸を閉めるのを見ていた。
ピシャリ。その姿が見えなくなった途端、ざわめきが元に戻る。「めちゃくちゃかっこよくない!?」「何あの態度!」「背ぇ高い! 何センチかな?」
担任の高井先生はいつものように「静粛にっ、静粛に」と少し高くて頼りない声で叫んだ。ざわめきは止まない。女子校における、生徒から舐められてしまった男性職員の末路は悲惨だ。ひょろりと背が高くて(それでも五条先生の方が高かった。高井先生唯一のアイデンティティが失われたと言ってよい)身体が薄く、自信なさげに目をキョロキョロさせる癖のある高井先生は当然生徒たちから舐められていた。陰で「ヒョロ井」だとか「キョロ井」と呼ばれていることも知っている。
興奮した生徒たちを前に何の意味も持たない「静粛にっ、静粛に」という高井先生の鳴き声はなおも続き、顔を真っ赤にさせながら、朝のHRの間ずっと止むことはなかった。