【五夏】よなぎ 伝えておけばよかった。
ザアザアと潮の音がする。もうとっくに海に入るような季節ではない。分かっていたが、裸足で砂の上に立っていた。寄せては引く波がくるぶしまで濡らして、その冷たさに足の指がじんじんと痺れる。
眼前に広がる水は黒い。夜の海は酷く暗くて、友人の長い髪を思わせる。自分にはない濡羽色の髪が、とても、とても好きだったことを思い出す。
感傷に浸って海を求めるような青臭さなんて、十年も前に捨てたはずだった。それでも、来ずにはいられなかった。
好きだと伝えておけばよかった。
波が銀色にうねる。遮るものが何もない遠い水平線に、小さな光の点が見えた。漁船だろうか。どこかの岬の灯台かもしれない。どれくらい離れているのか分からない。頼りない光の粒は、時折瞬いた。
いつか、同じような夜の海に立った時、隣には友人がいた。任務は終わりがけで、話したいことなど山ほどあったのにどちらも口を開かなかった。相手が隣にいる、それだけで充分だった。
妙に静かで、満ち足りていた。満ち足りている、と感じる自分に何故だか高揚して、今すぐ叫び出してこの空気を壊してしまいたい気持ちにも、ずっとずっと大切に仕舞い込んで静寂が続いてほしい気持ちにもなった。友人——傑も、同じ気持ちだと分かった。
あの時、顔を上げたら傑と目が合った。好きだ、と思った。暗い海の瞳。どんな言葉で表したらいいのか分からなくて、込み上げてくる胸を掻きむしるような気持ちがもどかしくて、たぶん、一番近い言葉で表すのなら、好きだ、と思った。
好きだ。でも、的確ではなかった。何と言えば伝わるのか見当もつかなかったし、何より言えば台無しになってしまう気がした。それで伝えなかった。
伝えておけばよかった。拙くて、上手く言葉にできないソレはバツが悪くてカッコ悪かった。今じゃなくていいと思った。いつか、そのうち伝えられればいい。上手く言葉が見つかった時に。そういうのは傑の方が得意だけど、できれば自分から。
そう、たとえば——世界が終わる時にでも。
いつだって伝えられる。そう思っていた。
その横顔を見ていた。誰よりも。
風が強く吹き抜けて、隣で肩まで伸びた黒髪がさらさらと揺れた。隠されているはずの白い項が少しだけ露わになる。ぎくりとした自分に動揺して、慌てて目を逸らす。
今回の護衛対象——天内が眠りにつき、誰も彼もが寝静まる時間になってから傑に「少しいいか?」と声をかけられた。
「何? 傑もちゃんと寝ろよ。俺なら全然余裕だって」
「仮眠なら後で取らせてもらうよ。でも、少しだけ——」
そう言って夜の浜辺へ誘われた。護衛対象を残してホテルから離れるようなリスクを取るなんて、傑にしては珍しかった。それでも、傑が放った呪霊の気配に黙っておいた。かなりの量を見張りにつけている。呪霊操術についてはさして詳しくないが、操る呪霊の数に比例して術師にも何かしらの負担がかかっているはずだ。そうまでして傑が呼び出す理由が何かあるのだと分かっていた。
夜の砂浜は月光に照らされて白く光っていた。真っ黒な海の向こうから寄せては返す波の音が静かに響く。まるで大きな生き物の唸り声のようだと思った。ツン、と鼻先を磯臭さが襲う。
俺も傑も沖縄なんて来るのは初めてだった。無論、こんな真夜中の海にも。
しばらくふたりで黙って浜辺を歩いた。海に近づくほど、足元の砂は細かく柔らかなものに変わった。昼間、海の家で急ごしらえで買った安い蛍光色のサンダルと足の間に砂が入る。気持ち悪くて払い落とそうとしたが、次々に入り込んでくるので諦めた。裸足になってサンダルを手に持つ。すると傑は小さく笑って、自分もサンダルを脱いで裸足になった。
ずぶずぶと指先から砂に沈んでいくようだった。夜の海辺は冷たくて、心地が良い。世界にふたりしかいなくなってしまったみたいに、あたりには誰もいない。
まだ任務を引き受けてから二日も経っていないのに、傑とこうしてふたりきりになるのは随分久しぶりな気がした。
「……それで?」
足を止めて口を開くと、半歩前を歩いていた傑が振り返った。顎先をつい、と上げ話を促す。何か言いたいことがあるのは明白だった。
傑は困ったように眉尻を下げて笑った。それから、「海に入らないか?」と言った。答えを待たずに波打ち際へ向かう傑の後を追う。さらさらした足元の砂は次第に湿ったものに変わって、ふたり分の足跡は簡単に波にかき消された。
くるぶしまで水に浸かるところで、今度は傑が不意に足を止めた。くすぐるように波が肌を撫でる。
「……悟」
「ん、」
「明日、世界が終わるとしたらどうする?」
すぐに天内のことだと分かった。天元様との同化は別に命の終わりではない。しかしひとつ、天内理子個人の世界が終わるのは確かだ。
「何だそれ? 恐怖の大王でも降って来んのか?」
すぐに分かったくせに、わざととぼけて話題を逸らしてしまった。せっかくふたりきりで夜の海へ抜け出して、ようやく口を開いたと思ったら天内のことだったのが何だか場違いに悔しかった。
傑の性格からして、今こうして沖縄なんかにいるのも、真夜中の海に立っているのも、自分が黒井さんから目を離したせいだと思っているのだろう。だから気がかりなのは分かる。真面目な傑らしいとすら思う。
素直に応じればよかったのに、反射で妙な意地悪をしてしまった。自分から仕掛けておいてバツが悪くなる。誤魔化したくて、何でもないような顔を作った。
傑はやれやれと言わんばかりに片眉を吊り上げた。俺がすぐに察したことも、察したうえで話題を逸らしたこともみんな筒抜けらしい。足元でぱしゃん、と波が白く跳ねた。
「悟は信じてた? 恐怖の大王」
逸らした話題に傑が乗ってくれたことに内心息をついた。たとえ終わりがけだとしても、今は任務中だ。傑が気にするのは当然で、自分だって全く気にならない訳ではない。
傑の関心が自分に向いていなかったことに一瞬でも拗ねて、ガキみたいな自分に嫌気が差す。
「まっさか」
「だろうね」
「傑は?」
黒い瞳が真っ直ぐにこちらを見る。
「信じていたよ、少し」
夜の海みたいな瞳だった。
夜の海は、墨をぶちまけたみたいに真っ黒なのに、月明かりを反射して絶えず美しく光る。
傑の目の奥の、燃えるような意志の強さと似ていた。
「一九九九年の七月三十一日、本当に世界が終わるかもしれないと思ってた」俯きながら傑が言った。
よく覚えている。呪霊がうじゃうじゃ湧いた年の、一番うじゃうじゃ湧いた月だ。オカルトじみた思想を信じた人々の負の感情があちらこちらで空気中に溶け出して、祓っても祓っても呪霊が湧いた。呪術師界は大忙しだった。
その頃の俺はただでさえ忙しいのだから余計な仕事を増やさないでくれ、と五条家の屋敷に軟禁され、独りで退屈しきっていた。こっそりと屋敷を抜け出しては馬鹿な呪詛師達に襲われ、暇潰しに返り討ちにして遊んでいた時期だ。外では、本当にあちらこちらで蛆のように呪霊が湧いていた。
まだたったの九歳だった。
まだたったの九歳で、しかし生まれた時から特別製で呪いの世界にいた俺は、人々の恐怖で無尽蔵に呪霊が湧くことも、馬鹿な呪詛師達から命を狙われることも不思議に思わなかった。
テレビから流れてくるオカルトを信じるつもりも毛頭なくて、ただ、あんまり呪霊の数が多いので、本当に世界が滅んだら面白いのに、と幼心に思っていた。
少しでも世界が終わると信じていた傑はどうだったのだろう。傑の縁故に術師は居ないと聞いたことがある。
自分以外の誰も呪霊が見えない世界で、呪霊の溢れ返る世界で、九歳の傑は何を思ったのだろう。
「何それ、ダッセ」
想像するに難くなかった。それなのに、口はまた悪態をついた。怒らせたい訳ではないのに。ダサいのはどちらだ。
「ああ、今思うとダサい」
予想に反して、傑は笑った。俺の憎まれ口に怒らなかった。口に手をやりくすくすと穏やかに笑う姿に少し面を食らう。
ふと気づいた。
九歳の傑がひとりぼっちで信じた世界の終わりを、俺の隣にいる傑はもう信じない。
何故かを考えるのは野暮ったくて、くすぐったい気がした。きっと言葉にしなくていいやつだと思った。傑が笑っているのなら、それでいい。
「……まぁ、明日世界が終わるとしたら、自分の好きなことを好きにすればいいんじゃね?」
突然話を戻すと、傑がこちらを見た。
「好きなこと?」
「そ、好きなこと。任務の前にも話しただろ」
もしも天内が同化を拒否したら。明日以降も世界を続けるのだとしたら。
一九九九年の八月一日はあまりに呆気なくやってきた。人々の恐怖の大王への興味はすぐに失われた。この世界とやらは、簡単には終わりそうにない。
「大丈夫だって、俺たち最強だし」
ふたりとも天内、だとか天元様、だとか具体的な言葉は何ひとつ使わなかった。使わなくとも伝わった。
思いがけず任務の難易度が上がり、不測の事態でこんな夜の海に立つことになったって、俺たちは変わらない。ふたりなら最強。だから、好きなことを好きにする。世界を敵に回しても。
腹の底からそう思った。そこにひとつだって疑問はない。傑と一緒ならなんだって成し遂げられる。躊躇うことなど、何もない。
何故こんな風に傑に呼び出されたのかもう分かっていた。わざわざ再確認するなんて、本当に真面目で慎重だ。俺の意志は傑と共にあるというのに。
傑を見ると、眉をハの字にしてふふ、と笑っていた。嬉しい時と困った時、傑はいつも同じような顔をするので判断に迷う。でも今は前者なのだと分かる。
傑は、俺の言葉に何も言わなかった。その沈黙は肯定を意味していて、嬉しくなって俺も口を閉じた。
しばらく黙って波の音を聞いていた。ゆっくりと満ちていく。ひときわ大きく潮風が吹いた。顔を上げると、傑と目が合った。
——好きだ、と思った。
よく同じ夢を見た。夢だと分かる夢だ。
まとわりつく潮風、ピッタリと足裏についた細かな砂。少し口を開くと、空気がしょっぱい。
隣には誰かがいる。誰なのか知っている。夜の海みたいな長い髪がそよそよと風に揺れているのが、時折視界に入る。
その横顔を見ていた。誰よりも。
それなのに、夢の中ではその横顔を見ようとしなかった。見なくても誰なのか分かる。誰なのか分かるから、見ない。
——現実ではもう隣にいないのだから、見ない。
傑が僕の前から姿を消してから、ずっと考えている。もしも明日、世界が終わるなら。
もし、もしも明日世界が終わるのなら、僕は傑に会う。自分の好きなことを好きにすればいいのなら、きっと必ず会いに行く。
もし、もしも明日。
そうやって、いつまでもずるずると明日を先延ばしにしてきた。その気になれば会えると思っていた。本気で捜せば見つかるはずなのだ。どうしたって会えない訳ではなくて、会わないだけ。
だから、世界が終わるその時には、オマエに会いに行く。明日、世界が終わるのなら。
ずっと自分に言い訳をしてきた。周囲にだって、そうやって牽制してきた。本気で捜せば見つかる。いつだって会える。だから、今じゃなくていい。
でもそれは、傑にだって同じはずだった。会おうとすれば会えるはずなのに、いつだって捜し出せるはずなのに、傑が僕に会いに来ることはなかった。会えないことより、傑は僕に会おうとしていない——その事実が示す意味を考えたくなかった。
いつでもできる。だから、もしも明日、世界が終わるなら。
「悟ー‼︎ 久しいねー‼︎」
変わった、とも変わらない、とも思った。意志の強い、黒い瞳。平然と目の前に現れた傑に心底腹が立った。高専に来れば当然居ることなんか、分かりきっていたくせに。自分から出て行ったくせに、置いて行ったくせに、何故そんな声が出せるのだろう。
何をしにきた、と問えば傑は相変わらずイカれた思想でイカれた計画を話した。
世界が終わる必要なんてなかった。少なくとも、傑にとって。ずるずると言い訳をしてきた自分とは違う。向き合いたくなかった事実と向き合うと、こめかみがスッと冷えた。
久々に姿を現したのに、傑は僕に会いに来たわけではなかった。久々に言葉を交わしたのに、傑はきちんと僕に向き合ってはくれなかった。
世界を敵に回すというのに、傑はもう、僕に何ひとつ確認してはくれなかった。
あの日、夜の海辺で見た傑の横顔を思い出した。穏やかな海の音。わざわざ再確認してまで、ふたりで世界を敵に回そうした、あの日。
不意に気付く。最後に見たのは横顔ではなかった。真正面から、射抜くみたいな夜の瞳と対峙して、それから二度と、その瞳が振り返ることはなかった。
夢ですら見れない訳だ。
高らかに告げ終わると、傑はひらりと元の呪霊に乗って去って行った。追いかけることもできたのに、しなかった。意味がないのだと分かっていた。
自分だけが囚われていたのだろうか。自分だけが、頑なに、会ってはならないのだと思っていた。
会えば呪い合うしかない。
何もかも捨て去ってしまえれば簡単に会えた。でも、何もかも捨て去ってしまえるほど簡単ではなかった。
だから世界が終わればいいと思っていた。
『明日、世界が終わるとしたらどうする?』
あの日聞いた傑の声が蘇る。
もう、どうしようもない。
「傑」
気づけばもう一度、声に出して呼んでいた。あの頃、自分がどんな声で呼んでいたのか思い出すために。
「傑、」
忘れる訳などないのに、ひと時だって考えなかったことはないのに、声に出して確認するのは酷く久しぶりだった。
伝えておけばよかった。
夜の海みたいな瞳が好きだった。波みたいに靡く長い髪も、困ったみたいな顔して笑うのも、どれも全部好きだった。隣にいてほしいと思っていたし、いるものだと疑わなかった。信じることすらしなかった。ちょうど、足元の波が引けば必ず返すのと同じだと思っていた。
伝えられればよかった。余す事なくすべてを。そんなことは不可能だと知っていたとしても。
誰かになぐさめてほしい訳でも元気づけてほしい訳でもない。生き方を選んだ。それでひとり、真夜中の海に来た。
あの日、春の初め沖縄で入った夜の海は冷たくて、心地良かった。静かで、口に出さなくても思っていることが全部伝わりそうなほどに、本当に静かな海だった。
——やはり今は、もうとっくに海に入るような季節ではない。全ての感覚を奪うかのように、水は凍てついている。
じんじん痺れていた足の指はもう何も感じない。寒さに吸い込まれてしまったかのように、辺り一面波の音以外何も聞こえない。世界は終わっていないのに、終わってしまったかのように静かだ。
こんなにも静かな夜の海ならば、口にしたって溶け出して、何ひとつ伝わらないだろう。
それに、もう隣に友人が立つことはない。
「……好きだ」
冬の、真夜中の海にひとり立っていた。