人は生まれる家を選べない。
舞台袖からピアノの置かれたステージ中央に進み、好奇の視線を投げつけてくる幾つもの目に頭を下げる。そして鍵盤に向かうと叩き込まれた譜面の通りにそれを叩いた。
ここはゆっくり、じっくり、感情を溜めるように。
ここは激しく、怒りをぶつけるように。
痛みと共に覚えたそれらをなぞって、音を奏でる。観客席から「おぉ……」と感嘆の声が漏れて、けれど、その中にひとつ、ため息が混ざっているのに気がついた俺の指がビクリと震えた。
あ、と思う間もなく、その震えを皮切りに譜面には書かれていない音のブレが生じ、そこから持ち直すこともできずに演奏は終わりを迎える。練習でもしたことがないくらいにガタガタで、聞くに耐えない不協和音。なのに、割れんばかりの拍手が会場を包み込んで、「さすがは青柳の末だ」とみなが口々に褒め称える。その言葉の中の、一体どこに俺はいるのだろうか。いや、彼らが話しているのは、本当に俺なのだろうか。きっと違う。俺じゃなくとも、彼らは同じ言葉を寸分違わず言うのだろう。
観客席の隅に座る父の眉間に、深く皺が刻まれているのが見えて、俺は俯く。
人は生まれる家を選べない。
同じように、産まれてくる子供を親は選べない。
だとしたら、青柳の家に生まれた俺と、俺なんかが子供として産まれてきてしまった父と、本当に不幸なのはどちらなのだろうか。
「春道さんの子供なら、きっと素晴らしい奏者になるんだろうな」
「当たり前だろう。あの青柳の家に生まれたんだから」
そんな会場を埋める声を聞きたくなくて、俺は耳を塞いだ。
*
けたたましく鳴り響く目覚ましの音に引き摺りあげられて、俺は夢から醒めた。寝ていたというのに全力で走ったかのように息は上がり、背中は汗でぐっしょりと濡れている。
(……なぜ今になって、こんな夢を……)
俺が青柳としてピアノを弾いている夢。ピアノを弾く俺に求められていたのは『正確な演奏をすること』で、そのために何時間も父の納得する音を奏でる練習を強いられていた。思えば、あの頃の俺は生きている実感もなく、ただただ機械のようにその日課せられた課題をこなしていただけだった。
まぁ、思い出したところでいい思い出でもなく、憂鬱になるだけなのだが。
そんなことよりも、今は汗を流して早く父と顔を合わさない内に、家を出なければならない。俺はいつもより重たい体を無理矢理動かして、学校に行く準備を始める。
その間も夢の中で聞いた観客達の声が、ずっと耳の奥から離れなかった。
さすがは青柳だ、と。
春道さんの子供ならきっと、と。
そんな言葉達が呪いのように俺の心臓を締めあげた。
家を出て、静かな通学路を1人で歩く。誰にも見られず、誰にも咎められないこの時間は、小さな頃から俺の数少ない心休まる時だった。しかし夢見が悪かったからか、歩む足取りはどうにも重たい。
思わずため息を漏らすと、遠くの方から「おーい」とこちらを呼ぶ声が聞こえて、俺は俯いていた顔を上げる。
「遅せぇぞ、冬弥!」
途端に朝からまとわりついていた雑音が、朝日に溶けるように掻き消えていく。
(あぁ、そうだ……そう、だった)
こんなにも単純で、大切なことを一瞬でも忘れてしまうなんて。今ノロノロと歩く俺を待ちきれずに走り出した橙色の彼に知られでもしたら、小突かれて怒られてしまう。
人は生まれる家を選べない。
けれど、俺は選んだのだ。誰と共に歩むかを。
俺はもう青柳家の末ではない。
Vivid BAD SQUADの青柳冬弥で、東雲彰人の相棒なのだ。