目が覚めたら朝だった。そんな当たり前の事実が受け入れがたく、漣は目覚めた体勢のまま暫し呆然としてしまった。タケルの家、タケルのベッド。それはいい。目覚める前は夜だったはずで、風呂上がりだったはずだ。準備を済ませてベッドの上でタケルが風呂から出てくるのを待っていたところから、記憶がない。
つまり、漣はそこで寝落ちたのだ。
むくりと起き上がって辺りを見回す。ベッドには漣ひとりしかおらず、寝室にも他の部屋にもタケルの姿はなかった。寝落ちした漣に愛想をつかして出ていったかと考えがよぎるが、そもそもタケルの家だ。漣が追い出されるならまだしもタケルから出ていくのはおかしい。なんにせよ、置いていかれたと悟った漣は言いようのない焦りを覚えた。
「どこ行きやがったチビ…」
ガチャン!
「ギャッ」
突然の音に驚いて漣は飛び跳ねた。この家の玄関の鍵はいやに大きな音がする。その開いた扉から、まさに探していた人物が現れた。ジャージにランニングシューズのタケルは耳からイヤホンを外すと、平然と「起きたのか」と見ればわかることを聞いてくる。漣にだってタケルが日課のロードワークから戻ってきたことは一目見てわかったので、動揺を気取られないように「おー…」と低くうなった。
「なんか食べたか、朝」
「まだ……」
「そうか。俺もまだだから、ちょっと待ってろ」
そう言うと手早く着替えだけ済ませ、タケルは台所に引っ込んだ。しばらくしてテーブルに二人分の朝食が並ぶ。レンジで解凍した白米と、目玉焼き、味噌汁はインスタント。「いただきます」と手を合わせて箸をつけるタケルに倣って漣も食べ始めるが、その視線は食卓よりもタケルにずっと注がれている。
「……なんだ? メシが物足りないって言いたいのか? すぐ作れるのがこれしかなかったんだ、我慢しろ」
「違え。……チビこそ、オレ様に言うことねえの」
「オマエに? ……俺が作ったんだから皿はオマエが洗えよ、とか」
「そうじゃねえ!」
語気を荒らげるも、漣にも自分が何に苛ついているのかは不確かだった。己の非をタケルが責めてこないならそれでいい、わざわざ蒸し返して非難されたいわけじゃない。
「……くそ。なんでもねぇ!」
「なんなんだ……」
タケルの呆れたような声を聞きながら、目玉焼きを勢い任せに箸の先で突く。半熟の黄身がぐちゃりと破れて、そんなことすら余計に腹が立った。
食後も苛立ちは治まらず、食器を洗う漣の手つきも乱暴になる。バシャバシャと水を跳ねさせる様にタケルも流石に黙っていられなかったようだ。
「おい、袖濡れてるぞ。床まで水跳ねてるし……」
「ウルセー、放っとけ!」
「……何に腹立ててるのか知らないが。俺は鈍いから、察するとか無理だぞ」
キュ、と横から蛇口をひねられて水が止まる。静かになったキッチンにタケルの声が低く染み込んでいく。
「言いたいことあるならハッキリ言え」
「……だから!チビの方がオレ様に言うことあんだろ!」
漣の大声はシンクにわんと響いた。初めからそう言っている、と漣はタケルにさらに食いかかる。
「昨日!なんにもしなかった!」
「それは、オマエがもう寝てたから」
「言うことないくらいにどーでもよかったってのか!?」
口を開いたらもう止まれない。きょとんとしたタケルにまたイライラして、考えもまとまらないまま畳みかける。
「寝こけてすっぽかされてんだぞ! 小言でも恨み言でもなんかあんだろ! それとも昨日は元々する気なかったのか!? ふざけんな、オレ様はする気でいたのにそんなの許さねー! もっと…もっと、オレ様とできなかったことを悔しがりやがれ、バァーカ!!」
言い切って、漣はようやく息をつく。無意識に強く握っていた拳を解いた。タケルの表情はいつの間にか眉がキッとつり上がっていて、小さな口がわなわなと震えている。
「オマエな……! 俺は、オマエが疲れてるなら無理させないようにって我慢したんだ。なんでそれをバカ呼ばわりされなきゃならない」
「チビのくせに我慢なんてしてんじゃねー! 起こせばよかっただろーが!」
「あんな気持ちよさそうに寝てて起こせるかバカ!」
「ハァ!? いつもはどんだけ寝ててもムリヤリ起こすだろ!」
「それはオマエが事務所とか廊下とかで寝てる時だろ。そもそもオマエがちゃんと起きていれば昨日だってできたんだ!」
「ウルセー! チビの風呂が長いのが悪い!」
ひとしきり言い争って黙り込む頃には、お互い顔が真っ赤だった。いつもなら静かに言い返してくるタケルも珍しく声を荒らげていたことに、漣は少し胸がすく。それに、反射的に言い返してしまっていたが、タケルの発言をよくよく思い返してみると。
「なんだ急にニヤニヤして」
「別にィ?」
どうでもいいと思われていたわけじゃなかった。それどころか、欲しがられていたし、大事にされていた。そう分かったら漣の唇は勝手に笑みの形を作ってしまう。
「しょーがねえな、やり直しさせてやるよ。今日はさっさと風呂上がれよ」
「オマエこそ、また寝てたら今度は叩き起すからな」
ムッとしながらもこちらの誘いを断らないタケルになんだかたまらない気持ちになって、漣はタケルに飛びつく。しっかりした体幹で受け止めたタケルは「袖が濡れてて冷たい」とは言っても、引き剥がしはしなかった。
「文句ばっかり言いやがって」
「言うことは言えってオマエが言ったんだろ」
「かわいくねえ!」
「なくて結構だ」
抱きしめあったままの口喧嘩なんて馬鹿みたいだ。可笑しくなった漣は笑みを隠さないまま、タケルのかわいくない口を唇で塞いだ。