月花前日譚 十「あれ。晩酌中だった? どうしたのそのお酒」
上弦の月を肴に呑んでいたファウストは、後ろからかけられた声にゆっくりと振り向く。フィガロが来たことはわかっていた。庵を訪れる時、彼は気配を隠さないから。
「律儀な盗賊が置いていったんだ」
「盗賊? から貰ったってこと?」
「まあ…。貰うほどのことはしてないんだが」
首領と呼ばれていたあの天狗、彼は昼過ぎにまた姿を現したかと思うと半ば強引に酒瓶を押し付けてまた飛び去っていった。追いかけて返そうかとも考えたが堂々巡りになりかねないし、これで手を引いてくれるなら大人しく頂戴しておくことにした。
「なるほどね。俺も今度から、きみに贈るならそれにしよう」
「は? 一体なにを聞いていたんだ?」
「お酒なら貰ってくれるって話じゃなかった?」
茶化す口振りに呆れてファウストは頭を振った。その拍子に、髪にでも付いていたのか桜の花弁が落ちてきてはらはらと舞う。
「なにか用があってきたんじゃないのか」
「いいや。どうしてるかなと思ってさ」
「まったく誰も彼も…。放っておいてくれと言っているのに」
「心配なんだよ。わざわざ桜雲街を離れて暮らす妖怪はあまりいないから」
とうの昔に破綻したに等しい師弟関係だというのに、この男はなにかにつけて顔を見せに来る。月の光でフィガロの竜角の影が落ちた。桜の枝に似ている、と昔に思ったこともあった。
桜雲街は大桜の力で満ちている。同じくらい、桜と共存する竜の力も。
「あの街にいるとおまえたち竜の一族に支配されている気分になる」
「竜に師事されたからこそそう感じちゃうんだろうね。ってことは俺のせいってことか」
修行をつけてもらっていたころから、ファウストにはフィガロの本音が読めなかった。今だって自身の責を口にしながら嬉しそうに顔を綻ばせている。憎まれ口しか叩かないような弟子と話すのがそんなに楽しいのだろうか。
ファウストは盃に残っていた酒を一息に飲み切ると、自分の座る隣の空間をフィガロに示した。
「…よかったら、飲んでいくか?」
「え。いいの? せっかくのお酒なのに、俺と一緒で」
「ひとりでは飲みきれないから。嫌なら、いいけど」
「嫌なわけないじゃない。嬉しいよ!それなら、お言葉に甘えちゃおうかな」
弟子時代はフィガロに酌したこともあったが、ふたりで飲むのは初めてだった。酔ったくらいで本音を零すような簡単な男ではないだろうが、醜態のひとつでも晒してくれれば少しは胸がすくかもしれない。竜を酒に誘うなんて、酔ってでもいなければできない思考だとファウストは自嘲して笑った。
「…なに笑ってるの?」
「気にするな。僕は今酔っ払いだから、多少おかしなこともするんだ」
「ファウストって酔っ払うとそんな感じなの? 知らなかったな」
隣に座ったフィガロが不思議そうにファウストの顔を覗き込む。それを躱すようにして盃を押しつけ、ファウストは少し乱暴にフィガロへ酌してやった。
注がれた水面に金の月が映り込む。月が沈み切るまでは追い返さないでいてもいい、とファウストは夜空を仰いだ。