雨音しと、しと、しと。弱い雨が降っている。遣水の縁で蛙が跳ねる。
晴明は渡殿を歩みながら、中庭の池にいくつも広がる波紋を眺めていた。晴明にとっては雨を読むなど容易い。何時降るのかも、何時止むのかもわかっている。この雨も夜までは続かない。それまで雨音に耳を傾けるのもよかろうと、ゆったりと視線を巡らせる。するとふと、庭の端にひっそりと立つ水干姿を見つけた。
「白。何をしている」
「主様」
問いかけに振り向いた顔は感情を映さない。否、元々式神に感情は無い。それだけ聞けば冷たいように思われるが、狡猾さや虚栄心も無い分嘘もつかない、素直なものだ。現に今、晴明の問いに対して真っ直ぐな答えを返す。
「雨に打たれておりました」
「自ら進んで雨に?」
「はい。札に戻っているときには得られぬ感覚ですので…」
真顔でそんなことを言う。白の式神は晴明が作ったが、たまに晴明にも思いつかぬ言動をすることがあった。そういうところが興味深く、晴明が白の式神を気に入っている所以である。式神に心は無いが、これから宿ることも無いとは言いきれない。今は晴明がひとつずつ、感情を教えているところだ。
「白は雨が好きか」
「好き…かはわかりません。不快ではないですが」
「そうか。だが、あまり長く雨の中に居ては体を冷やすぞ」
「式神は病にはなりません」
「わかっている。こちらへ来なさい」
屋根のある側へと促せば、式神は不思議そうに首を傾げながらも従った。長い髪が雨にしっとりと濡れている。その髪を手で梳きながら晴明は式神を腕の中に閉じ込めた。
「主様? …いけません。お召し物が濡れてしまいます」
「構わぬ。じっとしておれ」
命じればそのとおりに動かずにいる。晴明が式神を撫でる度、袂が雨を吸った。着物に焚き付けた香が匂って、式神にも移る。
「…妙な心地です」
「ふむ。どのような?」
「私のせいで主様が濡れてしまうのが申し訳ないと感じながら…。胸が弾むような心地も致します」
式神は己の胸元に触れる。人を模したそこにあるのは作り物。それでも、人と変わらず脈打ち、揺れ、時に震える。その胸が騒ぐことを感情という、と晴明は式神に教えていた。頭ひとつ高い晴明の顔を見上げて式神が問う。
「主様。これはなんという感情でしょうか?」
式神の丸い目に映されて晴明は苦笑した。主を疑うことを知らない式神は、晴明がこうだと言えば鵜呑みにしてしまうだろう。例えそれが晴明に都合のいい願望を含んでいたとしても。そんな押しつけの感情は心ではない、と晴明は思う。
「それは、おまえが自分で気づかねばならないな」
「…左様ですか」
「すぐにわかるものではない。いつか分かったら申してみよ」
式神は頷くと、晴明の胸に手を添える。もう片方の手は己の胸に当てたまま、互いの心音を確かめるように。気持ちの正体を探すように。晴明は何も言わずに式神を抱き寄せてまた髪を梳いた。すでに乾いて絹糸の如くさらさらと流れる髪は晴明の指を喜ばせる。
しと、しと、しと。雨は降り続いている。止むまでは、ふたつの影は重なったままだった。