視線が痛い。さっきからまったく手が動いていないことを、無言のうちに咎められている。ただそんなふうに見られても困るのはこちらの方だ。ねめつけられたくらいでやる気が出るのなら苦労はない。
「どうかしましたか、松井。貴方らしくありませんね」
「僕がそんなに勤勉に見えるかい」
「違うのですか」飼い犬は無表情のまま首を傾げてみせた。
「僕だって怠けたい時くらいある。……さみ、おいで。遊ぼう」
「まったく、悪い人ですね」
口では一応の非難をしつつ、松井の事務仕事にさして興味はないのだろう。構ってもらえる喜びを声に滲ませた五月雨は、とうとう机に背を向けた飼い主の腕の中へ収まった。ほうと柔らかく息を吐いた松井の頬に擦り寄る。「かわいいね」と掠れ気味の低い声が囁けば、一途な犬はその顔に幸福の色を浮かべてしまう。五月雨の脳はどうやらその言葉を最大級の賛辞だと誤解してしまっているようだった。
「ぴんくの犬は桑名に取られてしまったからねぇ。君はどこにも行かないでよ」
「ええ、私はどこにも行きませんよ」
釘を刺すような物言いにも五月雨は臆せずに頷く。ぴんくの犬――村雲は近頃桑名の側にいる。二匹の犬に挟まれているときが松井にとって至福の瞬間だったのだが、今隣にいるのは紫色の犬だけだ。せめてこの子は誰にも渡すまいと半分宣誓の意も込めて口付ける。角度を変えて何度か唇を触れ合わせれば、楚々とした表情は崩れ鋭い双眸もチョコレートのように溶けてしまった。
「相変わらず敏感だね、何人飼い主がいるのやら」
「人聞きの悪いことを言わないでください」
肩をすくめた松井を、五月雨はまっすぐ見つめた。
「先程申したばかりなのにもう忘れてしまいましたか。さみの飼い主は貴方だけです」
「……やはり人間はぺっとには抗えないのか」
諦めたように息を吐く。この本丸の審神者が過ごした年代――二百年近く前から松井たちが生きる現在に至るまで、いつだって愛玩動物は飼い主の上位存在だ。「飼う」とはすなわちペットが望むものを食べさせ、彼らのお気に召すまま遊びに連れて行き、ときにあらゆる粗相で迷惑を被っても最後には笑って許すことである。
「さて僕の可愛いわんちゃん。飼い主は疲れているんだ」
「何もしていないのに、ですか」
至極当然の疑問が松井の左胸に刺さる。五月雨にはそういうところがあった。一番耳が痛いことを、顔色ひとつ変えず口にするのだ。かくなるうえは松井も半分自棄になって「ああそうだ、何もしていなくても疲れるんだよ」と開き直るほかにない。愛犬の左肩に尖った牙を軽く押し当てた。
「口答えすると、この美味しそうな肉を食い破ってしまうよ」
「それは失礼致しました。お疲れのご主人は何をお望みで?」
五月雨があまりにこともなげに振る舞うので、脅しがまるで効いていないことを悟る。冗談とはいえ、こうも反応が薄いと悲しくもなる。
「……いいや、君は何もしなくていい」
肩に顔を埋めて、大きく息を吸い込む。肺に取り込まれるのはただの空気ではない。五月雨に触れた空気だ。心なしかいい匂いがする。香水や洗剤や整髪料のような人工的な匂いとは違う。五月雨自身が発する、雨上がりに濡れた花のような穏やかな香りに嗅覚が喜んでいる。
「何を……しているのですか」
「犬を吸っているんだよ……」訝しむ五月雨に松井は悪びれもせず答えた。吸われるがままの大きな犬は真顔のまま虚空を見つめている。
「犬は吸うものではないと思うのですが」
否、審神者曰く犬も猫も吸うものらしい。主がそう言っているのだからこれが正しいペットの愛で方だと言わんばかりに鼻を押しつけられる。流石に所在なくなってきた五月雨の声が困惑の念を露わにする。
「……あの……そんなに全力で吸われても、何も」
「大丈夫……なんか、気分良くなってきた……」
「本当に大丈夫なのですか……?」
まるで薬物でも使ってしまったかのような浮ついた主人の声に、いよいよ飼い犬も不安に駆られてしまう。五月雨が首を捻って助けを求めるように部屋の入口の方を見たのと、外れそうな勢いで障子がこじ開けられたのは同時だった。
「松井!ここに居たのか」
松井の同僚たちだ。現れた二振りは五月雨とも縁のある刀で、事務部屋に犬が一匹紛れ込んでいるのも珍しい光景ではない。しかし今日は怠け者の雰囲気を全身に纏った松井が筆を放り出して弟を抱き締めているのである。実務組を取り仕切る長谷部の怒りのボルテージは上がる一方。そしてその怒りの矛先は、ただ吸われていただけの五月雨にも向けられたのだった。
「五月雨。お前も甘やかすな」
「申し訳ありません、構っていただけて嬉しかったのでつい」
「五月病、かな」
未知の概念に五月雨が頭に疑問符を浮かべると、それを察した教えたがりの長義はつらつらと喋りだした。
「この時期になると気分が落ち込んだりやる気が出なくなったりすることが多いんだ。五月の病だな」
五月に降る雨の名を冠する刀はふむ、と頷いた。
「君達も吸っていくかい?犬」
奇妙な倒置法で松井がふたりを誘うが、長谷部もその背後に立つもう一人の男も呆れている。
「吸っていくかい、じゃあないんだよ」
「気分が良くなってくるそうですよ?山姥切も如何ですか」
「……後でな」
「そこはきっぱり断れ」
そっと忍び寄られ纏わりついた温度に絆されてしまった同僚を、長谷部は苦々しい顔で見遣るのだった。