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    m01211411o

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    一燐。記憶喪失です

    片思い 病院を出て、見上げた空は青かった。泣き疲れた後のように胸の内側は空虚で、けれど実際は、涙は流していない。一彩が事故にあった日から一度も。見舞いには毎日来ていた。事故のあった当日は連絡が来てからすぐに飛んできたけど、それ以降は仕事にも穴は空けていない。時間なんてつくろうと思えばいくらでも作れるものだ。この都会には、一彩の血縁者は自分しかいない。自分にしか出来ないこともあるし、何より、俺が一番そばにいてやるべきだ。いや、一番、そばにいてやりたかった。当の本人が俺との記憶を失くしていても。それは、その思いは変わらない。





    記憶喪失。そう聞かされても最初はピンと来なかった。何も耳に入らなかった。
    どうやら、道路に飛び出した女の子を助けたんだとか。そんな理由で事故にあったらしい一彩は、幸い命に別状はなく、事故の翌日には目を覚ました──けれど、安堵して手を握る俺を見て、一彩は首を傾げたのだ。あなたは誰、と。
    その瞬間から頭の中は真っ白になっていて、医師の言葉なんて、真面に理解出来なくなっていた。

    それから日が経つにつれて、一彩の記憶は徐々に戻りつつあった。継ぎ接ぎのようなもので抜け落ちた記憶は多いだろうと医師は言うけれど、自分の出自がわかるだけでも本人の心持ちはかなり変わってくるはずだ。それに、俺のことも兄だとわかるようになっていた。数日ぶりに一彩のあの声で「兄さん」と呼ばれたときには、どれだけ安心したことか。
    けれど、ここ数年──恐らく故郷を出て以降の記憶は未だに一つも戻っていない。未だ記憶が戻りきらず、知らない場所で慣れない治療を受けて日々を過ごし不安な顔をする一彩に、現状を一度に教える気にはなれなかった。きっと理解しきれずに混乱してしまうだろうから。だから、アイドルをやってたこととか、高校ってとこに通ってるんだとか、そういうことはまだ詳しく伝えることが出来ずにいる。回復を待ちながら徐々に伝えていこう。今はまだ本人の体と心のケアが先決だと、そう思っていた。そんな状況だ、まして、実の兄と恋愛関係にあったことだとか──そんなことは、話せるはずもなかった。





    「いよいよ来週退院だなァ。寮生活、ホントに大丈夫か?」
    一ヶ月の入院生活を経て一彩は徐々に回復し、その間に少しずつ、故郷を出てから現在までの経緯と現状を説明した。故郷にいたら想像もできないような環境だ。そう簡単には飲み込めないだろうと思ったけれど、最終的に一彩は、ここに残ることを決めた。
    「おまえの同室のやつらなら話はわかってくれるし。どっちかとしばらく交替してもらってもいいんだぞ」
    「大丈夫だよ、兄さんにばかり迷惑をかけるわけにいかないから」
    「こういうのは迷惑とは言わねえの。家族なんだから」
    記憶が完全じゃないうえ、故郷にいた頃の記憶しかないからか。目覚める前よりも、一彩はどこか他人行儀だった。元から俺に迷惑や心配をかけまいとする節はあるから、記憶があろうとやっぱり同じように言ったのかもしれないけど。それでも以前とは何かが違う。そんな気がした。二人の間にある距離か、温度か。その違和感に戸惑うと同時に、目の前の弟を以前と今とで違う人間のように思ってしまいそうな自分にも辟易していた。
    「つーか、過去のおまえと同じ道を選ばなくたっていいんだぞ、別に。故郷に帰ってのんびり過ごしたっていいし、都会に残るにしてもアイドル以外の道もある。何を選ぶにしろ手は貸してやるからおまえの好きなように……って、なに笑ってんだよ?」
    気がつくと、ベッドの上の一彩は話に耳を傾けながら笑みを浮かべていた。
    「ふふ、ごめんね。記憶が戻るにつれて、記憶の中の兄さんと今目の前にいる兄さんとで雰囲気が違うから不思議に思っていたんだけど。やっぱり、家族思いで優しいところは今も昔も変わらないんだなって」
    「……そうかよ」
    柔らかく微笑む顔。後ろ髪を引かれながら、ずっと見ていたくなるような優しいそれから目を離した。一彩と目を合わせることを避けている自分がいる。それはきっと、自分の思いが透けて一彩に伝わってしまったらとか、そんな恐れからだった。馬鹿げてることも情けないこともわかってる。
    「で、どーなんだよ」
    「ウム?」
    「いいのか、このまま都会に残って」
    ここに残って寮で生活するということは、アイドルも学生生活も続けるということだ。もちろん、このまま記憶が戻らなければまた一から覚え直すことになる。
    「故郷ともある程度折り合いがついているそうだし、ここにいれば兄さんの傍にいられる。それに、僕が所属しているらしい、えっと、ゆにっと……というんだったかな?そこでお世話になっていたみんながね、この間お見舞いに来てくれたんだ。僕さえよければ今後も一緒に活動したいって……僕がいいって、言ってくれて。必要とされてるんだって嬉しかった。だから僕も、僕の友人たちの期待に応えたい」
    「……ん、そっか」
    あいつらならそう言うだろうってことは容易に想像できる。それに、俺が思い描くのだってやっぱりリーダーとして天城一彩が並んで立っているALKALOIDだ。一彩さえそれを望み受け入れられるなら、こいつが復帰するのは正直、俺も嬉しい。
    「それはさておき。迷惑をかけたくないっていうのは遠慮しているわけではないんだよ。兄さん、このところ顔色が悪いように見えるから」
    「病人に言われてちゃ世話ねえな」
    「病人ではなく怪我人だよ。それに、そっちの方ももうほとんど完治してる」
    「はいはい」
    話を逸らさないでとむくれる一彩の頬をつつくと、次は子供扱いは嫌だとごねる。それが可愛くて、少し笑えた。俺が笑うと一彩の表情もこころなしか柔らかくなる。その笑顔からまた、つい目を伏せてしまった。
    「ねえ兄さん、ここで少し寝ていったら?」
    「あ?ここで?」
    「うん。こんなに大きな寝具だから、二人でもきっと眠れるよ」
    ほら、と言って一彩は掛け布団を捲り、片側に少し寄って空けた空間をポンポンと叩いて招いた。
    「いやいいって。病院の布団で勝手に寝れねえっての」
    「でも、もしも帰り道で倒れたりしたら心配だ」
    「そんなヤワじゃねえよ」
    心配してくれるのは嬉しいけど。そういえば昨日ニキのやつも珍しく、ストックしてある菓子パンを寄越してきたっけ。カロリーが高くていいとか前に言ってたやつ。周囲に悟られるほど疲れが顔に出てるってことか。情けない。
    一彩も一彩で、大丈夫だからと何度言い聞かせてもでもとかだってとか言ってなかなか引かない。頑固なやつだ。
    「ンじゃあ頭だけ。頭一個分だけスペース貸してくれよ」
    椅子に座ったまま上半身を倒し、一彩のベッドに突っ伏す。
    「この体勢でいいから、ちっとお昼寝させて」
    「ちょっと寝苦しそうに思えるけど……わかったよ。子守唄を歌おうか?」
    兄さんはよく一緒のお布団に入って歌ってくれたよね、とかなんとか言って手を握って背中をトントン叩いてくるのを、赤ん坊じゃねえよと突っぱねる。それでも結局離されることのなかったその手の温もりや背中の振動は、想像よりもずっと心地よく、不覚にも数分と経たず、眠りに落ちていた。


    歌が聴こえる。懐かしい歌。確か子供の頃に聴いた……ああ、そうだ。母上がよく歌ってくれた子守唄だ。
    ──いらないって言ったのに。
    俺もよく、一彩が幼い頃、ぐずついて寝ないときに歌って聴かせてやってたっけ。戻った記憶の中にこの歌もあったのか。一彩の歌う声が優しく鼓膜を揺らして、夢見心地のまま、浮上しきらない意識が彷徨う。子供の頃に一緒に寝たこととか、歌ってやった子守唄とか。あいつはちゃんと覚えてて、その思い出をあいつは取り戻したんだ。今ここでこうして、懐かしい歌とともに思い出が再演されることで、一彩の頭にその記憶はまたしっかりと根づくはずだ。だけど、それなら。
    一彩が失くした記憶は、今どこにあるんだろう。
    一緒にステージに立って見た景色や、交わした言葉は。恋をして過ごした時間は。一彩の中のどこに隠れてるんだろう。それとももう跡形もなく消えちゃったのかな。もう二度とあの思い出は帰ってこなくて、あの日々に戻れることはもう二度と、ないんだろうか。目頭が熱くなるのを感じて、シーツに埋めるようにして顔を隠した。繋がれたままの手。その向こうで紡がれていた歌は、もうすぐ終わる。

    歌が途切れてしばらく。窓の外から鳥の囀りと木の葉のざわめきだけが耳に届いていた。さっきまでまだ夢の尾を引いて曖昧だった意識はいつしかはっきりと浮上している。そこへふと、一彩の声が聞こえた。
    「……兄さん」
    一彩の口にするそれは確かに、紛れもなく俺のことを指すものだけど。これは呼び掛けじゃない。ひとり呟くだけの、他者には向けられていないとわかる声音。
    「『兄さん』、か……」
    病室で二人きり過ごす、夕暮れの手前。不意に呟かれたその独り言の意味するところは、俺にはわからなかった。





    「ヒロくん、最近オムライス食べないよねェ」
    ES、社員食堂。向かいに座るのは僕の友人。名前を白鳥藍良という。
    「オムライス?」
    「うん。前は毎日のようにオムライス食べてたんだよ、ヒロくん。長い時間かけて迷っても、結局注文するのは毎回オムライスでさァ」
    呆れたように藍良は、以前の僕との思い出を話す。表情こそ呆れ顔を見せてはいるものの面白おかしく笑い話のように話すから、ついつい笑みがこぼれる。
    「以前の僕はよっぽどオムライスが好きだったんだね。そういえば同室の椎名さんにも言われたことがあるよ、『オムライス好きだったっすよね〜』って」
    「今は好きじゃないの?」
    「うーん、オムライスもとても美味しいと思うけど、今はハンバーグが好きかな」
    話に聞くところでは、藍良は元々、僕と一番交友が深い間柄だったらしい。その記憶を失ってしまった僕に最初は戸惑った様子だったけれど、事故から三ヶ月が経った今では屈託なく接してくれている。
    「事故にあって味覚が変わったとか?」
    「どうだろうね?事故の影響か記憶がないからなのか、僕にもわからないけど……」
    そもそも僕の中には故郷の料理しか思い出として残っていないから、都会で食べるものの味はどれも新鮮だ。何を好きになっても、自分の中では以前とは嗜好が変わっているように思える。
    「他にも、事故以前と今とで僕が変わったところってあるのかな?」
    当然だけど自分ではその違いがわからない。知ったところで以前の僕に合わせようだとかは思わないけれど、僕が都会でどう過ごしていたのかは少し興味があった。
    「変わったとこ?うーん、細かいこと言ったら多分色々あるんだろうけど……。あ、そういえば。燐音先輩のこと、あんまり追っかけなくなったよね」
    「兄さんのこと?」
    「うん。前は一キロくらい先にいても見つけたら絶対手振っておっきい声で名前呼んでさァ。それで、よく逃げられてたのに」
    「フム。逃げていたということは、兄さんは僕のことを避けていたのかな?」
    「ヒロくんの声が大きすぎるんだって。あんな大声で呼ばれたら誰でも逃げる」
    苦笑いを見せる藍良が「おまけに『愛してるよ!』とか叫んでたし」と付け加えた。
    「ということは、やっぱり僕は都会に来てからも兄さんのことを慕っていたんだね」
    「そうだねェ。燐音先輩に対しては、ちょっと並々ならぬ情熱を感じた」
    「兄さんのことももっと知りたいんだけど、聞かせてもらえないかな?」
    僕が懇願すると藍良は「ええー」と眉を顰めて、手にしていたスプーンの先を、指を差すようにこちらへ向ける。
    「自分で聞きなよ。おれは別に燐音先輩のことそう詳しくないし」
    「ウム、本人に聞ければそれが一番いいんだけど……」
    兄さんの最近の様子を思い返しながら、藍良の至極もっともな指摘に濁った返答を返す。以前の僕は離れた場所からも兄さんを呼んでいたと藍良は言うけれど、今の僕だって、できることなら兄さんに声を掛けたい。さっきも、食堂の隅に兄さんがいたことには気がついていた。
    「もしかして上手くいってないの?」
    「上手くいってないというのかはわからないけど、兄さんが僕を避けているのは確かだと思う……」
    僕が兄さんに声を掛けるのを躊躇ったのは、兄さんが僕を避けているからだ。迷惑なら声を掛けるべきではない。そう判断してのことだった。だけど、兄さんが僕に声を掛けない理由はわからない。兄さんが僕の存在に気づかないはずはないんだ。それなのに、僕が席についた途端、そそくさと食堂を後にしたのはなぜなんだろう。
    「以前の僕と兄さんは仲がよかったの?」
    「うーん、最近は普通に仲良くしてたと思うけど?時々二人で出掛けたりしてるみたいだったし」
    「そうか……。それなら、今の僕が避けられているのは、以前の僕と違うからなんだろうか」
    それを探るためにもその差異について他人に意見を求めたかったのだけど、今のところオムライスが好きだったことくらいしかわからない。そもそも避けられている理由は以前との差異にはなくて、最近の僕が何か粗相をしたのかもしれない。藍良の言う通り、本人に訊くのがきっと一番いいんだと、わかってはいるんだけど。
    「ないない、燐音先輩がそんなことでヒロくんのこと嫌いになるなんてありえないって」
    思わず口をついて出てしまった弱音を、藍良は迷わず一刀両断する。そこまで言い切る根拠が僕にはわからなくて首を傾げた。
    「そう、なのか……?僕はてっきり兄さんに嫌われてしまったんだと思っていたんだけど」
    「嫌うなんて絶対ないって。あの人すっごいブラコンだもん」
    「ぶらこんとは何だ?」
    「弟大好きってこと」
    「だ、だいすき……」
    本人から聞いた言葉じゃない、あくまでこれは、他人から見た兄さんの姿だ。わかってはいるものの、大好きなんて聞くとつい照れくさくなる。
    「でも、それならどうして避けるんだろうか」
    「だから本人に訊きなって。どーせまたよくわかんないことでくよくよしてるだけなんだから」
    僕の記憶にある兄さんはいつだって即断即決できる聡明さと勇敢さを持った人物だった。そんな兄さんがくよくよだなんて、いまいち想像がつかない。
    「お見舞いだって毎日来てくれてたんでしょ?それで嫌いなわけないじゃん、むしろ失礼だよォ?」
    「それは、家族として責任を果たしてくれたということかと思っていたんだよ」
    兄さんは責任感の強い人だ。身内に何かあればできる限りの責任を負い、それを全うするに違いない。そういう志のもとで行われた行為だと思っていた。
    「また変に拗らせる前に話しにいきなよ。たぶんヒロくんからアタックしてかないと、向こうからは来てくれないよ?」
    「ウム……そうだね。よし!藍良のお陰で勇気が出たよ、ありがとう。流石は僕の親友だ!握手をしよう☆」
    両手を差し出すと「握手はもういいって」と呆れながら手を握らせてくれる。愛らしい見た目に反して物言いは意外と容赦がないけど、彼は心根の優しい子だ。
    「あ、そうだ、ついでにもう一つ訊きたかったことがあるんだけど」
    手を握ったまま「なに?」と向けられた視線を真っ直ぐに見据え訊ねる。
    「都会では、兄弟での交際は禁じられているのかな?」
    「………………なんて?」





    喩えるなら。多分ろうそくの火のような、小さな恋だったんだと思う。それに火をつけたのは一彩の方で、俺はその小さな火を守ることに必死だった。少しの風にも晒されないように、誰にも告げず、大それたことは望まずに。ただ静かに恋をしていた。兄弟でこんなことって何度も迷いながら、それでも、頷いて受け入れた思いを最後まで守りたくて。それが死ぬまででも、一彩がほかの誰かと幸せになるのを見届けるまででも構わない。そう思ってた。
    「……はず、なのになァ」
    笑ってくれたら幸せで、愛情を惜しみなく注がれれば胸には愛しさが溢れた。その感情は唯一あいつにだけ抱くもので、初めて知った思いだった。あいつのくれるそんな幸せに、俺は上手く応えられてなかっただろうけど。それでも本当に、俺が自分で思う以上に、恋をして過ごした時間は幸せなものだったんだ、きっと。
    一彩の記憶と一緒に消えた恋だ。ろうそくに火が灯ることはもうない。俺の中にしかない記憶を本当にあったと証明するものはなくて、確かめあえる人もない。

    歩道橋から、月を見上げる。いつか二人で出掛けた日、寮に帰るのを少しだけ先延ばしにしたくて遠回りして帰ったあのときと、月は同じでもその形は違う。あの日の月がどんな形をしていたのか、俺はもう覚えてない。綺麗だねって隣で言った一彩の声や眼差しは覚えてるけど。だけどそれを思い起こすと胸が痛いから思い出したくなくて、でも、思い出さずにいるうちにいつか忘れてしまえば本当に、本当にこの恋は、なかったことになる。火を灯すすべも持たずにろうそくだけ持っていたって、なんの意味もない。それは、わかってるけど。
    柵に凭れて見下ろせば、歩道橋の下を自動車のライトが通り過ぎる。冬のにおいが鼻をつく。
    ──一彩のやつ、今日もハンバーグ食ってたな。
    一彩と、どんな顔で何を話せばいいのかわからない。小さな恋だったはずなのに、俺にはその存在が大きすぎた。幸せになってくれればそれでいいって、口では言えたとしても心はいつまでもそれを受け入れられないだろう。いつからこんな我儘になったのか。あいつが俺に向けた声や眼差し。俺が失ったそれが、いつかほかの誰かに向けられる。そんないつかを想像すると耐え難かった。今のあいつに、それを告げるつもりはないけど。
    「あー、ヤバ……」
    込み上げてきてくる思いに鼻の奥がツンと痛んだ。潤んで街の明かりが滲むから、それ以上は溢れないように飲み込んで、その場に蹲る。立ち上がれないのを、今だけ許してほしい。
    事実を知らせたところで心は帰ってこない。今のあいつに以前と同じものを求めるのは間違いだし、そんなことしたくもない。過去のあいつが俺を、実の兄なんかを好きになったのと同じように、これからのあいつも自分の心の向くままに誰かを愛せばいい。同じように俺も、気の済むまであいつのことを、初めてだったこの恋を、好きに思い続けるだけだ。

    夜の歩道橋。自分以外には街灯の明かりだけだったそこに、階段を昇ってくる足音が聞こえて、ひとつ深く息を吐いた。そろそろ帰ろう。寮に着く頃にはいつもの自分に戻れるように、気持ちを入れ替えて立ち上がろうとしたとき。
    「兄さん?」
    階段を昇りきり顔を出したのは紛れもなく、今しがた思いを馳せていた人だった。
    こっちがその名前を口にするよりも早く、一彩が傍へ駆け寄る。
    「どうしたんだ、そんなところでしゃがみこんで……!具合が悪い?それとも怪我をしてるのかな?」
    大丈夫か、肩を貸そうかと矢継ぎ早に質問攻めを食らって、これじゃ返す言葉も返せない。ひとまず落ち着いて人の話を聞け、と諭そうとしたところでちょうど、不意に一彩の動きが静止した。いつの間にか両手とも一彩の手に繋がれていて、逸らせない距離にその顔が、視線がある。随分と久しぶりに直視した気がするそれはあまりに真っ直ぐで、思った以上に、ずっと──
    「兄さん……」

    なんでおまえが。そんな熱のこもった目をして、キスなんて寄越すんだろう。
    不意の口づけを受け入れて閉じた瞼の裏に、今しがた見た一彩の瞳が映って、焦がれて求めた恋と重なった。
    「……一彩…」
    「あ…す、すまない、つい……」
    なんでとか、色々。訊きたいことも言いたいこともあるけど。何も言えず、繋がれた手も解けない。
    「あの、兄さん……」
    「ン、なに?」
    ぎこちないやり取り、ぎくしゃくした空気。冬の夜だっていうのに、じっとりと汗をかきそうだった。呼吸は浅く、鼓動が逸る。
    「前にも僕は兄さんと、こうして口づけを交わしたことがあるのかな?」
    「……なんで、そう思うんだよ」
    ドクンと大きく乱れる心臓の音に自分で焦りながら、悟られないようなるべく平然を装った。
    「慣れているように思えたから。兄さんの仕草も呼吸も、僕を受け入れることに慣れている……気がする。違う?」
    真っ直ぐにそう突きつけられて、降参の意を込めて笑みを作る。その口の端から、短いため息がこぼれた。
    「一瞬、記憶が戻ったのかと思った」
    そう言うと、困ったような顔をして一彩は笑う。その手にもう力は入っていなくて、解こうと思えばきっといつでも解くことができた。
    「故郷と都会では常識や規則が異なることも多いから一応確認してみたんだけど、少なくともこの国では兄弟間どころか同性での婚姻も許されていないようだね。もちろん、交際することもあまりよく思われていないらしい」
    この弟は、何を言い出すかと思ったら。誰に確認をとったんだろうと思うとちょっと頭が痛いけど、それは今は置いておくことにする。
    「正しくないことしてるお兄ちゃんで、がっかりした?」
    月はゆっくりと空を渡っていく。夜が深くなっていくにつれて、冷え込みが増してきていた。ひとりでいたらきっと、今頃指先がかじかんでいたんだろう。
    「ううん。ちっとも」
    凛と澄んだ声にも、ぱっと光が差すような笑顔にも、ほんのわずかな偽りさえなかった。
    「病室で目を覚ましたとき、一目で心惹かれたんだ、あなたに。だから、兄弟なんだって自覚したとき、とても嬉しかった。この人が僕の『兄さん』なんだって。憧れた人と生まれてから死ぬまで血が繋がっているって、なんて幸運なんだろうって」
    「ははっ。ンだよそれ。相変わらず面白いこと考えるよな、おまえは」
    こいつには、思いもよらない解答を見せられることが多い。何が正しいかなんてどうでもよくなっちゃうような。
    「なんでおまえ、よりにもよってまた俺のことなんか選んじゃうのかねェ」
    因果なもんだ。呆れて笑いながら一彩の髪に手を伸ばす。ふわふわのくせっ毛、冬の空気に冷えた耳。久しぶりに触れたその感触に泣きそうになりながら手を滑らせて頬を撫でると、一彩は気持ちよさそうにそれに擦り寄る。小さい頃から変わらずに、愛らしく甘える仕草が上手なのは、弟に生まれついたからだろうか。
    「最近覚えたんだけど。こういうのは、『運命』と呼ぶそうだよ」
    こっちの気持ちを聞きもしないで、なんでそんなに自信満々なんだか。おまえはいつもそうやって当たり前みたいに愛を寄越す。今も昔も変わらない。おまえはいつもそうやって、火を灯すんだ。
    「……うん。知ってる」
    運命ってことにして。繋がっていいかな、もう一度。
    歩道橋の上、二人静かに抱き合うのを、月だけが見ていた。
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