蜘蛛の糸 酷くして欲しい。珍しい弥鱈からのおねだりに、うんと酷く甘やかして抱いた。
皺まみれのシーツ上で身体をとろりと熱に蕩けさせながら「酷い男」と啜り泣く様に「望んだ通りだろう」と返したのが、昨夜。朝の白い光が差し込むシーツに転がり昏々と眠る顔は、門倉の目に酷く幼く映る。だからこそ、その泣き腫らした瞼や、頬に残る乾いた涙の跡が目を引いた。頬に手を伸ばし、慈しむようにその輪郭をゆるりと撫でてやる。
聞いた事の無い着信音。端的に交わされるやり取り。消えた数日間。帰宅時の黒いネクタイとスーツ。弥鱈のこの数日について、察しはつくものの此方から何かを言う気は毛頭なかった。成人してから出会った以上、互いに知らない夜があることは当然で。晒される部分外に触れる必要はない。互いにそう分かっているからこそ、弥鱈とのこの関係は楽だった。その筈だった。
事後のせいだけでない、どこか倦怠感の残るすっきりしない目覚めに門倉の喉から呻きが漏れる。ガシガシと髪をかきながら、舌打ちと共にシャワーを浴びに寝室を後にした。
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「おはよう弥鱈」
「…おはようございます」
シャワー後、軽く朝食を済ませてリビングでコーヒーを飲んでいると、のそのそと弥鱈が部屋に入ってくる。いつもよりカーブを描くその猫背に待つように声をかけ、門倉は朝食を取りにキッチンへと向かった。
「父が死にました」
コーヒーサーバーから注いだばかりの湯気の立つマグを席に着く弥鱈の前に置く。それに軽く頭をさげ、向かいの席に門倉が着いたのを確認してから、弥鱈は口を開いた。
その言葉に、一瞬ぴくりと反応するも何事もなかったかのように門倉は自分の分のコーヒーを啜る。そんな門倉の様子に気にすることなく、弥鱈はぼつり、ぽつりと続ける。話すというよりは溢れ出しているようなその言葉の先を黙って待つ。
「父は私にとって恐怖でした。世界でした。怒りでした。指針でした。不安でした。慰みでした。嫌悪でした。哀れみでした。憎しみでした。愛でした」
ふうっと長く息を吐き出し、弥鱈が俯く。その肩が僅かに震えていることに、門倉は気が付かない振りをした。
「自身の歪みは物心つく頃には自覚していました。受け入れていました」
「だから葬儀も、父への報告会のつもりだったんです」
机上で組まれていた弥鱈の指が、マグカップを手にするも口にすることなく机に置く。
「その先にあるのは開放か、浄化か…あったのは、まだ自分が旅路の途中なんだという自覚でした。行き先も、道があるのかすら分からない、長く続く道でした」
「いつの頃からか、父のためにという前提が揺らいでたんでしょうね」
「別にその事はなんでもないんです。これが『弥鱈悠助』という存在なんだと。それでもいいと思っていましたので…その道先にアナタが居ると気が付くまでは」
伏せられていた顔があげられ、その瞳に門倉を映す。朝日を受けて鈍く光るその輝きに思わず目を細める。澄んだ底なし沼のようだと思った。その双眼から、ドロリと透明な泥が溢れ出してテーブルにシミを作る。
「『父』という傀儡が朽ちた今、残された私はただの人間でした」
「アナタの熱を知ったあの夜に、人間としての『弥鱈悠助』が誕生したあの夜に、それまでの『弥鱈悠助』は死んでいたんです」
「アナタが私を人間(ダメ)にしたんですよ」
その言葉に、脳が揺さぶられるような衝撃が走る。込み上げる感情を長い溜め息として吐き出してから、唸るようにその名を呼ぶ。
「弥鱈」
「…」
「悠助、言って」
先をねだる門倉の言葉に、震える唇が形作る。
「門倉さん」
「おう」
「門倉さん、」
「うん」
「門倉さん、一緒に堕ちてください」
「わかった、すくい上げたる」
弥鱈は、声を殺して泣く。