Be my Valentine休前日の夜、杏寿郎と義勇がリビングで他愛無い話をしていた時だった。
ぱちりと視線が合って、ふっと会話はそこで途切れた。
きっとそういう波長も合っていたのだろう、杏寿郎が合図のように、手にしていたマグカップをテーブルへそっと置いた。コト、と慎重な音が立ったのとは対照的に、ソファの間を詰める衣擦れは遠慮のない響きをしていた。
「義勇」
呼ぶ声が低く甘くなっている。触れられてもいない耳がくすぐったくなり、思わず義勇は目を伏せた。逃げた彼の視線を敢えて捕らえないまま、杏寿郎はクスリと小さく笑った。
杏寿郎はその目立つ風貌や堂々とした様から、豪快な性格にも思われがちだ。けれど実際は、人の繊細な感情を読むのが人一倍上手かった。
今だって少々強引なふうに見せて、義勇が甘えたがっているのを、義勇が付け入る隙を遠慮がちに作っていたのを見逃していない。
「義勇、こっちを見て」
声に促されるまま、伏せていた視線を杏寿郎へと向ける。
もう一度目が合うと、普段炎色をした眩しい瞳は、今は濃い蜜の色していて、義勇の視線を絡め取ってきた。甘ったるい蜜に溺れてゆく心地がした。眼差し一つで自由が奪われてしまう。同時に義勇の腰へ手が回された時、反射的に小さく息が漏れた。
杏寿郎のもう片手は義勇の頬に添えられ、親指が唇を掠めるくらいに撫ぜてくる。柔らかな弾力と温もりを確かめながら、指が唇の輪郭をくるくると繰り返し辿る。
口唇を彼の良いようにされながら、義勇は身体を何度も小さく震わせた。期待でこわばり、奥からじわりと熱を持ち始める。
それを察してなのか、身体のこわばりを体温で溶かすように、杏寿郎の手が義勇の腰から肩までを撫で上げた。
わかりにくくも甘えたいと発していたのは義勇の方なのに、杏寿郎は視線と表情と手指で、とにかく義勇を懐柔してくる。愛情なのか独占欲なのか、もしくはその両方なのか。
この先を想像しただけで、緊張と期待に思わず義勇は吐息を溢した。
義勇が一欲しがれば十与えてくるような男だ。きっとこの後は長い長いキスをされ、杏寿郎の手指が唇が、自分の頬から耳、喉元、さらに下へと降りてゆく。一等弱いところを散々愛されたら頭は真っ白になってしまう。そうしたらもう、後は杏寿郎にされるがままだ。
まだ背中と顔しか触れられていないのに。義勇は想像だけで深く口付けした心地になって、口内には唾液がじわっと満ちていった。
自然と物欲しげな顔になっていたのだろう、義勇の表情を見て杏寿郎は満足そうな笑みを浮かべる。けれど瞳の奥は飢えていて、義勇を心底欲しぎらついていた。
優しさの奥に獰猛さが見えて、義勇の中でまた熱がじわじわと広がっていく。
堪えきれず、義勇は瞳を閉じ唇を少しだけ突き出して、無言のおねだりを見せた。
すぐに杏寿郎が顔を近付けたのが分かる。瞼を閉じたまま、心音が早まるのを感じながら、義勇は杏寿郎を待った。
けれど、少し待っても唇には何も触れて来ない。義勇が不安になって目を開けると、杏寿郎はただじっと顔を覗き込んでいた。
「……杏寿郎?」
どうしたんだと聞くと、杏寿郎は感動しきりの様子で、しげしげと義勇を見る。
「君のキスを待つ顔が可愛くて」
「え?」
何を言っているんだと義勇が眉根を寄せると、杏寿郎は全く真剣な表情で続ける。
「本当に綺麗だ。あんまり可愛くてどうしようかと。俺もすぐに目を閉じるのは勿体無いと思った」
そう客観的に言われると、いいや、杏寿郎の主観か。さっきとは違う恥ずかしさが込み上げ、義勇の顔がさらに熱くなってきた。思わず俯いて、赤くなった顔を隠す。
「あ!義勇、下向かないで」
「……」
それでも義勇が頑なに俯いていると、あやすような声が頭上から降ってくる。
「お願い、義勇」
「……」
「君の顔が見えないと、すごく寂しい」
杏寿郎の言葉に、義勇は反射で顔を上げてしまう。彼の困った表情や、寂しげな声音には義勇は一等弱かった。
義勇の素直さにまた杏寿郎はにっこりと笑い、もう一度頬を撫でた。
「キスしても?」
杏寿郎が尋ねると、義勇は小さく頷き、再び目を閉じた。義勇の頬に手を添わせたまま、親指で下唇をなぞり、唇裏の粘膜に触れる。つるりとした弾力に誘われて、親指を義勇の口内へと進め、下の歯を指の腹で撫でた。指の先を少ししゃぶらせると、その中はすでに唾液で随分と潤んでいた。
──ああもう、口の中までこんなに濡らして。
堪らなくなって杏寿郎は指を離し、唇を重ねた。啄みながら表面を何度も軽く触れ合わせ、黒髪に触れ耳朶を辿り、腰に回したもう片腕の力を強めた。それだけで義勇は、喉奥でくぐもった声を小さく鳴らした。
「義勇、舌を出して」
義勇は言われるまま、口を開けて紅い舌を小さく出して見せる。杏寿郎の舌先でくすぐり絡みつき、唾液ごと軽く吸ってやると、義勇の肩が何度もびくりと跳ねた。
「ん、っ、きょうじゅろ、」
(……甘い)
君の表情も声も唇も。気がおかしくなるくらいに甘ったるくて愛おしい。
「義勇」
「?」
「すまない、我慢できない」
すっかり余裕がなくなった杏寿郎の声に、義勇は身体の中からまた溶かされていく気がした。
青い瞳を潤ませながら、義勇は口を半開きに舌を見せ、もう一度キスを誘う。
全部、お前のだ。全部奪って。
視線でそう訴えれば、杏寿郎は義勇の思考を読み取って、今度は喰らうように深く口付けた。
それから何度も抱き合って、やっと熱が落ち着いてきた頃。
シャワーを浴び、身体を拭いて髪を乾かし、今日は休もうかとベッドに入る。
シーツにくるまりながら、慈しむように杏寿郎が黒髪を撫で、義勇は身体を寄せて胸元へ頬擦りで返す。
このまま眠気がやってきそうだったが、「君に渡したいものがある」と杏寿郎が身体を起こし、ベッド側のチェストを開け、白い封筒を取り出した。
「もうすぐバレンタインだろう?海外ではカードを送る習慣があるそうだ。俺から、君に」
「俺に?ありがとう」
どんな中身だろうと、義勇は封筒を開ける。
入っていたのは、都内の空港発、リゾート地として有名な南の島行きの航空券だった。
「……杏寿郎、これは」
「今度の連休は、暖かいところでゆっくりしよう」
杏寿郎が先日、連休の都合を何度も確認していたのはこのためか。
その瞬間から、義勇の心は遠い南へ飛んでいった。エメラルドグリーンの海のそばで、穏やかな時間を過ごす彼と自分の姿が鮮明に想像できる。
「……ありがとう、杏寿郎。勿体無いくらいのプレゼントだ」
「君が喜んでくれて、俺も本当に嬉しい」
それから、布団の中で旅行の計画を二人で話した。海沿いをドライブしよう、満天の星空が見事だそうだ、ダイビングもやってみたいな。秘密基地に籠る少年のように、二泊ほどでは叶えきれないくらい、あれこれと想像を巡らせる。
来週末の自分たちを期待いっぱいに思い描きながら、二人はいつの間にか眠りに落ちていった。
眠りの狭間、幸せな温もりに包まれ、杏寿郎と義勇は同じことを願っていた。
一緒になって、もう何度目かの冬を迎えた。
時が経つほどに、愛しいあなたはもっと大切で、もっと特別な存在になってゆく。
願わくば自分も、あなたにとってそうあって欲しい。