対岸の明かり・紅い糸「もう大丈夫だ!怖がらなくていい。あなた方はもう、苦しまなくていい」
冷たい月夜に温かな声が響いた。
炎を纏った男は刀を鞘に納めると、地面に片膝をつき、座り込む人々に視線を合わせる。
鬼に囚われていた、あるいは脅されていた者たちは、煉獄の深く優しい眼差しに緊張が解けたのか、幾人もが顔を覆って安堵に泣き出した。
すると、茂みの奥がガサガサと鳴り、もう一人の柱が姿を現す。
「煉獄、周辺に他の鬼の気配はない。ここは大丈夫だろう」
「君が駆けつけてくれて助かった。ありがとう、冨岡」
「俺は担当区域に戻る。お前は片付いたら休め」
そう言うなり、冨岡は背を向けて戦いの場を後にした。丁度同時に、他の隊士や隠が駆けつける。
煉獄はその場を彼らに任せると、急いで冨岡を追いかけた。
「待ってくれ!冨岡!」
ほんの数秒で彼の姿は見えなくなってしまった。果たして追いつけるかと煉獄は焦り走るが、河口が見えて来たあたりで、予想よりも早く冨岡の後ろ姿が見えた。冨岡が立ち止まり、川向こうの遠い街明かりを見ていたからだった。
追いついた煉獄も足を止め、その背中へ声を掛けた。
「冨岡」
「あの辺りは、あんなに明るかったか」
「あの一帯にも、少し前に電気と瓦斯が普及したからな」
「……そうか」
冨岡は束の間、街の明かりをその青い瞳に映していた。
煉獄は隣に立つと、黙ったままその横顔を見つめる。
星のように点々と光る明かりの一つ一つ、その中に人々の暮らしがあり、命が息づいている。警戒を解けない夜の中にあって、平和を謳うかのように優しく輝いている。
静かな深青の瞳が微かに揺れたのを、煉獄も気付いていた。
かつては彼も、あの温かな明かりの中にいたのだ。
幼い頃から父の背中を見て、鬼の存在と、それを討つ使命を知っていた自分とは違う。幸せを壊されなければ、冨岡は対岸の向こう、あの明かりの中で生きていたはずだった。
ついさっき、助けた者たちへかけた己の言葉が、煉獄の脳裏をよぎる。
もう苦しまなくて良い、と。
「……君にもそう言えたら、」
「煉獄?どうした」
「……いいや、何も」
煉獄は一歩冨岡へ近付くと、にこやかに笑って見せた。
「君が何か、俺に望むことはないか。俺にして欲しいことは」
「早く休め。昨日も寝ていないんだろう」
「ううむ、そう来たか」
困ったものだ、自分の愛しい人は。他人を思いやり己の取り分を平然と勘定に入れぬ、誰よりも優しい男なのだ。
煉獄が思わず腕を組むと、冨岡が少し考え、いつもよりさらに小さな声になって、ぽつりと呟いた。
「お前が何かくれると言うなら」
「ん?」
白く長い人差し指が、煉獄の頭を指した。
「お前の、髪紐が欲しい」
「……?今、使ってる髪紐か?」
冨岡は分かりづらくも照れ臭そうに、小さく頷く。
ねだられるまま結えた髪の根元に指をかけ、紐を解く。金の髪がふわりと下りると、ほんの僅かに気が緩む心地がした。髪を下ろすなんて部屋の中位のものだから。
「こんなもので良いのか」と煉獄が問うと、「それがいい」と間髪入れずに返される。
差し出された紅い紐を両手で大切に受け取って、これまた分かりづらくも嬉しそうに、冨岡は小さく微笑んだ。
「ありがとう、煉獄。大事にする」
冨岡はそう言って、紅い紐へ愛おしげに唇を寄せた。
そこでやっと煉獄は気付く。自分が身につけていたものを、冨岡は御守にしたかったのだと。幸せがこそばゆく身体中をくすぐってきたが、同時に少々思うところもあった。
嬉しいけれど、口付けなら髪紐よりもまず、目の前の俺にくれないか。
煉獄が複雑な顔をしているのとは対照的に、冨岡は喜色を滲ませている。
「お前の匂いがする。髪と、肌と、汗の」
「君、流石にそれは」
髪紐はまあまあ新品ではあったが、いかんせん昨日から風呂に入れていないし戦闘で動き回って汗も滲んでいる。煉獄が珍しく戸惑いを見せると、冨岡はまた小さく笑った。
「お前の匂いは好きだ」
「……君は、もう!」
煉獄がさらに詰め寄る。
冨岡をいつまでも引き止めるわけにはいかない。けれどそんな風に煽っておいて、紐にだけ君の唇をくれてやって。俺本人がここにいるのに!
すると冨岡は動じることなく、至近距離で煉獄の瞳をじっと覗き込んだ。澄んだ双眸に見つめられ、詰め寄った煉獄の方がたじろいでしまう。
「……冨岡?」
「外で、隊服のままで、髪を下ろしているのを見るのは新鮮だな」
言外の含みがさらに煉獄を焚き付けて、両の腕が冨岡の腰と背中にぐるりと回る。子供へ言い聞かせるみたいに、額をこつりと合わせ、煉獄は困り顔を作った。
「あんまり揶揄わないで」
「揶揄ってなどいない。煉獄、もう一つ頼みがある」
「?」
冨岡は煉獄に顔を向けたまま、瞼を閉じた。
言葉もなく、小さな唇が煉獄を乞う。
「……やっと、俺をねだってくれたな」
煉獄は、求められるまま冨岡へと唇を重ねた。
柔く触れ合わせる程度に何度か口付けた後、煉獄は名残惜しくも回した両の腕を解いた。
体温が離れた後で、晩冬の風が、ふたつの身体の間を吹き抜ける。
冨岡は静かに、けれど揺るぎない目で煉獄を見つめた。
煉獄は先ほど、助けた人たちに向けた眼差しを俺にもくれた。
おそらくは、俺の過去まで思い遣ってくれたのだろう。
けれど。
二度も犠牲の上に命を助けられ、ただ懸命に刀を握り振るい続けてここまできた。
自分は柱として相応しくないと今も思っている。対岸の向こうの、幸せな明かりの中には戻れないのだろうとも。
けれど同じ場所に立ち、同じ痛みを分かち合えるお前がいる。
それはきっと、過酷な戦いの日々の中で、何よりも幸甚なことなんだ。
「俺は、逃げたいとは思わない」
「……ああ、そうだな」
煉獄は冨岡を抱きしめ、最後にもう一度、軽く唇を重ねた。祈りを込めながら白い頬をそっと撫で、微笑みかけた。
「どうか、無事で。気を付けて」
「お前も」
冨岡の言いつけを守らず、藤の家に辿り着いた後も、煉獄は起きていた。
縁側で刀の手入れを行い、その後は薄明の空をただ見つめていた。
やがて日が昇り、全てが白く眩く照らされていく。庭園の梅の花は満開を迎え、緩やかな寒風の中でさわさわと枝を揺らしていた。
外にも人の気配が段々と溢れ出し、人々の営みが今日も始まってゆく。
しばらく待っていても、煉獄のもとに鴉は来なかった。火急の知らせは無いと言うことだ。
つまり仲間たちは、冨岡は無事だったのだろう。小さく安堵の息をつき、煉獄は立ち上がる。
冨岡を心配させてはいけない。そろそろ休まなくては。
そのとき風が強く吹き抜け、梅の枝が揺れて花弁が空中に舞った。
陽光を受けて光る花弁が一枚、風に乗って煉獄の手のひらに届く。薄紅の花びらを指でそっと撫でると、しろく柔くすべらかなそれは、どうしても彼の唇を、肌を連想させた。
鬼を討ち、夜の底から今日もなんとか抜け出して、朝を迎えることができた。
昨晩見た対岸の明かりの中には、自分たちは居られないのかもしれない。
けれど今日も、君と俺は生きている。
言葉に出来ない痛みを分かち合って、温もりを分け合って。僅かな時の中でも慈しみ合うことが出来ている。
俺は幸せだ。
君と逢えて、本当に幸せなんだ。