青春系侑北が書きたい大事な話があります。
珍しく真剣な顔をした侑にそう言われたのは、人生最後の春高バレーを終えて、引退した後のことだった。どうしても二人きりで話したいと食い下がる侑に競り負けた結果、部活が終わるまで図書館で時間を潰すことになり今に至る。
改まって二人きりで話さなあかん大事な話って、なんやろ。他人の気持ちなんて幾らこっちが考えたところで分かるわけがないと頭では理解しているのだが、それでもあれこれ思考を巡らせてしまうのが人間という生き物らしい。
「すんません!お待たせしぁした!」
「お疲れさん」
「銀とサーブ勝負始めたらつい長引いてもうて…!」
「ええよ。遅くならんうちに帰るで」
「ウィッス!」
読み途中だった純文学を本棚に戻し、侑と共に図書館を出た。靴箱で一旦離れただけの僅かな間にも、侑は多くの人間に声を掛けられている。今からカラオケやゲームセンターに行こうと誘われていたり、差し入れのクッキーを押し付けられていたり。耳を澄ませているわけではないのに、声が響きやすい昇降口特有の構造のせいで全て耳に入って来る。俺はとっくに靴を履き替え、女子数人が溜まっている少し後ろでまだかまだかと待ち侘びた。
「すんません、はよ帰りましょか」
「おん。そんな謝らんでもええけど」
「で、ですよねぇ」
侑と円滑にコミュニケーションが取れたことの方が少ないのは置いといて、なんだかいつも以上に会話がぎこちない。気掛かりでふと隣を見遣ると、左手と左足が一緒に出ている。新手のギャグの一つだろうか。ツッコんだ方がええんかな。お前はロボットかい、て。
「あの、北さん!」
「なんや」
学校を出て数分。分かれ道まであと少しのところで、侑に引き止められる。手首を取られたまま次の言葉を待っている間、近くの川が穏やかに流れる音に耳を澄ませた。なかなか動きがない俺達の横を、ランドセルを揺らす少年たちが通り過ぎていく。「男二人が手ぇ繋いどるー」と揶揄われ、居心地の悪さから手を振り解こうとしても、余計に強く握られるばかり。
「ちょっと寄り道して行きませんか」
「すまん。夕飯家で食うてばぁちゃんに連絡してもうたから無理や」
「五分!五分だけ、お願いします!」
後輩に髪が靡く勢いで頭を下げられると、頷きたくなるのが先輩という立場に置かれる人間のの性だろう。甘やかしていると言われれば否定はできない。しかし、俺が侑の先輩として傍に在れるのも残り僅か。ちょっとくらい甘い目で見ても、許されるのではないだろうか。
「わかった」
頷くと、侑は自宅とは別の方向に歩み出した。手は握られたまま。振り払うことも出来なくはないが、なんだか勿体ない気がした。
黙って後ろを歩くこと数分、侑はとある河川敷で立ち止まる。この場所で二人きりになるのは今日で二度目だ。初めて訪れたのは、侑が一年生の頃。慣れない環境や人間関係から来るストレスでスランプに陥っていたときのことだった。
あの頃と比較すると、侑は随分身体が大きくなった。背も伸びて、筋肉も付きはじめて。きっと、これからはもっと大きく育つのだろう。初めて言葉を交したときはもっと顔が近くあったはずなのに、いつの間にかどんどん空へ近付いていく侑を見て、そう思った。
「ここ、俺の大事な場所なんです」
「此処がか?」
「一年の頃、北さんが初めて俺のこと気にしてくれた場所やから、大事なんです」
「は、はぁ」
あまりにも真剣に語るものだから、つい吃ってしまった。学校を出る前からずっと緊張した様子の侑は、相変わらず神妙に畏まってなかなか話し出そうとしない。約束の五分はとうに過ぎているが、早くしろと急かせるような雰囲気ではなかった。家で天ぷらを揚げているであろう祖母とその手伝いをしている姉弟には悪いが、もう少しだけ待ってやりたい。侑と二人で話をするのも、これが最後になるかもしれないから。
「侑、背ぇ伸びたな」
「そう、すかね」
「出会ったばっかの頃はそんな変わらんかったのに、いつの間にこんなデカなって」
「まぁ、成長期ですから」
「この先も、俺の目の届かんとこでもずっと、お天道さんに向かって伸びてくんやろうな」
階段に荷物を置いて、誰が剪定したかも分からない整った草を踏んだ。近くの川は、今にも隠れそうになっている夕陽に照らされ鮮やかな橙色一色に染められていた。
目の前の男がどんな悩みを打ち明けようとしているのかも分からない。果し合いを申し込もうとしている可能性も捨て切れない。どんな言葉を掛けたら、コイツの緊張を解けるのかもわからない。だから、侑の方を振り返って、ただ微笑んでみせた。すると、俺の選択を賞賛するかのように、穏やかで優しい春風が吹く。
「…き、です」
「うん?すまん。風で聞こえへ、」
「俺、北さんのことが好きです!!」
侑は転びそうな勢いで階段を降りて、俺の元へとやって来た。階段は一段ずつ降りろと何度も注意しているのに。いや、そんな事よりも今、侑はとんでもないことを口にした気がする。
「…あの、聞いてます?」
「へ」
「へ、やなくて。好きなんです」
「誰が」
「俺が」
「何を」
「北さんを…です」
侑が、俺を、好き。
好き?
なんや好きって。トロの刺し身とおんなじ類いの、アレやろか。
「一応言うときますけど、せ、性的な意味の好きですよ」
「は」
「バレーとか他のみんなとは違う意味の好きです。特別っちゅーか…俺別にホモちゃうけど、北さんにはキスしたいとか抱き締めたいとかめっちゃ思ってまうし、なんならエロいこととかめっちゃ考えたし、北さんのことぐちゃぐちゃにする夢も見ました」
「待っ、待て。お前風邪ひいとる、」
「本気です、俺本気で北さんのこと好きなんです!!悪戯とか遊びとかちゃうし、真剣に俺のこと考えてください!」
分からん。今まで恋愛なんかしたこと無いし、男に告白されたことも無い。キスとか、エロいこととか、ぐちゃぐちゃとか、そんなんも分からん。特別ってなんなん。お前にバレー以外の特別なんかあんの。知らん、分からん。顔、めっちゃ熱い。風邪やろか。
「帰る」
「え?」
「さ、先帰るわ」
「は!?え、ちょっ、北さん!?」
階段に置いた鞄のことも忘れたまま、無心で自宅まで走った。後ろから俺に向かって叫んでいる侑の声も、だんだんと小さくなっていく。
『北さんのことが、』
走り抜けている間も、頭の中には侑の声が響いた。商店街の人の声も、近所の人の声もロクに聞こえず、繰り返し再生されるのは侑ばかり。何度掻き消しても勝手に蘇ってくる。うるさい。喧しい。出てくるな。
『好きです』
何故、なんで、俺。
侑の周りにはたくさん人がいる。クラスメイト、部活の仲間、他校のファン、母校の友人。俺は所詮その中の一人に過ぎない。毎日のように顔を合わせてはいても、たくさん言葉を交した覚えもない。好意的に思ってくれているのは喜ばしいとして、性的な意味ってなんだ。侑が好むたわわな乳も、あざとい仕草も、抜群の尻も、何も持ち合わせていないのに。
「あ、ばぁちゃーん。兄さん帰ってきたでー」
玄関のドアを開けて飛び込んだ先には、丁度料理を運んでいる弟が居た。揚げたてのいい香りがするが、生憎今はそれどころじゃない。厨房からは「おかえりぃ」と優しく伸びる祖母と姉の声が聞こえた、ような気がする。ドッドッ、と爆発しそうな勢いで脈を打つ心臓のせいで、よく聞こえない。
「腹減った。兄さんはよ手洗いうがいして来てや」
「は、…はぁ、…おん…」
「なんでそんな息切れしてるん。風邪?」
「いや…、なんともない」
「けど顔真っ赤やで」
「は…?」
「?」と首を傾げた弟に背を向けて、さっさと洗面所へ急いだ。俺としたことが、鞄のことは未だ頭になかった。今はとにかく、鏡に映る真っ赤な顔をした自分を、なんとかしなくては。
バシャバシャと冷水で顔を洗い、なんとか人前に出られるまでの素顔に戻してから食事の席についた。目の前には食欲を唆るであろう天ぷらと、せいろに盛られた蕎麦。「お蕎麦は俺が洗ったんやで」と自信満々に語る弟を褒めてやる余裕は無い。脳内が侑に占領されそうになるたび、無理矢理素数を数えてやり過ごした。
「…いただきます」
三人揃って手を合わせ、箸で蕎麦を突こうとしたとき、タイミングの悪くインターホンが鳴った。普段なら俺が一番に席を立っている所だが、このとき限りは気付く事ができずに一人でずるずると蕎麦を啜った。
代理で玄関に向かった姉が、しばらくすると俺のスクールバッグを持って帰還する。
「なぁ、信介にお届け物やって。後輩くんから預かったで」
「…あぁ、鞄」
「金髪の男前のあの子。信介呼ぼうとしたけど、鞄置いてすぐ帰ってもうたわ」
「……おん」
「どしたん?帰ってからずっとボーッとして。らしくないなぁ」
そんな姉の言葉にろくな返事をしないまま、味のしない蕎麦を啜る。どんな話を振られても空返事しか出来ずにいた。皿に盛られたにも満たない量を腹に入れたところで、ついに俺の箸は止まる。
「ご馳走様でした」
「えっもういらんの?」
「今日はもう、いっぱいやから。残ったら明日食うから置いとって」
食欲の低下、激しい動悸、頬の紅潮。症状は何れも風邪に似ている。しかし何度体温計を脇に差し込んでも、平熱の数値を表すばかり。結局その日一日は、眠る直前まで侑の事を考えていた。
一睡も出来なかった。
目を開けたら侑、瞳を瞑っても侑、耳を塞いでも侑、布団の中に潜っても侑。好きだと言われたあの瞬間から、身体がおかしくなってしまった。持て余す時間をスマホに吸わせようと画面を開けば、侑からの着信が二件と、メッセージが数件。"びっくりさせてすんませんでした" "でも全部本気です"。受信時刻は昨日の夜。このまま無視するのも忍びなく、とりあえず"うん"と空返事を二文字送っておいた。
まだ祖母すら眠っている時間。俺はキッチンへ降りて、無駄に時間をかけた豪華な朝食を家族全員分作った。早めに家を出て部室の掃除でもするか、と意気込みたいところだが、もう俺にバレーボールから始まる学校生活は無い。しかしジッとしていたらすぐに侑で一杯になる。どうしようもない。姉弟の分の弁当でも作っていれば、丁度いい時間になるだろう。
目覚ましが鳴る頃、起きてきた家族に重箱のような弁当を渡すと「重っ」と同じ反応が二つ返ってきた。確かに少し詰め込み過ぎた気はするが。
「いってきます」
「信ちゃん、もう朝ごはん食べたん?」
「…おん。行ってきます」
本当は何も口にしていない。何か食べなければと無理矢理口に運んでも、箸が進まなかった。今までも悩み事に苦しむことはあったが、食事も睡眠も出来ないのは生まれて初めてだ。初めてのことばかりで対処が分からない。
ぐるぐると考え事をしながら、通学路を歩いた。朝練の無い時間帯の登校は、同じ制服を着た生徒が多くて未だ慣れない。後ろから自転車に抜かされる感覚も、恋話に花を咲かせながら群れて歩く女子たちの姿も。
教室に入ってすぐ、座席付近が賑わっているのが見えた。隣に座る練が、短い髪を女子に好き勝手弄られている。祖父に群がる孫娘達のような風景だ。
「信介、おはようさん」
「おん。おはよう」
「眠そうやな。寝不足か?」
「少しな」
練と話していると、心が落ち着く。侑に乱された心の波が、少しずつ穏やかになる。賑やかな隣を咎めることなく、俺は落ち着いた気持ちでホームルームを待った。人生最後になるであろう日誌をいつも通り丁寧に記入していると、視界の端に眩しい金色が映る。窓の外からだ。窓側の一番うしろである俺の席からは、主にバレー部が使用している第一体育館が見える。今のように朝練を終えた部員たちが体育館から出てくるところも、しっかりと見えるわけだ。俺はいつの間にか日誌を書く手を止めて、銀と何かを話し込みながら校舎に向かう侑を見つめていた。
「信介、消しゴム落ちたで」
ただ楽しそうに笑っている後輩二人を見ただけで、何も悲しいことなど無いはずなのに、ちょっとだけ胸が苦しい。やっぱ、風邪引いたんかな。
「信介?」
「ん?……あぁ、すまん。なんか言うたか」
「消しゴム、足元んとこ」
「ほんまや。気付かんかったわ」
机の下に潜り、いつの間にか転がり落ちていた消しゴムを掴んだ。練は何か言いたげな視線を俺に向けたが、口は開かずにいる。何かあったのかと聞かれても、今の俺では上手く話せる自信がない。そもそも侑に性的な意味で好きだと言われた、なんて相談したらきっとコイツの魂を抜いてしまう。
「あ、侑や」
―ゴッ。
と、鈍い音を立てて頭部を机に強打した。消しゴムを拾って丁度立ち上がる瞬間に練がアイツの名前を呼ぶものだから、つい動揺してしまった。突然の打撃音に流石の練も驚きを隠せず「大丈夫か!?」と戦場ばりの剣幕で迫ってくる。
「北信介サン居ますか〜」
「おぉ、侑。信介ならここや」
「え、なんで机の下?防災訓練ですか?」
侑はなんの躊躇いもなく三年の教室に顔を出し、ずかずかと俺の席まで向かってくる。机の下に潜ったままの俺を小馬鹿にすると、しゃがみ込んで此方を覗いた。昨日のことなどまるで無かったかのようにヘラヘラと薄っぺらい笑みを浮かべられると、苛立ちのような寂しさのような、言い表せない歯痒さを感じる。初めて触れる感情ばかりだ。心の中をぐちゃぐちゃに掻き回されて、疲れる。
「きーたーさん。なにしてんすか?」
「別に、落とした消しゴム拾っただけや。なんもしてへん」
「はよ立たんとホコリ付きますよ。ほい」
侑は笑顔を貼り付けたまま手を差し伸べてきたが、俺はその手を取らずに自力で立ち上がり、服に付いたホコリを払った。練は空気を読んだのか、俺達から視線を外して近くの女子との会話に戻っている。
「用事無いんやったら自分の教室戻り。もうチャイム鳴るで」
「用事めちゃくちゃあります!!」
「なんや」
「昨日の返事ですよ、返事!」
「返事も何も無いやろ。お前が俺を好きなんは分かった。そんだけや」
「はぁ!?」
好きだと言われて、それを理解した。これ以上何も必要無いだろう。侑は『信じられへん』とでも言いたげに顔を歪めて俺を睨みつけている。何か癪に障ったのだろうか。やっぱり分からない。
「付き合おうとかごめんなさいとか、色々あるやないですか!!」
「ごめんなさい」
「早っ。あの、もうちょい考えてくださいほんまに」
「俺は…こういう事は分からへんから」
「こういうことって?」
好きの種類、痛みの名前、苦しさの理由。反復にも継続にも丁寧にも該当しないそれらは、苦手だ。何もわからないまま勝手に締め付けられて、悲しくなって、掻き乱される。
そんなの、
「怖い?」
「…チャイム鳴るから、もう帰り」
「俺でいっぱいになんの、怖いですか?」
「帰れ言うてるやろ」
クラスメイトの視線を気にする余裕も無いまま言葉を強くした。ピシャリと冷たく言い放つと、侑は黙り込む。不満げに眉を顰めて睨まれても別に怖くはない。侑との関係を壊すことに比べたら、それ以上に怖いものなんかない。
「北さんがちゃんと向き合ってくれるまで、絶対諦めませんから」
分からない。どうして俺なんかのためにここまで必死になるのか。執拗なまでの愛情を向ける先には、明るくて笑顔が可愛らしい女子が居るべきだ。例えば、今朝の通学路で侑の名前を出されていた子とか。
俯いている俺を助けるかのように都合の良いチャイムが鳴り、担任が着席を促しながら顔を出した。三年七組の担任は二年二組の数学も担っている為、直ぐに侑を名指しで指摘する。渋々追い出されていった侑の背中は、いつもより大人に見えた。
嵐が去った後の教室では、残り少ないホームルームが始まる。卒業式についての詳細を話す担任の声に耳を傾け必要事項をメモしていると、珍しく隣から静かな腕が伸びてきた。練は机にノートの切れ端を残していく。
"放課後、時間あるか?"
心優しいこの男のことだ。きっと先程の俺と侑の会話を聞いて、世話を焼くつもりだろう。
基本的に他人の手を借りるのは好きじゃない。自力で成すべきことは自力で成すべきだと思っている。ちゃんと日々を積み重ねていれば、大体のことは一人で出来る。それでも、兄弟なんじゃないかと錯覚するほど察しのいいこの親友を、頼ってみても良いのだろうか。
"少しなら"
無愛想な一言を書き加えたノートの切れ端を隣の机に届けると、練はただ愛想の良い笑みを浮かべた。
約束の放課後が訪れるまで、一日中必死で侑に背を向けた。体育の授業で校庭に移動している侑と遭遇したときには咄嗟に物陰に隠れ、昼休みに再び七組に顔を出すであろうと予測して図書館まで先回りし、こんなにも忙しない日中を過ごしたのは初めてだった。
「立ち話もアレやし、食堂でも行こか」
「せやな」
六限が終わってすぐ、練と共に教室を出た。階段を降りるときも、昇降口で靴を履き替えるときも、キョロキョロと周囲を警戒しながら歩く。もし侑と鉢合わせたら、またどうすればいいか分からなくなってしまうから。
「侑なら速攻で体育館走ってったで」
「…さよか」
「らしくないなぁ、信介」
練は逃げてばかりの俺を揶揄い、笑った。
何かを恐れるのは性に合わない。そんなことは自分自身で一番分かっている。しかしいざ受けて立ってやろうと侑を前にすると、身体が勝手に恐れてしまう。
出会った頃から変わらない、先輩後輩という枠を飛び出すのが、怖い。優しい世界から抜け出すのが、怖い。
放課後の食堂は人気もなく静かで、内緒話にはうってつけの場だ。金のない学生たちにとっては良い駆け込み寺と言える。俺たちは入り口にあるサーバーで温かい緑茶を淹れ、適当な席へ腰掛けた。近くの窓からは柔らかく、少しだけ冷たい春風が舞い込んでいる。
「侑と喧嘩でもしたん?」
「後輩と喧嘩なんかせんわ」
「侑が入ってばっかの頃は毎日のようにぶつかっとったやろ。信介も信介でムキになっとったし」
「…昔の話やろ」
練の言う通り、侑が入部したばかりの頃は毎日のように衝突していた。一年前の侑は規則をロクに守らない、他所の揉め事を部内に持ち込む、当時の三年を全くと言っていいほど敬わない、任された雑用もやらない。とにかく自由で勝手な過ごし方をしていた侑を、初めはよく思っていなかった。実力があろうと無かろうと守るべき事は守り、やるべき事はやる。それが部員としての在り方だと思っている俺は、侑の身勝手を目撃するたびにそれを咎めた。きっと侑も、初めはそんな俺のことが嫌いで仕方なかった筈だ。それなのに、何故。
「侑がな、好きや言うてきてん」
「おぉ、良かったやんか」
「恋愛感情の好きらしいねん」
「そうか」
不思議なことに、練は特別驚いていなかった。侑の気持ちが分かっていたとでも言うような落ち着きで静かに緑茶を啜る。コイツのこういう所作が、一緒に過ごすに当たって心地よく感じる所以のような気がした。
「そっからずっと侑のことばっか考えてもうて、苦しいねん。ちゃんと話さなあかんて思っても、侑の顔見るだけで勝手に心臓ドキドキしてまともに顔も見られへん」
「侑に好きやて言われて、意識してもうたん?」
「意識…」
仲間としてでも後輩としてでもなく、一人の男としての意識。ずっと変わらない平行線だと思っていた関係が、侑の告白によって交わろうとしている。交わっても、良いのだろうか。男同士で、性格は似ても似つかない。あの日監督に声を掛けられず、稲荷崎高校に入学することが無ければ、きっと町中ですれ違うだけの関係になっていただろう。
「なんで俺なんやろ」
「納得できる理由が欲しいんなら、本人に聞いてみたらどうや?」
「後輩にそんな情けないとこ見せられへんわ。ただでさえ恋愛経験無いことバレとんのに」
「はは、ほんまに分かってへんなぁ信介」
「なにがや」
年下の男に不安打ち明けるなんて情けないやんか。侑が惚れた俺はもっと強かで気張っとる俺やろ。そんな俺の訴えを、練は穏やかに笑い飛ばした。
「頼られたい生き物やねん。ああいうのは」
「年下の男の前でデレデレ甘えろ言うんか?そんなん俺の中の俺が許せへん」
「強がりやなぁ」
「やかましい」
気を張っていないと、簡単に絆されそうになってしまう。蜂蜜を煮詰めたような甘い瞳に見つめられると、強がりや建前を全て溶かされそうになる。そんな姿の自分は受け入れ難い。
そんなの、俺やない。
「逃げっ放しはあかんのと違うか、信介」
未知の感情を知るのは怖い。誰にも見せたことのない情けない姿を、侑に見せたくはない。それでも、向き合わなくては。侑と共に過ごす時間が思い出になる前に。
◇
練はひと足先に学校を後にし、俺は一人で更衣室の扉の前に立ち尽くしていた。室内から騒がしい後輩たちの声が聞こえるたびに、引き返そうになる足をなんとか留めた。
「あ、」
「え、北さん?」
「……おん」
開いた扉から姿を見せたのは、侑を含めた二年の四人だった。コンビニに寄って新作フードを食べて帰ろうと盛り上がっている様子で登場した手前、声を掛けにくい。開口一番何から話すか、どんな風に声を掛けてどんな顔をするか、何度も頭の中で練習していた筈なのに。
「すまん、先帰っとって」
「おー」
治、銀、角名の三人は何も聞かずにその場を去った。俺に向かって軽く会釈をし、コンビニフードについて語る声たちはだんだんと小さくなっていく。もう逃げ場はない。
「待ち伏せしてすまん。驚いたやろ」
「いや、会えて嬉しいです。ちょっとビックリしましたけど」
「ちゃんと話そうと思って、待っとった」
ちゃんと言う。格好悪い本音も情けない顔も、全て曝け出してしまおう。繕わず嘘も吐かず、目を逸らさないで向き合わないと何も始まらない。例えそれで幻滅したと冷たく突き放されたとしても、嘘を重ねて逃げ続けるよりマシだ。
意気込んで固くなる俺を見て、侑は「座りましょ」と近くのベンチを指差した。自動販売機の明かりに照らされながら腰掛け、暫く静寂を浴びたところで震えそうな口を開く。
「今から話すこと、一時間で忘れてほしいねん」
「はい?」
「ええな」
「ウィッス!」
じっと睨み付ければ、直ぐに侑は頷いた。最終下校の時間が刻一刻と近付いているため悠長にはしていられない。鐘が鳴るまでに、と急く心は余計に緊張を加速させた。靴を片足落としていくほど慌てて城を出て行った女性の気持ちが、今なら少しだけ分かる気がする。
「今日、ずっと避けとってすまん」
「いいすよ。予想しとったんで」
「で、ちょっと聞きたいねんけど」
「? はい」
緊張で言葉が詰まる。試合で緊張する意味が分からんて今まで散々言うたけど、こんな気持ちやったんか。こんなん、息ができん。
自分の早い鼓動が鼓膜に伝わり、ドクドクと響く。すぐ傍にいる侑に聞こえてしまわないかが不安だ。
「なんで俺なん?」
これが自分で伝えられる精一杯だった。いちいち理由が無ければ安心できない難儀な性格を、今ばかりは疎ましく思う。数学のように、必ず正解が導ける数式が無ければ落ち着かない。ただなんとなく、直感で、なんて不確かな他人の勘を信用できるほど無邪気ではいられない。
「…正直、最初は北さんのこと苦手でした。怒ったら怖いし、すぐ説教されるし、難しいことばっか言うし」
「おん」
「けど一緒に過ごしとる内に優しいとことか心配なるくらい頑張り屋さんなとこも知ったりして…んで、ずっと目で追ってる内に本気で惚れとった、みたいな」
「惚……お、おん」
照れ臭そうに頬を掻く侑が嘘を吐いているようには見えない。もっと直感とその場の勢いで色恋沙汰に飛び込んでいる印象だったから、少しだけ驚いた。イメージと違ったから三日で振っただの、いつの間にか自然消滅してただの、軽薄な恋話を何度か耳にした覚えがある。何かをキッカケに変わったのだろうか。
「北さんが不安な気持ちは分かりますよ!いきなり後輩の男にキモいこと言われたらそりゃ逃げたくなって当然ですから」
「いや、ちゃう。気持ち悪いとは思ってへん」
「え?」
「侑が嫌で避けたんちゃうねん。……なんか、顔見たら心臓喧しいし顔熱いし、落ち着かんかってん」
誤解があるなら一つずつ解いて、噛み合わせていく。真情を吐露することは簡単ではないけれど、隠し込んで腐らせるよりも恥をかいた方が気分が良い。そんな俺の些細な決意を、侑は決して無下にしないという確信があった。
「ゆっくりでいいです。北さんが心の準備できるまで俺なんぼでも待ちます!不安なことあったら言ってほしいし、怖いことあったら頼ってほしいです。年下の俺じゃ頼りないかもしれへんけど…北さんのことちょっとでも安心させたいんで」
こんなにも自分のことを愛して、寄り添って、一途に見つめてくれる人間が侑以外に居るだろうか。子供のようだと思っていた後輩が、随分と大人に見える。
膝の上に置いていた手の上にひと回り以上大きな手が重なると、胸がきゅんと小さく鳴いた。おもむろに隣を見上げると、言葉とは裏腹にもどかしげな表情を浮かべる侑がいる。
「北さんが卒業しても、俺の気持ちは変わりませんから」
そんな口約束が果たされることを、心のどこかで願った。恋心も愛情も知り得ないはずなのに、侑と笑い合ってる自分の未来が想像できてしまうのは、何故だろうか。この感情の名前を知るのは、もう少し先になる。そんな気がした。