怖いものなんか無かった。
弱点は何かと聞かれれば、静電気だと答えるくらいには。多くの人が恐怖の対象とする幽霊やグロスプラッター映画にビクともしない可愛げのなさを貫いてきたのだ。この先も弱点なんてものが生まれることはなく、完璧と賞賛されながら生きていくのだと思っていた。
「北さぁん、一緒に風呂入ろ〜」
この男に捕まるまでは。
「一人でさっさと入り」
「えー」
「えーやない。明日トレーニングやろ」
「じゃあ連休やったらええんすか!?」
「喧しい。早よ入らんと湯冷えるで」
「ちぇ」
天邪鬼なこの口は、素直な気持ちをひた隠す。本当は毎日一緒でも構わないと考えているなんて、言えない。大人ぶった生き方しかできない俺にはとても言い出せない。そんな甘えたことを言うなら潔く腹を切るくらいの覚悟だってある。あくまで例えだが。
来年も再来年もその先も、俺は一生侑の先輩で、年上の男だ。我儘を言って困らせるなんて醜態を晒してはいけない。完璧な主将であったあの頃のように、今は完璧な恋人でいてやりたいのだ。
「よし、寝るで」
「はーい」
各々風呂を済ませ、歯を磨き、明日の着替えを準備すれば、あとは眠るだけ。オフシーズンの期間のみ侑がこの家に帰ってくる半同棲状態の今、二人で暮らすには狭い間取りで置けるベッドは一つ。先日大きめのサイズに買い替えたものの、身体が大きい侑と二人で眠るにはギュウギュウ詰めだ。そして侑の理性はお世辞にも強いとは言えない。
つまり、たびたびそういう雰囲気になってしまう。
「北さん、めっちゃええ匂いする」
「ッ……」
後ろから腕が回ってきたかと思えば、あっという間に大きな身体で包まれる。密着し肌を間近に感じると、一気に体温が上がった気がした。バクバクと落ち着かない鼓動が侑に聞かれてしまわないか不安で仕方がない。太く力強い腕でがっちりと捕らえられているせいで、少しの隙間を作ることすら許されずにいる。
「嗅ぐな、…犬かお前は」
「北さんの飼い犬やったら悪ないなぁ」
へらりと笑った侑は、大きな口で肩にがぶりと噛み付いてきた。痕を残してやると言わんばかりの豪快っぷりは、本物の獣かと疑いたくなる程だ。
「んッ、」
首筋から肩口にかけてちゅ、ちゅと唇が落とされる。下腹部当たりを撫でてくる侑の手つきはしつこく、わざとらしい。それにいちいち反応してしまう自分の敏感さには呆れる。
「っこら、触るな。寝るって言うたやろ」
「んー…一回だけ。あかん?」
「あかん」
プロアスリートという職業、そして侑の意見を尊重し、セックスで毎度俺が抱かれることになるのは必至だ。時期に関わらずオールシーズンで身体に気を使わなければならない選手に負担を強いるなんて言語道断。
俺の明日の畑作業を考慮した侑が手加減するであろうことを前提とし、せっかくのお家デートの甘い〆であるということを踏まえても、今日は行為に及ぶべきではない。なぜなら、侑が我慢できたとしても俺が求めてしまうから。侑の言う「一回だけ」に全く信憑性が無いことはさておき、もし一回で済ませられるような事があれば俺はこの身を一人で慰めることになるだろう。
「立派なもんがケツに当たっとんねんさっきから」
「当ててんすよ。わかっとる癖に」
「とにかくやらんもんはヤらん。トレーニングに支障出たらどないすんねん」
「北さん抱いたほうがポテンシャル上がるんですってぇ」
子供のようにゴネる姿は可愛いが、その程度で絆されるほど俺は甘くない。自制心を失い、骨の髄まで蕩け切った姿を侑に見られるよりも、多少の心苦しさを堪えた方がマシだ。
「また今度や。お前に時間があるときゆっくりすればええ」
「北さんは俺と色々シたいとか思わんの?」
「お前がしたいようにすればええよ。バレーの二の次にな」
恋人を受け入れ、許す。それが理想の恋人の在り方だ。侑の一番であるバレーボールを尊重し、帰る場所を守れたらそれでいい。
「…ふうん」
侑は不服そうに息を吐き、黙り込む。耳元で寝息が聞こえてくるまでの間、妙に刺々しい静寂が広がっていた。
翌朝、いつもより肌寒い風に煽られて目を覚ます。静かに揺れるカーテンを寝ぼけ頭で眺めていると、真隣の体温が無いことに気が付いた。時刻は午前七時。俺が寝坊した訳ではない。侑が先に布団を抜け出すなんて、珍しい。
「あ、北さん起きました?おはよぉ」
「おはようさん。…なんやええ匂いするな」
「朝飯作ってみました!一緒に食べましょ」
運ばれてくる朝食は、日頃全く料理をしない男が作ったものとは思えない良い出来栄えだった。スタンダードな目玉焼きとベーコン、洗いたての水気を纏ったトマト、白米の上にはカットされた明太子が二切れ。器用な手先と容量の良さ、そして愛情が目一杯詰まっている。嬉しい。緩む頬を引き締めるために冷水で顔を洗ったが、口角は上へ上へと引っ張られていく。
「なんで急に作ろう思ったん?」
「北さんに作らせてばっかやし、たまには俺がお返ししよかなーって。どう?嬉しい?」
「うん。ありがとうな」
手を合わせ、挨拶を揃えて箸を持つ。柔らかい日差しに照らされながら静かに咀嚼していると、強い視線を感じた。ゆっくりと顔を上げると、甘く優しい目をして柔和に微笑む侑と視線が重なった。
「…なんや。食べにくいわ」
「俺、もっと北さんのそういう顔見たいなぁ」
「どういう顔や」
「大きいお目々がふにゃふにゃしとる顔」
「なんやそれ」
ひと口が大きい侑は、俺が器の半分に差し掛かる頃に全てを食べ終えてしまう。ひと粒残らず綺麗に平らげた皿を食洗機に戻し、荷物を確認しながら口を動かした。
「北さんが喜んでくれるんやったら朝飯くらいいつでも作るし、食べたいモンなんでも買うし、行きたいとこ何処でも連れていきますよ」
「そんなん要らん。俺はお前に甘やかしてほしいなんて思ってへん」
「ほんまに?」
ピタリと箸が止まる。これ以上は深堀させたくない、触れられたくない心の軟らかい部分だ。ここを突かれると、きっと駄目になる。俺は不安と焦りをお茶で一気に流し込み、いつもの表情で侑を見た。
「甘え上手の可愛い恋人が欲しいんなら、俺は間違いなく人選ミスやで」
「甘えてくれる人が欲しいんやなくて、北さんに甘えられたいんです」
「俺のことは俺がなんとかする。お前に頼るつもりはない」
口の中に風味を残す明太子が、ピリリと辛さを主張した。その辛さは胸にまで響き、ジクジクと鈍い痛みを生む。この口は本当に可愛げがない。どうしてこうも、上手く言葉を紡げないのか。
「俺は、アンタの為やったらなんぼでも頑張れますけどね」
「俺の事でそんな気張る必要ないで。普通でええねん」
「あぁ、もう」
ガッと無遠慮に腕を掴まれ、手にしていた箸が床に落ちる。強引な行動を咎めようとした言葉は全て、侑の大きな口に飲み込まれていった。優しく唇を食むいつもの行為とは違う強引なだけのソレに、ビクビクと背を跳ねらせることしか出来なかった。
「北さんにとって、俺ってなに?」
「なに、って…」
「答えられへんなら別にええけど」
苛立った様子で侑は立ち上がり、愛用のリュックを背負って部屋を出て行った。俺は転がったままの箸のことなどとっくに忘れ、反射的に後を追う。
どうすればいい。好きだから怒らないでと声を掛ける媚びた真似なんて習得していない。だからといってこの場で即座に侑の苛立ちを鎮める言葉も出てこない。だが「いきなり乱暴しといてごめんの一言も言えへんのか」という正論を翳してはいけないことだけは分かる。
「侑、」
「時間なんで先出ます。……今日遅なるから先寝とって」
バタン、と寂しそうに閉じるドアを眺める。しつこいくらい振り返りながら手を振る侑の姿は無い。
抜け殻のような状態で畑に出たときも、発注書を眺めているときも、怒りと悲しみを混ぜ混んだような歪んだ表情の侑が脳裏にこびりついて離れなかった。
◇
遅くなるという言葉の通り、午後九時を回っても玄関のドアが開かれることは無い。すっかり冷めてしまった夕飯の味噌汁と生姜焼きは、ラップをかぶって大人しく侑の帰りを待っている。テレビを点ける気にもならず、頬杖をついてぼんやりと風に靡くカーテンを見つめていた。
「……上手くいかんな」
誰に語りかけるわけでもなく、ぽつりと呟く。分からないなりに最大限相手の為を想って尽していても、何故か思い通りにならない。もどかしい想いの行き場を無くし、近くにあった侑のジャージを抱き締めた。顔を埋めればすぐに大好きな香りで一杯になり、凝り固まった心が解されたような気分だ。
「こんなに好きやのに」
瞼を落とした暗闇の中には俺の名前を呼ぶ侑ばかりが浮かび上がる。殴り合いの喧嘩を咎めたときの不服そうな顔も、サプライズを仕掛けようと企む楽しげな顔も、俺を好き勝手貪るときの大人っぽい顔も、全部全部、
「ッ北さん、どうしたん!?」
ジャージに顔を埋めて伏せていると、けたたましく足音を荒げながら帰宅した侑に引っ掴まれた。酷く焦った様子で覗き込んでくる侑を、俺は唖然と見つめ返す。嵐のような帰宅に心が追い付かない。
「どっか苦しい?痛いとこあるん?」
「は、いや…どこも悪ないで」
「けど今しんどそうに伏せとったやん!!」
「ほんまになんともない。いきなり掴みかかられる方が心臓に悪いわ」
「……うぃっす」
侑は渋々手を離し、静かに荷物を下ろした。気まずい空気を察しているのか、なかなか口火を切ろうとしない。互いに言葉を探り、様子を伺う。まるで出会った頃の二人に戻ったような気分だ。
「侑、話がある」
「ええ話しか聞きませんよ」
「別れ話やない。せやから頼みがある」
「ん?」
「そっち向いて、絶対俺の方見るな。…そしたら話す」
自分とは反対の方を指差し、顔を背けろと突拍子もない指示を出した。こんなやり方しかできない俺を、侑は笑うだろうか。呆れられるだろうか。この男に愛されてから初めて自分の弱さが曝され、分からないことばかりだ。
侑は不審がりながらも渋々俺から視線を逸らし、背を向けた。広くて大きくて、たくさんの試合を勝ち抜いてきた立派な男の背中。この分厚い身体の基盤を築いているのが自分だと思えば、年甲斐もなく泣きそうになった。その背中に頭を預けると、安心感からか頑なに閉ざされていた口が少しずつ動き始める。
「ごめん」
「せやから別れ話は聞かんて、」
「本当はもっと、お前と恋人らしいことしたいって思っとるよ」
甘えるように背中に耳をぴたりと当ててみる。きっと今の俺は信じられないくらい頬を赤くして、情けない顔をしているだろう。
「けど俺はこんな風に誰かに特別に愛されたことなんか無い。全部お前が初めてやから、どうしたらええかわからん」
「北さん?」
「我儘は言ったらあかんモンやと思っとるし、人に甘えたらあかんと思って生きてきた。お前がなんで俺にそんなん求めてるんかも、正直わからん」
「北さん」
「お前のこと好きすぎて、苦しい」
喉から絞り出したような声だった。格好つかない、みっともない。年上らしさなんて何処にもない。反対側で侑がどんな顔をしているのか、大体想像がつく。どうせ俺にしか向けない特別優しい顔をして、幸せそうに笑って、ドロドロに俺を甘やかすんだろう。
「北さん、そっち向いてええ?」
「あかん」
「目ぇ見て話せって散々俺に言うたのに?」
「…昔の話やろ。今は言ってへん」
「んじゃ強硬手段で」
がっしりと手を取られ、あっという間に侑の正面に引き出された。咄嗟に腕で情けない顔を覆ったが、抵抗する術もなくひん剥かれる。
「嫌や、見るな…」
「見る。北さんのそういう顔、めっちゃすき」
「どこがええねん」
「俺でいっぱいいっぱいになって、かわええなぁって」
「なッ、んん、」
屈辱を煽るような言い草にカッとなり口を開くと、侑の大きな口にぱくりと言葉を飲み込まれた。こんな風に、こいつはいつもいつも俺を甘やかす。大きな口で噛み付いて、子供のように笑って、分厚い身体で抱き締めて離さない。
「俺ね、北さんが思ってるより北さんのこと大事なんですよ」
「…ん」
「甘えたら俺の邪魔になるとか、我儘言ったら迷惑掛かるとか、そんなん無いです。もっとなんでも言ってほしいし、いつでも俺のこと頼ってください。つか言ってくれへんと、強がりで我慢しぃのアンタがいつか潰れるんやないかって心配なる」
侑は頬や唇にしつこいくらいのキスを落としながらそう言った。この甘ったるい空気にいい加減どうにかなりそうだ。茹だる頭の中で、自制心が少しずつ溶かされていくのが分かる。
「ほんまのこと言うとな」
「うん。なぁに」
「すけべなことも、もっとしたいねん」
「うん?」
侑が明らかな動揺を見せるのも無理はない。普段の俺なら天地がひっくり返っても口にしない事だ。「え?」「なんて?」と動揺を口にして迫ってくる恋人の様子はどう贔屓目に見ても格好悪くて、可愛い。
「けど北さん、一回で辞める言うても拒否ってたやん…?」
「それは…一回じゃ、俺が満足できひんから」
「………」
「…あ、あつむ?」
ピシッと岩のように固まって動かなくなる侑を、恐る恐る覗き込む。優しさに満ちた表情から一変し、真剣に何かを噛みしめるような顔をしていた。驚いただろうか。はしたないと、引いてしまっただろうか。
「…マジか」
「ニヤニヤするな」
「だって北さんがぁ!!」
「俺がなんや。うるさい」
行為中は嫌だの駄目だのと首を振って恥じてばかり。普段は賢いフリをして年上ぶってばかり。こんなにも可愛げのない男を好いたコイツも、どうかしている。
「北さん、めっちゃ俺の好きやん…」
「嫌いやったらこんな長いことお前の恋人やってられへんわ」
「ん〜もうひと声!」
温かくて大きな手のひらが、背中に張り付いた。侑が少しでも力を加えれば、俺はコイツの腕の中にすっぽりと捕らえられる。
恥ずかしい。
何度身体を暴かれたところで、根底は変わらない。身体を繋げるよりも心を繋げる方が何倍も難しい。淫らな嬌声を聞かれるよりも、面と向かって気持ちを口にする方が、俺にとっては難題だった。
しかし、それらの恐怖をかき消す方法が、一つだけある。
「あい、しとる」
両腕で力一杯俺を抱き締めるこの男が幸せなら、この世の些細な恐怖など軽く吹き飛んでしまうのだ。