水鏡 文武両道、才色兼備。世界中の紡績業を牛耳る巨大企業、通称飛雲商会の次男坊にして、ビジネスの若き天才としても知られる行秋少年。彼が一番気に入っている肩書は、その実、テイワット学園オカルト研究部員などという些細なものだった。
校舎東塔の三階、廊下の奥まったところにある社会科資料室が、オカルト研究部の部室であった。駆け足でやってきた行秋はその扉の前で一度足を止め、息を整えて曲がったネクタイを直す。いかにも優雅に歩いてきた、というような顔をして小さな部屋の扉を開けば、そこには二人の生徒が座って待っていた。
「遅いじゃん行秋!」
「やっと来たか。何か用事でもあったのか?」
真っ先に口を開いたのは、オカ研部長である胡桃だ。彼女は唇を尖らせながらシャープペンシルを分解して遊んでいる。その向かいに座る重雲は、行秋の顔を見てほっとしたように表情を緩めた。
「ん、ちょっとね。鍾離先生は?」
行秋は周囲を軽く見回しながら重雲の隣に陣取った。見たところ、部の顧問である鍾離のいた痕跡は無さそうだ。机の上にあるのは胡桃と重雲が広げている宿題だけだった。
「鍾離さんなら、どっか行っちゃったよ」
「こら、ちゃんと〝先生〟を付けて呼ばないとだめだろう」
「ええー? 私と鍾離さんは家族、いや上司と部下みたいな仲だって言うのに! ちなみに私の方が上司ね」
「どんな仲なんだそれは……」
げんなりした顔をする重雲とは対照的な笑みを浮かべ、行秋は話題を切り替えようと試みた。
「まあ、いないものは仕方ないさ。僕たちだけで始めよう」
彼は机上に持参した資料を広げた。プリント用紙数枚に引き延ばして印刷した校内の案内図のようだ。所々に蚯蚓がのたくったような模様……もとい、〝少々〟特徴的な行秋の走り書きが踊っている。それを目にした胡桃は呆れ顔でため息をつき、重雲は苦笑した。
「一応聞いとくけど、その暗号を私たちに解読してくれって話じゃないよね?」
「暗号なんかじゃない、ただのメモだよ……急いでいたから、清書する時間が取れなかったんだ。君から頼まれていた調査の結果が書いてあるだけさ」
仲間内ではとんでもない悪筆家として知られる行秋であるが、一応、時間をかけて書けば他人が読める程度の字を書くことも可能だ。だが聞き取り調査を行いながらでは走り書きしかできなかった、というのが行秋の言い分である。
地図に書きこまれていたのは、学園の七不思議に関する情報だった。七つ、どころか十個以上も噂が存在しているようだ。その中でも信頼度が高いものには赤い丸の印が付けられている。行秋は地図上における西棟二階中央ホールを指さした。
「……とにかく。ここを見てくれ」
「西棟の二階、か」
「ああ~、そこって〝あっち側〟に近いから、色々いるんだよね~」
「胡桃、本当かい? 君がそう言ってくれるなら心強いな。僕としては、ここの隅に設置されている姿見の噂が一番怪しいと思っていたんだ」
行秋は満足げに頷いて、自身の書き込みを解説しだした。
三人より一学年下の生徒たちの間でまことしやかに囁かれている噂だ。午前四時四十四分、ホールの隅に設置されている姿見を覗き、鏡に映っている自分と目が合うと、魂を吸い取られてしまうのだという。
「――より正確に表現すれば、鏡の中の自分と魂が入れ替わってしまう、といったところかな」
「現実の自分は鏡の中に閉じ込められちゃうってこと?」
「ああ。それで、元々鏡に映っていた方の魂が抜け殻となった体に入り込んで、その人の代わりに生活し始めるんだ」
「なんだかありきたりな話だな……」
行秋の報告を聞いて、重雲は渋い顔をする。彼はカバンから数冊の本を取り出して、ぱらぱらとめくり始めた。文献調査担当だった彼は、学校の七不思議に関する書籍を徹底的に読み込んでいたのだ。
「大鏡の話というのは、人体模型や音楽室のピアノ、肖像画と並ぶ定番の一つじゃないか」
「そうだね。それは否定しないよ」
「定番だからといって疑うわけじゃないが……お前が目を付けているからには、何か理由があるのか?」
よくぞ聞いてくれました、とばかりに行秋は嬉しそうな表情を見せ、勢い余って重雲の肩まで抱いた。瞬間、身体が熱くなって頬を染める重雲の姿を見て、胡桃はにんまりと口角を上げたのだった。
「そう、そうなんだよ!」
「うわ、わ……!」
「今回の〝これ〟には生き証人がいるんだ」
「もしかして……実際にいるの? 魂が入れ替わっちゃった人が?」
行秋が頷くと、胡桃は先ほどとは打って変わって真面目な顔つきになった。腰に手を当てて考え込む。
「この写真の彼だ。僕たちより一つ下でね」
携帯で撮ったものを印刷したのか、やや画質の荒い写真の中に一人の学生が写っている。ごく普通の男子学生というなりだが、胡桃は顔を近付けて彼の姿をよく見つめた。
「彼はどうしたんだ?」
「ある朝鏡の側に倒れているのを出勤した先生に発見されたんだ。目が覚めた時には、彼の人格は百八十度変わっていた。事件の前まではクラスのお調子者だったのに、急に冷徹で冗談の通じない人物になってしまったそうなんだ」
「何かのショックで記憶喪失になっちゃった、とかじゃなくて?」
「いや、記憶はそのままだったらしい」
胡桃はしばらく思案していたが、急に写真を手に取って立ち上がった。引き結ばれた唇から、彼女の真剣さが行秋と重雲に伝わってくる。
彼女は老舗の葬儀屋一族の七十七代目現当主である。幼い頃から死に近いところにいたためか、その霊感は人並み外れていた。人ならざるものの姿が見える、声が聞こえる、場合によっては触れることもできる。生者と死者両方に責任を持つ、とまで自称する彼女を緊張させるということの意味が、少年達に分からないはずもない。
「……ねえ、この件は私に任せてくれないかな」
「っ……」
重雲は思わず息をのんだ。隣に座る行秋は、胡桃の朱色の瞳にやや挑戦的な視線を投げかけていた。
「これはあなたたちが手に負えるような問題じゃない」
「どうしてそう言い切れる?」
「詳しい理由は教えられないけど、これに関わったらあなたたちが酷い目にあうことは分かるよ」
厳粛に諭すような口調で言い含められ、行秋は一度引く素振りを見せた。それで胡桃は納得したのか、少しだけ口元を緩めた。
「大丈夫、私がちゃーんと引き継ぐから。分かったことは全部教えるって約束する。だから二人はこれじゃなくて、他の噂の調査を進めてよ」
「……ああ、分かった」
「それならいいの。じゃ、早速この彼に話を聞いてくるから、またね!」
荷物をまとめて慌ただしく出て行った胡桃の後ろで、少年二人は顔を見合わせたのだった。一人は困惑したような様子で。もう一人は……何かを企んでいるような表情で。