水鏡 2 午前四時、校舎西棟――当然ながら、人の気配はない。まだ夜明け前だが意外にも窓の外は明るく、ライトなしでも動くことができる。
その薄暗い廊下を、ひっそりと歩く二人の少年の姿があった。
「行秋……これ以上はよくない」
前を行く行秋のセーターの袖を掴み、重雲は懇願するように言った。振り返った行秋の目は、ぞっとするほど冷淡な色に満ちている。その冷たさに重雲は寒気すら覚えた。極端に暑がりな彼は、滅多に寒さを感じないというのに。
「どうして?」
「胡桃に止められただろう。それに、こんな時間に学校へ侵入するなんて……」
『重雲のわからずや』と口に出すかわりに、行秋は大きくため息をついた。その不機嫌そうな吐息に重雲はまた少しびくつく。
「胡桃に止められたからこそ、だよ。勝手に忍び込んだのも悪いとは思っているけど、見つからなければ問題ないさ」
「お前な……」
「いいかい、重雲。これは君のためなんだ。胡桃からストップがかかったということは、これが〝本物〟の心霊現象である可能性が極めて高い。妖魔を目にするまたとないチャンスなんだよ」
そこを突かれると痛かった。重雲はう、と呻き声を上げて口を噤む。行秋の言うことには確かに筋が通っているのだ。
重雲には全く、これっぽっちも霊感がない。それどころか、胡桃に言わせれば、人ならざるものを跳ねのけてしまう体質なのだという。普通の家の子供ならばそれで良かったかもしれないが、運の悪いことに、彼の家は古くから続く退魔方士の家系だったのだ。家の者は誰も彼も霊感の強いものばかり。〝見えない〟のは重雲一人だけ。
行秋はそんなコンプレックスを抱く重雲を励まし、彼にも見えるほど強大な力を持つ妖魔や霊を一緒に探してくれている。忙しい行秋に時間を割かせているという負い目があるからか、重雲は彼に強くは出られないのだ。
「それなら……まあ……」
「君のためだ、って理解してくれたなら早く行こう」
「四十四分まであと三十分近くあるじゃないか」
「ついでに他の七不思議も確認しにいきたいんだ。音楽室も理科室も西棟にあるだろ?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……!」
にんまりと笑って早足に歩き出す行秋の手を、重雲は慌てて握った。左手にぬくもりを感じ、行秋は更に笑みを深める。
十代半ばの男子同士、普段ならこんなことはしない。だが今の重雲は恐怖に支配されていた。誰もいない学校や、大鏡の怪異などは別に怖くないのだ。彼が今何よりも恐ろしかったのは、行秋と離れ離れになってしまうことだった。
二人は寄り添いながら西棟内をゆっくりと見て回った。音楽室の肖像画は確かに目が光っていたが、それは目の部分に画鋲が刺さっていただけだった。理科室の人体模型には密かにマイコンボードが取り付けられており、定時に動くように改造されていた。十三階段は上りも下りも十二段しかなかったし、体育館のボールの音は天井に挟まったボールが自然に抜け落ちた時の音だった。周囲に人気は無かったが、流石に三階の女子トイレには足を踏み入れなかった――行秋も重雲も、根は紳士なのだ。
「はあ……結局、どれもこれも悪戯だったのか」
一通り回り終えた二人は、二階中央ホールの隅に座り込んだ。膝を抱えて重雲がため息をつく。
「それが分かっただけでも調査に来た価値があったよ。あの人体模型なんか凄かったよね」
「あんな悪戯ができるくらいなら、もっと他に活用すればいいのにな」
「いいじゃないか。人生にはユーモアも必要だよ」
そう言って行秋は顎に手を当て、くつくつと喉の奥で笑った。その右手を見たところで重雲はようやく思い出したのだ。まだ彼と手を繋いだままだったということに。
「あ、す、すまない」
慌てて手を離そうとしたが、行秋が強く握り返して引き止める。軽く顔を傾げた彼の横髪が、耳飾りの房が、肩の方へ煽情的に流れた。重雲の胸が不覚にもどきどきし始めてしまう。
「まだ繋いでいていいよ。……離したくないんだろ?」
行秋の金の瞳と見つめ合ったまま、重雲は小さく頷いた。その頬に熱が昇り、花が綻ぶように色づく。
「大鏡の噂を確認したら、登校時間までファミレスで時間を潰そう」
「ああ」
「一緒に学校に行って……休み時間も放課後も一緒に過ごして……」
「うん」
「それで、その後はどっちかの家に泊まればいい。そうしたら、今日は僕たちずっと一緒にいられるよ」
「……うん」
行秋に独占欲を向けられるのは珍しくないし、それは重雲にとっても悪くないことだった。安堵混じりの喜びの中に、彼はふと、奇妙な手触りを覚える。行秋がどこか焦っているような気がするのだ。
まるで重雲が誰かに連れ去られるのを恐れているかのような。誘拐犯がすぐ後ろにいるかのような――。
行秋はいつしか、我儘で寂しがりの子供のような目をして、重雲を見つめていた。握る手の力は強く、指先が震えている。
「僕のことを見てて。僕だけを見ていてくれ」
時刻は午前四時四十四分。
「重雲、頼むから――」
その縋るような重すぎる視線に耐えきれず、重雲は思わず目を逸らしてしまう。
顔を向けた先で、あの姿見が朝日を反射して光っていた。