空音「ずいぶん背が伸びたんじゃないか」
何処に行ったのかと千寿郎が目的の人を探し当てれば、廊下の柱を撫でながらその人はやたらと明るい口調で手招きをしてきた。千寿郎の探し人は、兄の杏寿郎だ。久方ぶりに帰宅した兄と食事を済ませ、後片付けをして部屋に戻れば忽然と姿が消えていた。はて、湯浴みに言ったのだろうかと風呂場へ向かってみた。いつもなら必ず一声があるが、水仕事をしていて気づかなかったのだろうか。しかし、覗いてみた先では水音どころか人の気配もなく静かだった。準備しておいた寝巻きも綺麗に畳まれたままだったので、終わったわけではなさそうだった。ならば、もう一度母のところかと仏間へ移動した。しかし、開け放した障子から爽やかな風が吹くだけで兄はいなかった。それならば自室かと屋敷の奥へと歩を進めてみた。もしや、急な任務か一瞬落ち込みかけたところ、とある柱の前で目を輝かせている杏寿郎を見つけた。自分でも分かるほど、はっと晴れやかな気持ちになったあと、何故こんな所にと、千寿郎は疑問が湧いた。床の間から兄の部屋に向かう廊下ではない。しかも廊下の真ん中で、立ち止まるような場所でもない。
千寿郎が声をかける前に、近づく足音で気づかれ向こうから声をかけられたのだ。ただ、かけられた言葉の意味はわからなかった。日頃から弟の成長は大げさなほど頻繁に口にはしてくれる兄だが、こんなところで問われても首を傾げるだけだ。怪訝な顔をする千寿郎とは対照的に、杏寿郎はなおも柱から離れずに笑みをたたえたままだ。撫でつけている柱に何かあっただろうかと脳みそを捻りながらさらに近づくと、目を輝かせている理由がわかった。その柱についている傷が見えてきた。家の中で代わり映えはしないが他の柱と違って、意図的につけられた傷はそこにしかない。杏寿郎が触る柱に残る傷跡は、兄弟の成長の記録だ。下にいけばいくほど沢山の傷跡があり、上の方は数が少なくなってくる、今、傍に立っている兄の頭の位置にまでになると傷跡は一つもない。
この柱には、千寿郎は産まれる前から身長の跡があった。いや、千寿郎が直接見たわけではないので見聞きしただけのことだが、あったのだそうだ。最初に刻まれたのは、長男の杏寿郎が一歳にも満たない時期の線だ。在宅の少ない夫が息子の日々の成長を目で見て分かるようにと妻が始めたのだそうだ。言うまでもなく、始めたのは兄弟の両親である槇寿郎と瑠火だ。そして数年が経ち、この家に次男が、千寿郎が産まれたのだ。そうすれば次男の記録も刻まれるようになった。しかし、背を測るのをたのしみにしていたのは、両親ではなく、杏寿郎だったという。
あまりに千寿郎は幼かったので、前後の記憶はぼんやりとしているものの、背比べのことを認識した日はよく覚えている。しっかりと一人で立てるようになったある日、柱に背をつけてごらんと言われた。千寿郎はわけがわからずも、言われるがままに柱を背にして立った。笑顔の父と母、そして兄に囲まれ彼らを見上げていると、正面を向くように顔を正された。ほうけている内に、兄が頭の上で何かをしていた。背を預ける先を柱から兄に変え、今度は柱に向き合うと兄がある柱の傷に触れていた。今の千寿郎がここだぞ、と教えてもらい、この行為が自分の高さを測ることだと理解したのだ。一度理解ができると、興味がわいて遊びのように楽しくなってくるもの。しげしげと柱を見ると、他にもいくつか傷があった。まだ文字は読めないが、たった今つけてもらった傷の近くに別の傷があり、その横に見覚えのある文字があった。見覚えはあるが、文字はまだ全く読めない。指差してなんだと言いたげに兄を見上げれば、兄がにこりと笑った。
「きょうじゅろう、だ。俺の名前だな」
教えてもらっても、まだわからずに瞬きをする。だって、抱えてくれている兄はもちろん、たった今つけてもらった千寿郎の印よりも低い位置にある。続けて俺が小さい時だ、と教えてくれた。ということはもしかしてと、あにうえがせんじゅろうよりちいさかったの?と千寿郎は聞いてみた。そうだぞ、と肯定され千寿郎はとても不思議な気持ちになった。いつも見上げている兄が、自分よりも小さかったのか、と驚きながら柱の傷をまじまじと眺めた。するともっと下に傷と、見憶えがあるが別の文字があった。じっと見つめていると、兄がまたにっこりとした。
「違う文字なのが、よくわかったな。それが、せんじゅろう、だ。赤ん坊だったから、この時のことは覚えていないよな。すごく大きくなったな!」
視線だけで弟の疑問に気づいた兄が先回りをして答えてくれ、飛び切りの笑顔で頭を撫でて褒めてくれた。いっぱい褒めてもらえたことが千寿郎はとても嬉しくて、兄にぎゅうと抱き着いた。兄は何度もすごいな、と言って抱きしめてくれて、心も身体もほかほかとした。嬉しくてあったかい、そういう日だった。
サンプルここまで。