あいおさ(見られた、見られた……見られた……っ!)
夕闇が迫る長い廊下をヒカルはひたすらに走る。どこに向かっているのか自分でもわからない。それでも逃げなければ。
(でも、逃げるって……どこへ……?)
もつれそうになりながらも必死に駆けていた足が力を失くし、はたと止まる。
「ヒカル」
突然背後から降る声に体が大きく跳ねた。追いつけるわけがない、という考えは浮かんだ瞬間に消え失せる。座学も実践もそつなくこなす優秀な彼だ、簡単に追いつく術などいくらでもあるだろう。
「そんなに逃げなくても良いだろ?」
魔物が出たわけでもあるまいし、そう言ってクスクス笑う声に血の引く音が聞こえそうなほど体は冷えていくのに口の中だけが砂漠のように熱く乾いている。震えそうになる唇、それをぎゅっと噛み締め、ヒカルは心臓を落ち着かせるべく、ゆっくりと振り返った。
「アイちゃん……」
「そんな怖い顔するなよ、傷付く」
ケント・アイゾメ。薬学についての優れた知識と高い美意識を持ち、生み出す製品の人気は校内にとどまらない。美しく華やかな容姿と相まってそのファンは多く、すでに大手企業や芸能事務所からも声が掛かっているらしい。
傷付いたというセリフの割にその表情からは哀愁や悲しみなど微塵も感じられず、ただすべてを見透かすように目を細めている。
「随分上手く隠してたな、気付かなかった」
「……っ、言いふらして回るつもり?」
「はは、まさか。そんなくだらないことするわけないだろ」
ヒカルは”赤目”だ。家族でひとりだけ、世間から疎まれる裏切り者の印を持つ。母は魔法使いで、小さな店を営みながらヒカルや幼い妹弟たちを女手一つで育てている。いつも明るく笑う強くて優しい人だとヒカルは幼い頃から誇りに思っていた。自分の力で赤目を隠せるようになるまで、母は大変だっただろう。苦労をかけた母にこの目の理由を、姿のない父のことを問うにはどうしても心苦しく、ヒカルはいまだ真実を聞くことはできない。
(オレは家族に救われてる……だからみんなが幸せに暮らせるように立派な魔法使いにならなくちゃって……そのためにもこの目を隠し続けるって決めてたのに……っ)
アイゾメは決してひどい人間ではない、面倒だなんだと言いながらも周りをよく見ているしトラブルが起きればすぐに解決へ向けて立ち回っていたことも知っている。
しかし赤目の存在はそれぞれの寮や生徒個人、ひいては出世にまで関わることだ。そうなれば何の見返りもなく黙っていてくれるような相手ではない。いったい何を求めているんだろう、ヒカルはローブの下で杖を強く握りしめた。
「もう少し、近くで見たい」
「うわっ」
ふいに腕を強く引かれ、驚いている間もなくバランスの崩れた体はアイゾメの胸元へと収まった。ここでの抵抗は正解ではない、ヒカルは彼の細い指が楽しそうに顎を撫でるのを受け入れ耐える。機嫌よく滑る指先はそのままくいと顎先を押し上げ、従うままに上を向いた。猛獣が獲物を見定めるような、鈍い光を放つ瞳に捕らわれる。
恐怖、焦り、不安……昂り膨れ上がる感情を餌にヒカルの目はどんどん赤みを増していった。
「知ってる? 一括りに赤目と呼ばれているけどその色は様々だ。ヒカルの目は夕日に似てるね、昼に終わりを告げて暗く深い夜を呼ぶ」
「はは……アイちゃんってそんなに詩的だったっけ?」
煽るような台詞を放ってみせたところで余裕など生まれもせず、それを鼻で笑った彼はうっとりと浸るように語りだす。
「言葉だって美しさを形作るもののひとつだろ。内面を磨けば外側だって輝くものさ。それに、俺は美しいものはなんでも研究したくなる性質なんだ。それが男でも、裏切りの赤目であっても」
「……ッ!! オレは、裏切り者なんかじゃない……っ!」
いつだって世間は身に覚えのない罪を突き付ける。いったい赤目(オレ)がなにを裏切ったっていうんだ……っ!
力任せに振り解いた腕はアイゾメの横顔を掠め、いつも丹念に整えられている前髪を跳ね上げた。乱れ、大きく揺れる青い髪は海原のうねりに似ていて、その波間からふいに赤い月が覗く。
「え……」
「ひどいな、前髪に触ってほしくないのは知ってるだろ?」
気落ちしたように伏せられた瞼が長い睫毛を称えて再び持ち上がる。赤い、赤い目……その色は確かにヒカルの目とは異なる色味をしていて透き通る青にじわりと混じる様は珍しい宝石のようだった。
「あいちゃんも……赤目だったの……?」
ヒカルの声が震えた。恐怖ではなく、ほんの少しの安堵で。
「そうだよ。同じ赤目の俺ならヒカルのことを心から理解できると思わない? どんなに絆なんてものを紡いでも呪いを持たない人間に俺たちの苦しみがわかるわけないんだ」
ヒカルの胸がどくりと鳴る。確かにそうだ、気付かないふりをして過ごしていてもヒカルは心の底でいつも考えていた。大好きな家族や仲間たち、学校の生徒や教師、魔界の人間すべて……何も隠さず自由に生きる人間をきっと……本当は妬んでいる。
「やめて……」
「ねぇ、ヒカルはつらくなかった?」
「アイちゃん……やめてよ……っ」
後退る。靴底を擦れる砂の音と指先に当たった石壁の硬い感触。アイゾメは心の澱みにある引き揚げてはいけないナニカを暴こうとしている、逃げ場のないヒカルは拒絶のために必死で首を振った。
「勝手に罪を背負わせて裏切り者だって指を刺すこんな世界、」
「やめろ……ッ!!!」
振り上げたはずの杖は弾かれ、カランカランと床を空しく転がっていく。
あんなに真っ赤だった視界は深く静かな青に覆われ、わずかに漂う花の香りが壊れそうな呼吸をふわりやわらかく包んだ。怯え、ささくれ立った感情が溶け出す冷菓のようになめらかな姿へ変わる。
「大丈夫だよ、俺たちには同朋もいる。ヒカルを傷付ける醜い世界なんて変えてあげるから」
「アイちゃん……」
行き場を失った迷子のように見上げるヒカルへ、アイゾメはもう一度微笑んだ。
「ヒカルの苦しみも喜びもあいつらにはわからない、理解できるのは俺だけだよ」
「……うん」
「ねぇ、ヒカル、一緒においで?」
大粒の涙が濡らす頬にぴたりと触れ合い、甘く囁く。これは赤目の獣が反旗を翻す、ほんのひと月前の話。