鍾タルワンドロ「月見」「抱擁」柱の上に、ひとりの子供が座っている。
その眼下では流水で形を成した刃が真一文字を描き、ヒルチャールを吹き飛ばした。遠方では木陰に身を潜めたアビスの魔術師が火球を練り上げている。あの水の刃は火球を受け止めたら蒸発するのだろうか。どうやら空気中の水分を元素力で固着しているようだが、例えば周囲を炎の海にしたらどうだろう?空気中の水分は蒸発し、形になる基を失くした状態でも刃を成形できるものだろうか。子供が「ふむ」と思案を混ぜ込んだ一言を零した。
「公子殿、聞きたいことがあるのだが、――ああ、後で構わないぞ」
「そりゃ、お気遣いどーも! 今は手一杯だから助かるよ!」
戦場を舞うように駆ける男――タルタリヤが、周囲を敵に囲まれながら、嫌味混じりの返答を吐き捨てる。手にした松明を掲げ、火の粉を散らしながら走り寄ってくるヒルチャールをくるりと振り向きながら蹴り飛ばし、すぐさま手元の武器を弓へと変形させて火球を作り出していたアビスの魔術師を打ち抜いた。あいにくとシールドに阻まれて致命傷には成り得なかったが、一時的に詠唱を止めることは出来たようだ。不完全な火球は魔術師の足元に落ちて、草原を燃焼させた。
「――っと、こいつらもしつこいな。そもそも、先生が珍しい石があるとか言って、調べもせずに触るから。それって元に戻るわけ?」
魔術師が放った追撃の炎を避け、乱れた呼吸を整えながら問いかける。致命傷を食らうような相手ではないが、次から次へと際限が無い。スカーフを引き上げて汗を拭いつつ、声のする方向をじとりと見据えると、柱の上の、小さな体躯――鍾離は、鷹揚に頷いた。
「先ほどの石は元素力、または生命力の吸収と言う特性を持っているようだ。常人であれば力を吸われて子供に戻されるか、場合によっては弱体化を通り越して衰弱するような代物だろう。俺の場合、神の心を失ったことで力が不安定だったこともあるが、この特性が後押しとなって体を構築する元素力と内包する元素力の均衡が崩れたことで、」
「そういう小難しい話は後で良いよ。結論から先に言ってくれ」
「時間が経てば周囲の元素力で吸収された分を補って、元に戻る」
瞬間、赤いスカーフが風に揺れて、最後のヒルチャールがその場に崩れ落ちる。残る者は鍾離とタルタリヤだけ。周囲が静かになったことを確認すると鍾離は腰かけていた柱から、ひょい、と飛び降りた。
「この調子なら明日か、遅くとも明後日には元の姿に戻るだろう」
「明後日かぁ。折角、明日の休みをもぎ取ってきたのに――って。なにしてるの、先生」
「この歩幅では何を成すにも時間が掛かるからな」
つまりは抱き上げて、璃月の港まで連れて帰れと言うことらしい。断られることを疑わない真っすぐな瞳で両手を伸ばす鍾離を前に、タルタリヤの唇から長く深い溜息が落ちる。元・神様のことだ。子供の姿になっても移動手段など幾らでもありそうだが、見た目だけと言えど……そう、見た目だけで、中身は老獪な男であろうとも。子供を置いていく事は、小さな弟妹がいるタルタリヤには受け入れがたい。存外に手慣れた様子で両脇から掬い上げて腕の中に収めると、二人の顔が近付き、タルタリヤは瞳を眇めた。
「先生が俺のことを好きって言ってたのって、もしかして夢だったのかな。少なくとも今は都合の良い乗りもの扱いしてるよね」
「そう拗ねるな。ほら、見てみろ。月が綺麗だぞ」
「先生って、たまに話の逸らし方が雑なんだよな」
小さな手で指差した先には鍾離の瞳の色に似た、大きな黄金。少しばかり端が欠け始めているが、中秋の名月と共に団子を食べた記憶は新しい。西方だか、どこかの国では月を見て獣人化する一族だったり、月の満ち欠けで犯罪が増えるだとか言い伝えがあるらしく、正直に言えば、そちらの話の方に興味がある。聞き流すような、軽くあしらう言葉に、物を言いたげな鍾離の視線が刺さった。
「なに?」
「いや、公子殿はもう少し文学と言うものに興味を持った方が良いと思っただけだ」
タルタリヤの腕の中に納まったままの鍾離が、わざとらしく大きな溜息を零した。無言の圧を受けたタルタリヤの顔には大きな文字でありありと心外と書き記されている。
「俺だって本くらい読むよ」
「ほう、例えば」
「例えば――英雄譚とか」
ゆっくりとした足取りで向かう璃月港までの道のりは程遠い。二人は他愛もないやり取りをしながら、月光に照らされる帰路に着いた。