鍾タルワンライ「現パロ」カタカタ、と言うタイピングの音が響く。
「先生。今はどんな感じ?」
「線画が終わって、あとは彩色だけだな」
「一枚目の?」
「いや、」
全てだ、と機器の向こうから返された声に、目の前にある真っ白な原稿を見て、頭を抱えたくなる。入稿までの残り日数を振り返り、確実に徹夜作業だなと小さく溜息をこぼした。
「相変わらず、先生は手が早いね」
「他者より時間があるだけだ。それより、公子殿」
「ん」
「今、書いているものが終わったら一緒に食事でもどうだ?」
元素に満ちあふれた世界で過ごしていた俺たちは高層ビルが建ち並ぶ、現代で再会した。と言うより、憧れていた絵師のひとりが、見知った顔だった。
かつては鍾離と呼ばれた元岩神・現通話相手様は、今となっては「恐らく桁は変わっていないと思うんだが、」と言うくらいの御長寿だ。
まぁ、再会についての詳しい話は割愛するとして。
恋とも愛とも言えないまま、ほんの少しの興味と関心で続けられた以前の俺たちの関係に名前はなかった。……が、どうやら相変わらず顔の良いこの男は永い時間で何かに目覚めてしまったのか、隙あらば距離を詰めようとしてくる。真正面から「好きだ」と好意を伝えられたこともあった。テイワットでは男女が交わらねば子は生まれず、それに背くことは血を絶やすことと同じだという思想が強かった。同性と手を取り合うことは禁忌に近しい目で見られていたものだ。
だが、今は国境を超えて多種多様な人々が情を交わし合い、同性と生涯を終える者も少なくない時代。好意を隠すことなく伝えてくる相手と、同じ気持ちになるまでそう時間はかからなかった。
「先生が財布を忘れても、もう払ってあげられないけど」
「大丈夫だ。財布を持つ習慣を身に付けた」
「それは胸を張って言うような事じゃない」
はは、と互いの笑い声が反響する。
同じ気持ちになったとは言え、それだけだ。実際に面と向かって会うどころか、今世の容姿を写真で見せる勇気すら持てずにいた。
前世とは違って脱色した明るい色の髪は大分傷んで……いや、傷んでるのは前の時も同じか。ともかく、連夜の原稿で目の下の隈が日に日に色濃くなり、おざなりな食生活をしている所為で肌荒れもしている。身体だって、それなりに鍛えてはいるものの、前に比べたらどうやっても『それなり』の域を出ない。慣れない自撮りで写された、少しばかりブレた美貌が変わりないのも会う事に乗り気に慣れない理由のひとつだ。
彼が見ているのは記憶の中の――前世のタルタリヤであり、今の自分では無いのだろう。もし、今の容姿を見た時に彼がどう思うか、と言う不安が拭いきれなくて、あと一歩を踏み出せないでいた。
「とにかく今は目の前の原稿で手一杯なんだ。食べに行くにも、また今度で」
「そうか。なら、改めて誘うことにしよう。しかし、――もし、迷惑だったらそう言ってくれ。困らせたいわけじゃないんだ」
「迷惑って、わけじゃない。本当に時間がないだけ。時間が空いて行けるようになったら連絡するよ」
「わかった。機が来るのを楽しみにしている」
あからさまな時間稼ぎだと分かりきっているだろうに、続けられた言葉は柔らかな――甘やかな、とも表現できる響きをもっていた。
他者と会うのならば、少しでも身綺麗にしたい。気になる人が相手なら、尚のこと。少なくとも目の下の隈と、肌荒れをどうにかしなければ会うことは出来ない。悪あがきだと言うことは分かっている。
「先生は俺に対して甘すぎじゃない?」
「公子殿が存外自身に対して厳しいという事が分かったからな。それに、俺が公子殿を甘やかしたいだけだ。気にすることもない」
「いや、気にするから言ってるんだけど」
可愛げのない言葉を返しながら、ほんのりと熱を帯びた頬へと手を押し当てる。機器を通しての会話で良かった。
――ひとまず、目の前の原稿をどうにかしなきゃな。
睡眠時間の確保には目の前の原稿を仕上げる必要がある。
どうにも浮つく思考を巡らせながら、未だ余白の多い原稿に向けて筆を取り直した。