君に触れたくて。ほんの一瞬、魔が差しただけだった。
夕陽の光に透けた髪にどうしようもなく触れたくなってしまって。好奇心で髪に指を通すと指通りの良い髪はいとも簡単にサラサラと指から落ちていく。本人に確認も取らず髪に触れたので流石に失礼だったかと思い、謝ろうと顔を覗き込んだ。
「急にごめんね、つか、」
言いかけた言葉は喉の奥に出掛かってつっかえてしまった。なぜかというとそこに居たはずの——他でもない、天馬司が頬を真っ赤に染めていたからである。それは怒りというよりも焦り、恥じらいを思わせる表情だった。予想とは違った反応に僕も言葉を返せずに気まずい沈黙がしばらく流れた。
「そろそろ帰るか」
「…そうだね」
ようやく司くんが言葉を発したと思えば、鞄を取りに教室から急いで出て行ってしまった。この時点で司くんが相当動揺していることが分かった。だって、司くんの教室に来ているのは僕の方で、まさに僕が鞄を取りに行かなければならない立場だからだ。そんな司くんに拍子抜けして、少し笑ってしまった。やっと自身の教室に帰ってきた司くんは代わりに僕の鞄を持っていた。
「……これ、類のだよな?」
「うん、ありがとう司くん」
誤魔化すような白々しい台詞を言うわりに、あまりにばつの悪そうな表情をしていたので思わず吹き出してしまった。司くんはどうして僕が笑っているのか不思議そうに首を傾げ、尋ねてきた。
「なんで笑ってるんだ?」
「秘密」
これを言ったら君に怒られてしまいそうだもの。怒られるのも存外悪くはないかな、なんて思ってしまう自分に驚いた。君になら怒られてもいいという心情の理由はきっと、君の髪に触れて鼓動が少し早まった原因と深く関わっているだろう。こんなときでも働く自分の頭が少し恨めしく思った。
その日の帰り道はいつもより長く感じた。
家に帰って、自室で演出に使えそうな機械を手に取り、メンテナンスをしているとき、衝突に司くんを思い出した。
「そういえば、」
司くん、どうしてあんな顔、してたのかな。
あのときばかりは、自分の心情に驚いていたため、彼のあの表情についてすっかり忘れていたのだ。単に夕陽の光で赤く見えただけなのかもしれない。でもそれにしては、動揺していたような…思考を巡らせているうちにいつの間にか手が止まっていた。
いけない、このままでは気になってまともに作業ができない。ということで、僕は司くんにアプローチを仕掛けることにした。どういう原因であんな顔をしていたのか、やはりそれは僕が司くんの髪に触れたことが関係しているのだろうか。確かめるべく、いつもより司くんに触れることにした。
「司くん、今日は一緒に昼食をとらないかい?」
「ん、おお、分かった」
「ありがとう、じゃあ屋上で待ち合わせしよう」
「ああ」
司くんは昨日のことなんてまるで忘れてしまったかのようにいつも通りだった。やはり僕の考えすぎだったのかもしれないが、一応司くんの頭を撫でておこう。
「じゃあまた、屋上で」
「……っ!?!?」
撫でられた司くんは目を見開いて再度瞬きを繰り返して、戸惑った表情で固まってしまった。次第に顔が真っ赤になって、顔を片手で覆ってしまった。どんな表情なのかは手のせいで見づらかったが、動揺していることは確かなようだった。やはり触れることが引き金になっているようだ。あれこれ考えているうちに教室に着いてしまった。席に座っても、授業が始まっても、その思考が閉じることはなかった。そうなれば、あっという間に昼休みはやってくる訳で。屋上に向かっていると、司くんが東雲くんと何か話しているのが見えた。待ち合わせ場所に向かう途中で何か声を掛けられたのだろう。なんとなく興味が湧いて観察する。すると東雲くんが悪そうな顔で司くんの頭を触った。すると司くんはなんでもなさそうに平然としている。
「なんだ?彰人」
「司センパイ、頭に虫、付いてましたよ」
「なんだと!!??とととと、取ってくれ!?」
「だーかーら、取りましたって」
ニヤニヤと笑っている東雲くんは、どうやら司くんを揶揄っているようだった。一通りの流れを見届けた僕は先に屋上へ向かうことにした。階段を上っている間、僕は東雲くんと司くんとのやりとりで気になったことを頭の中で考えていた。どうしてか、東雲くんに頭を触れられても、司くんは昨日や今日のような反応は示さなかった。ということはやはり、『僕』が原因らしい。
「類、すまん待たせたな!!」
「あ、司くん、全然待ってないから大丈夫だよ。それより司くん、」
「なんだ?…る、!?」
類、と司くんが言い切る前に僕は司くんの手を握る。なんだか一方的に手を繋いでいるようで、物足りない。
「司くん、握り返してはくれないのかい?」
わざと大袈裟に甘えた声を出せば司くんは困惑しながらも握り返してくれた。不器用にぎゅ、と繋がれる手の体温は心地良かった。もっと親密に繋がりたくて、なんとなく指と指を交差させて絡ませると司くんの手を離そうとしてきた。
「ちょっと、どうして離そうとするんだい」
「お、お前はなんで不満気にするんだ…っ!離せ!」
いわば、司くんと僕は、恋人繋ぎ、と呼ばれる手の繋ぎ方をしていた。顔を真っ赤にさせて、ふるふると震える司くんは可愛らしい。むしろ離したくなくなってしまった。
「その申し出は頂けないなぁ。…離さないよ、司くん」
繋いだ手を自分の胸元に寄せて、司くんを体ごと引き寄せ、耳元で囁く。すると司くんは空いている片手で僕の胸を力一杯押して離れようとしてきた。しかし、体温が離れるのが名残惜しくて、億劫で。なので僕は片手を司くんの腰に手を回した。
「ひっ、なにを…」
腰が弱いのか司くんがびくりと反応した。腰を引き寄せれば司くんとぴったりと密着するような体勢になる。途中で我に帰って司くんを見ると、よほど恥ずかしいのか目をぎゅっと瞑って身体に力が入っているのが分かった。
——あれ、なんか……もっと触れたい、なぁ。
何か、おかしい。
司くんの腰を強く引き寄せながら司くんの頬に手を当てる。そして、僕は顔を近付けて、
「…っ近い!!!」
「ふぐっ!?」
顔と顔がぶつかる寸前、司くんが目を開け、僕は思い切り突き飛ばされた。
「類!!お前今日おかしいぞ!?」
司くんが顔を真っ赤にさせて叫ぶ。大分冷静さを欠いているようだった。
「司くん、落ち着いて」
「落ち着いていられるか!!もしあのままだったらオレとお前がき、」
「き?」
「っ!!なんでもない!」
司くんは何か言おうとしていた言葉を飲み込んだまま「今日はもう別で食べよう!」と走り去ってしまった。僕は自分が取った行動を今一度振り返ってみると、自分がいかに愚かなことをしようとしていたか自覚した。
司くんが言い掛けたのは、きっと、そういうことだ。
もし司くんに止められなかったら、きっとあのままキスをしていた、と思う。勢いに任せて僕は暴走してしまったのだ。
司くんの言う通り、今日の僕はおかしかった。
あのとき流れ込んできた濁流のような衝動は、恋とか愛とかそんな単純で美しいものではなかった。
僕は、司くんに——欲情していたのだ。
司くんはそこまで気付いてはいなさそうだけど自分が仲間にそんな目を向けていたなんてゾッとした。僕の悍ましさに気付かれてしまったら、司くんが離れていってしまうかもしれない。
「………はぁ」
これからのことを考えるとため息が漏れた。
この先の司くんとの距離の取り方は考えていかないといけないな。
ショー練習のとき、司くんと僕は驚くほどいつも通りだ。しかしやはり見えない壁というものはつきものだった。司くんが話をまともに聞いてくれない。二人きりで着替えている間ですら、謝ろうとしても、他の話題で話を逸らしてくる。
「司く、」
「そういえば、咲希が」
「司くん、」
「一歌たちと」
「聞いて」
「………嫌だ」
「お願いだよ」
切に願うように言えば司くんは押し黙ってなんだかんだ僕の言葉を待ってくれる。そういうところが、僕を甘やかしているって、勘違いや期待をさせてしまうって自覚してないのかな。今回ばかりはそこに助けられたけれども。
「昼は、ごめん」
「…別に、気にしてない」
「気にしてたじゃないか、さっきまでずっと話も聞いてくれなかったのは誰だい」
司くんが拗ねたように唇を尖らせた。ちょっとかわいいな。また魔が差してしまいそうになるから、切実にやめてもらいたい。
「…類は、どうして様子がおかしかったんだ?」
「昨日の放課後、君がどうしてあんな表情になったのか気になってね」
「あんな…?ハッ、気付かれていたのか!?」
司くんは自分が隠し切れていると思っていたらしい。
「僕が触れるたび、何かと動揺していたよね、だから、僕、何かしたかなと思って」
よくよく考えてみたら、司くんには無茶苦茶な演出に付き合ってもらっている。その代償として、もしかしたら司くんに僕は怖がられているんじゃないか、なんて思った。
「ちが…っ、なんかオレ、最近、変なんだ」
「司くんが?」
「類のことばかり考えてしまうし、触れられるとなんだか恥ずかし……ッ!??」
「……?それって、」
案外言葉にしてみれば、簡単に答えは見つかるものだ。
司くんもどうやら答えを見つけたらしい。
「……帰るっ!!!!」
司くんは恥ずかしくなったのか急いで鞄を手に取って更衣室を飛び出した。
「えむ、寧々、またな!!」
急いでいても挨拶は欠かさない、そんな彼の几帳面さが好きだ。
僕も急いで更衣室を飛び出すと、えむくんと寧々が驚いた表情をしているのが一瞬見えた気がする。
「…類も司も、何走ってんの…?」
「とってもとってもわんだほーいで、楽しそうだったね!!」
司くんの後ろ姿は、もう随分と遠かった。別に明日話をつけても良いはずだけれど、そんなことは頭にはなかった。
「待って!司くん!!」
息も絶え絶えになって叫んでひたすらに彼の背中を追った。
「待たない!!!」
司くんは日頃の僕の無茶な演出に付き合っているだけあって、捕まえるのには、少々手こずりそうだ。しかし、もはやこの瞬間を諦めることは選択肢にはなかった。
「……あーー!あんなところに!困っている男の子が!!」
「なにぃぃッ!!!???」
司くんが急ブレーキをかけて、立ち止まって、こちらへ全力ダッシュしてくる。いやはや君の素直さには恐れ入るよ。
「どこだ!?どこに…っ」
「つーかまえた」
司くんを思い切り抱き締め、腕から出られないようにガチガチに司くんの体をホールドする。
「ぇ、……騙したな!類ーッ!」
「騙したなんて、人聞きの悪い。ここに居るじゃないか、司くんが待ってくれなくて困っていた男の子が」
「お前は高校生だろうがッ!!!」
どこが、男の子だ!と司くんはいつもの調子で叫んだ。しかしその後、司くんは腕の中で暴れ出した。
「ハッ、そういえば、お前から逃げていたんだった!!出してくれーッ!!!」
「そう言われて、出すと思うのかい?…司くん、君に言いたいことがあるんだ」
「……ッ」
「こんなにずるい方法でごめんね。僕は、君のことが好きなんだ」
「……」
「君が、僕のことを好きかもしれないって…正直確信しているから、告白したんだ…もしさっきのことがなかったら、僕はきっと告白しなかった」
"類のことばかり考えてしまうし、触れられるとなんだか恥ずかし……ッ!??"
あの言葉があったからこそ、僕は今告白をすることができている、と思う。
「でも、諦めていたはずだった恋が、叶いそうなんだ。こんなずるい男は嫌かもしれない…だけど、絶対に後悔はさせないよ。だから…僕の手をどうかとってほしい」
頭を下げて震えながら手を前に出した。
本当はもっと紳士的な告白がしたかったんだけど。自分の必死さに少し引いた。だけど、それくらい本気で、緊張している。
「……オレも、類のことが好きだ」
司くんが震えている情けない手をとってくれた。
嬉しくて顔を上げると、司くんは夕陽を背に満面の笑みで笑っていて、綺麗だ。
「ははっ、類はもっと、こういうときはスマートな感じかと思ってたぞ」
「ひどいなぁ、僕だって人間なんだから、緊張くらいはするさ」
「でも、確信してるって言ってたじゃないか」
「勝算はあれども、油断はできないよ。なんせ、相手は司くんだよ?予想もしなかった行動に出る可能性もあったからね」
司くんは目を細めてまた笑って僕を喜ばせることを言ってくるんだ。
「演出家の求めに応じるのも、スターの役目だからな!」
「君はいつも、そうやって、僕を甘やかすよねえ」
少し呆れたようにそう言えば、司くんはまた綺麗に笑う。こんなにすぐに、触れたい、だなんて言ったらそれこそ呆れられてしまうだろうか。
「類、」
「ん?どうしたの、司、」
くん、そう言おうとして、ちゅ、と短くキスをされた。
「へ、」
「…す、すまん、したくなった」
呆然としている僕を横目に司くんが照れたように笑っていた。