ふたりが婚約するまでのはなし「——僕、司くんと結婚したいなあ」
類がひとりごとのように呟いたそれは、残念ながらはっきりと司の耳に届いていた。司の手に持っていた卵の中身が、くしゃりと潰れてフライパンに歪に広がっていく。司は目玉焼きを作ろうとしていた。しかし黄身が潰れてしまったことで、その計画は既に破綻してしまっている。司は至って冷静に、卵をもうひとつだけ割って、菜箸で黄身をかき混ぜて軌道修正を計った。そうして出来上がったのは目玉焼きではなく卵焼きだ。我ながら即興で作ったにしてはなかなかよい出来栄えに、司は満足げに目を細めた。
そのあと何事もなかったように類の前に食事を運んでやると、類は嬉しそうに微笑みながら、「いただきます」と手を合わせる。その一連の類の動きを見て、司は安堵したように息をついた。
「ごちそうさまでした。美味しかったよ、ありがとう」
食べ終えた類が皿洗いをしていた司に皿を手渡し、それだけ伝えて自室へと戻った。類の嬉しい言葉に司は頬を緩めた。洗剤で泡だらけになった食器を、お湯で濯いでから乾きやすいように逆さまにして食洗機に置く。
皿洗いがひと段落した司は、ソファーに寝転んで読書に勤しんでいた。しばらくそうやって時間を潰していると、ガチャリ、とドアの開いた音が聞こえて、類がリビングに戻ってきたことを悟った司は体を起こした。案の定、類は空いた司の隣に座って、司の肩に頭を乗せるようにしてもたれかかってきた。
「ねぇ、さっきの話の続きなんだけど」
「重い」
司が類の頭を手でどけると、類は不満そうにじとりと司を見つめた。不機嫌そうに顔を顰めた類をまったく気にすることなく司が本のページを捲ると、更に気に食わなかったのか類が司の持っていた本を取り上げる。
「うわ、なにするんだ!」
「……もともとここは僕の場所だよ」
「当たり前のようにオレのひざでくつろぐんじゃない!」
そして本が我が物顔で居座っていた司のひざを見事奪還した類は空いた司のひざを枕にして横たわる。司が呆れたように肩をすくめ、やけを起こして類の髪をくしゃくしゃに撫でると、類はむしろ嬉しそうに表情を緩めていた。
「で、話の続きってなんだ」
「フフ、話が早くて助かるよ」
類が言っていた“話の続き„の意味が、司にはよく分からなかった。司が気にするからか食事中に話すことはなかったし、食べ終わったころには類はすぐに自室に篭ってしまったからである。いったい何の話だと内心で司が首を傾けていると、類はそれに答えるかのごとく、司に言った。
「司くんと結婚したいって話」
「……っんぶ」
冗談だと思っていた話を類に掘り返され、動揺して咽せた司の反応に類は心底愉快そうに見つめていた。
「今は法律的に男同士で結婚はできないだろ」
「じゃあ、いつかできるようになったら結婚しようよ。約束ってことで、指輪、買ってくるからさ」
「もともとオレ達はそんな関係でもないはずだが」
そもそも司と類は恋人ではない。友人といえば友人なのだろうが、世間一般での友人よりもいまいち距離が近すぎて当てはまらない。しかし、恋人という間柄でもなかった。たまに司が不摂生な生活を送る類の様子を見に行くついでに、ご飯を作ってやるような、そんな関係だ。
「少し言い方は悪いけれど、今の司くんは通い妻みたいだし、実質、結婚してもいいと思うんだけどなあ」
「なにが実質なんだ、お前が心配させるような生活を続けるからじゃないか。生憎オレ達は付き合ってもいないし、」
「じゃあ付き合ったら結婚してくれるのかい?」
類がきょとんとした表情で子どものように司に問う。その蜂蜜色の類の目は大人になった今でも変わらず、純粋そのものだった。
「はぁ……類はオレに家事をしてほしいだけだろう?」
「心外だな。司くんにはそんなふうに僕が見えてるの?」
「………」
司が躊躇いがちに頷くとまた機嫌を損ねたのか類は眉を寄せて、えー、と不満そうな声を上げる。普段から類の世話をしてきたせいで、司には類がどうしてそこまで結婚にこだわるのかが、家事以外の理由がどうしても思いつかなかったのだ。
「まあ、それは、今まで甘えてきた僕の落ち度か……」
司は独りごちた類の寂しげな声に少し罪悪感が湧いた。だからといって類のプロポーズ(仮)を受けるわけにはいかなかった。
なぜならば、司は類に片想いをしていたからである。類のことが好きだからこそ、司は万が一将来結婚したとして、類のことを束縛しない自信がなかった。それで嫌われてしまったら、それこそ最悪な事態である。類に嫌われたショックで死んでしまうかもしれない、そう思ってしまうくらいには、司の片想い歴は長いものだった。そして、今の関係が一番ちょうどよく、司にとって居心地のよいものだったのだ。
「ひとのことをとやかく言いたくはないが、そろそろ類も、相手を探した方がいいんじゃないか?」
「……なんで。司くんだって独身じゃないか」
「オレはひとりでも生活できるが、お前には無理だろう」
間違いなく類は、独り身向きではない。自分が居なかったらきっと早死にしてしまうのではないかと司が自惚れてしまうくらいには、以前の類の生活はひどいものだった。部屋が散らかっていてベッドにも色々と物が散乱しており寝る場所もなかったし、食べるものはインスタント食品かサプリメントで補って、ろくな生活ではなかったと司は思い出す。
「司くん以外いらないのに、なんでそんな意地悪なこと言うの」
「は?」
「僕は司くんしか欲しくないのに……」
こいつ、言葉選びに語弊がありすぎる、と司は心の中で頭を抱えた。そして、類が期待をさせて裏切るタイプのタチが悪いタイプであることを司は理解した。そして、「まったく、オレでなければ誤解してしまうところだぞ」と司は内心で満更でもなさそうにしたのだった。
「お前、いつか誰かに刺されるぞ」
「え、なんで?」
「なんでもだ、なんでも。とにかく、好きあってもいないのに、結婚の約束はできん。他を当たれ」
他を、と言ったとき、類は僅かに悲しげに眉を下げたのは気のせいであると、司は勝手に結論づける。類は、少しも靡く様子のない司に対して痺れを切らしたのか、拗ねたように呟いた。
「司くんはこれから僕を好きになってくれる気もないの……?」
「は?もう既に好きだが?」
司が半ギレ気味に返すと、類は納得がいかないといった様子で司のひざの上で駄々を捏ねた。
「いい年して駄々を捏ねるな馬鹿者!」
「だって司くんが無自覚に残酷なことを言ってくるから!」
「それはお前もだろうが!」
類の言葉の意味は司にはよく分からなかったが、絶賛類に片想い中の司に対して他でもない類が本気でもないのに結婚を持ちかけていることに関しては、司にとっては残酷なことだとしか言いようがない。お互い、自分の言いたいことが伝わらないまま、喧嘩になってしまった。
「〜〜〜ッもう我慢ならん!類なんて出て行ってしまえ!」
「あーもう、分かったよ!ここから出て行く……って、ここ僕の家なんだけど!?」
「実質オレの家みたいなものだろ!?」
「なにが実質なのかな、司くん……!!」
「はぁぁあ!?その言葉はお前だけには言われたくないんだが!」
「もういい!オレが出て行く!」
「いたぁッ!!??」
ひざに頭を乗せていた類のことなんて忘れて司はソファーが立ち上がった。すぐさま司が荷物を持って早足で玄関へと向かう。スニーカーを履くと靴紐が解けていることに気が付いた。
「……、こんなときに!」
苛立ちながらもそれを結んで司がドアノブに手をかけた。頭を冷やしてからまた類の家の様子を見に行こうと、そう司が心に決めたとき、背後から何者かに抱き締められた。まあ、この場にはふたりしか居ないので誰なのかは確定していたのだが。
「行かないでよ……」
すがるような類の声に、司は息が詰まるような心地を覚える。ちょっとでも身じろぎしようものなら、ぎゅぅぅうっと締め付けられるほどに力が強められ、司は抵抗できなくなった。
「……類、離してくれ」
「いやだよ、離したら帰ってしまうだろう……?」
たたきの段差で司と類の身長差が広がっているからか、ぐりぐりと類に頭を押し付けられる。帰らないと言わなければ、やめてくれなさそうな類に司は今日で何度目かのため息をついた。
「ん」
「えっ?」
「だから心配なら、手は、握ってていいから。とりあえず体を離してくれないか」
これだと心臓がいくつあっても足らん、と司が照れくさそうに類に左手を差し出す。類は司の温かな体温を感じながら、少し寂しさを覚えながら司の体を離して、差し出された司の手を強く握りしめた。
「とりあえず話は聞いておいてやる」
ぶっきらぼうにそう言い放つ司に類は安心感を覚えた。類は、ちゃんとここに居て、話を聞くつもりで居てくれて嬉しいとさえ司に対して思った。
「……司くんの隣って、すっごく居心地がいいんだ」
「……」
「家事とか、司くんの手料理とか、そういうのも嬉しいけど、一概にそれ目的だって言われるとなにか違うんだ。なんていうか……メリットとかデメリットとか、そんなものはいらないから、ただ、そばにいてほしい」
「オレも、……類の隣は居心地がいいぞ。よすぎて、たまにおそろしくなる」
「おそろしい?」
「手放せなくなりそうで……怖い。いざとなったとき、離れられなくなりそうで」
「……馬鹿だなあ、離れなくていいんだよ」
「でも、」
「僕だって、離れられそうで怖いから、君を縛れる指輪がほしいんだ」
類が握っていた司の左手を掬い上げて、司のなにもつけていない薬指を撫でる。そして、ゆるりと司に微笑みかけた。
「ねぇ、今から、指輪買いに行かないかい?」
そんな言葉が、ふたりの新婚生活のきっかけになった。