つかまえた。 ざわざわとした周りの声も掻き消してしまうほどの土砂降りの雨の中、その音にすら負けないくらいの、大きな誰かの泣き声が木霊していた。
最初に見たあの悪夢の舞台は、スクランブル交差点のど真ん中だった。
「あああああ……!!!!!」
それにしたってこの五月蝿い声は誰のものだろうか。そんなに声を張って、喉を痛めてしまいそうなものだが。誰なのかも判別がつかぬほど、そいつは絶叫していた。
「あぁぁぁあッ……!!!」
ほら、声が掠れて更に聞くに堪えないものになっていく。そろそろこの声の主を落ち着かせないと。見つけて、はやく声をかけてやらなければ。
でも、声が出なかった。いや、思うように声が出ないと言うべきか。既に喉は開いていて、声は出せているはずなのに。聞こえてくるのは違う、自分じゃないみたいな声だった。最後の方はもう、ほとんど呻き声のようなものだった。
「ぁあ……っるぃ、類っ!!!!」
「つかさ、くん……なかないで」
——つまり、みっともなく叫んでいたのはオレだった、という話だ。
土砂降りでできた水たまりに赤黒い血が広がって、オレはその血溜まりの中心にいる類の体を抱えて咽び泣いていた。力なくだらんと垂れ下がっていた類の腕が、ゆっくりと伸ばされ、オレの涙を拭った。しかしそれは、拭っても拭っても溢れてしまう。どうしたって頬に涙が伝った。拭うそのたびに震える指に、涙が止まらなかった。
「……こまったなぁ……泣き止んで、ほしい、のに」
もう、手が動かないや、と。
困ったように笑う類の言葉に、笑わなければと思った。オレは役者だ。座長だ。笑うことくらい簡単なはずだった。なのに、涙が止まることはなかった。
「ッ……これは、涙なんかじゃ、ない……雨だ! だから、るい、」
類も、笑え。
きっと今のオレの顔は、とても役者とは言えないだろう。結局涙は止まらないままで、口角だけを上げているだけの、不細工な顔をしているのだ。けれど、類は。
「ふふ、……そう、だねぇ……っすごく、いい笑顔だ」
オレなんかよりもよっぽど綺麗な笑みを浮かべて、類は息を引き取った。
「ッ…………」
そんな悪夢に魘されて、オレは飛び起きた。
(……疲れているのかもしれないな……)
妙な胸騒ぎがしたけれど、杞憂だと思っていた。だが事態はそう思わせてはくれなくなった。一回きりならまだよかったのに、その悪夢は続いてしまったのだ。
夢には、なんらかの意味があるとも言う。だからオレは怖かった。類の死をオレに見せて、なにを求められているのかもわからないし、なにをするべきなのかもわからなかった。最近は類のそばに居て、周囲を警戒することにしている。だが、周りの様子はこれといって変わらなくて、本当に訳がわからず、ただオレの精神が擦り切れていくのみだった。
だって、今日も頭の中で類が死ぬんだ。どうすることもできない夢なのに、どこかリアルで生々しい。だって、人のために死の瞬間まで笑っていられるなんて、最期までもあいつらしくて、夢ならボロが出てもおかしくないくらいなのに。
決まって、夢の中のあいつはオレを庇って死ぬ。
「…………また、助けられた」
目を覚ましてから、すっかり冷静になった頭で、呆然と呟いた。その声は誰にも届くことはない。類に救われることに慣れてしまった、無力な自分が、オレはこの上なく嫌いだった。でも。
「諦めるな、諦めるな……」
この夢の正体を諦めるまで、オレは自分を嫌わないでいい。そう言い聞かせて、今日も学校に向かうのだ。
「……おはよう、司くん」
朝、類はなんだか憂鬱そうな表情であった。実際オレも憂鬱な気分が続いていたが、悟られぬよう大きな声ではっきりと挨拶を返し、類に尋ねたのだった。
「月曜日の朝だと言うのに、なんだか疲れてないか、お前……」
「それはほら、こんな天気だろう?」
「あー……」
ふと目線を窓に移すと、確かに空は土砂降りの雨を降らせていた。今朝はどんよりとした雨模様を描いていたが、まさかここまで大雨になるとは、類も思わなかったのだろう。オレは早めに学校に向かったので、その雨の餌食になることはなかったが、類はそうではなかったらしい。
「いやー、傘は持っていたんだけれど、風もあって、今日持ってきた装置に影響があるんじゃないかって心配でね。多少、濡れてしまったようだし」
そもそも学校に持ってくるな、と言いたいところだが、それはショーに使うものなのでオレは黙認していた。類がその大きな装置を取り出して、ドスンと音を立てて机に置いた。そこはオレの机なんだが……?
「だから、放課後屋上……いや、きっと雨が降っているから、どこかの空き教室で、この装置がきちんと作動するか、実験に付き合ってくれないかい? 司くん」
迎えに行くから、と。その顔は笑っていながらも、拒否権は全くない気がした。おそらくオレがYESと頷くまで、装置をオレの机から退かす気はなさそうだ。
「まあ、それくらいなら」
簡単にそれを了承してしまったことを、今では後悔している。
「司くんが好き」
「…………………は?」
空き教室へ向かって、そこに入るやいなや、急にそんなことを言われて、約十秒間たっぷりと時間をかけてオレは聞き返してしまった。それは、類の言葉があまりに突然だったことと、自分がむしろ嬉しいと感じてしまったことへの驚きがあったからだ。いつの間にか両手が掴まれていて、まるで愛の告白を受けているようだと思った。まあ、実際そうなのだが、未だに実感がないせいで素直にそうとは思えないのだ。許してほしい。
「それは、その……恋愛的な意味、か?」
「……ッ、うん。だから、僕と、付き合ってほしい」
類の緊張しているような面持ちに、嘘ではないのだと悟った。顔も赤いし僅かに手が汗ばんで、震えている。すぐにでも頷いて、安心させてやりたかった、けれど。
「……類は、恋人になったら、なによりもオレを優先してくれるのか?」
「え? まあ、状況によると思うけれど……そのつもり、だよ」
オレの言う、“なにより„とは類のことも含まれていた。だから、もしこのまま告白を断ってしまえば、類はオレを庇って死なずに済むのではないか? 夢の中で起こったことが、実際に起こるとは限らないのは分かっている。だけども、もし、そうなってしまったら?
「でも、僕は——が、——じゃなくても、———、」
考えごとをしているせいで、類の声がノイズがかかったように聞こえづらくなる。はやく、類のためになる答えを言わないと。類がオレを優先すると言うのならば。
「すまないが、類とは付き合えない」
「……なんで?」
「な、なんで、って……」
もし付き合ってしまったら、類の一番が、オレになってしまう正当な理由ができてしまうから。
類がオレを庇って死んでしまうかもしれないからなんて、言えるわけもなくて。
「もしかして、自覚ないのかい?」
「む……?」
「司くん、僕が“好き„って言ったとき、どんな顔してたか知ってる?」
「そんなの、わからないに決まっているだろう」
「……ずるいな、司くんは」
類は切なげに笑っては、オレから手を離した。
「…………司くんがそう言うのなら、わかったよ」
オレは自分の選択が正しいのかどうか、わからなくなった。正しかったはずなのに、あのときの類の表情を思い出すたびに、胸が苦しくなるのだ。
そんなことを考えてぼーっとしながらオレは帰路についた。オレ達が別れた頃には既に雨は止んでいた。おぼつかない足取りで、足元にあった水溜りを思い切り踏んでしまう。パシャリと泥が混じった水がスラックスへと飛び散る。
「………あ……」
最悪だ。帰ってすぐに寝てしまいたかったのに、これじゃあ洗わなければいけないじゃないか。なにもかもが面倒になって、その日は、どんどん足取りが重くなっていった。
次の日は、類と話さなかった。その次の日も、話さなかった。話しかけようにも類が教室に見当たらない。しかし、類と同じクラスの人達に聞いてみると、どうやら出席はしているようだった。類に避けられていると、そこでようやく理解した。
「………はぁぁ……」
重いため息を吐き出して、その日も帰った。よくよく考えてみれば、オレのそばに居ない方が、類も安全なのではなかろうか。そう考えるとこの状況も悪くないのかもしれない。ショーができなくなるのは困るが、類のことだから、きっとなんてことない表情をして練習に来るのだろう。オレは明日の練習を心待ちにして、その日を終えた。
けれど、次の日のショーの練習、類は休んでしまった。メッセージによると、『家でしかできない作業がある』だそうだ。実際家でも作業はできるのだろうが、それはきっとワンダーステージでもできることで、その方がいろいろと都合がいいはずなのに、類は苦し紛れの言い訳をして休んだのだ。それほど、オレのことに振り回されてしまったのだろう。そっとしておこうと、そのときは大人しく『了解』とだけ返したのだった。
ぼんやりとしていた。明日のことについて考えていた。降り止まない雨に憂鬱になりながらも、傘をさして交差点を渡っていた。雨で視界が悪くなっていたのと、考えごとをしていたせいで、車の急ブレーキの音に気が付けなかったのだと思う。
「——っ司くん!!!」
「うわっ」
どん、と、背中を押されたのだ。その際に聞こえた声は、聞き覚えのある声だった。
そこからは、世界がスローモーションに見えた。周りの音すらも聞こえず、どくどくと激しい自分の心音しか聞こえなくなっていた。
「っ類……!? なんで……っ」
声の主を思い出してから、鳥肌が立った。振り向けばやはりそこには安心した顔の類が居て、夢の中のオレは咄嗟のことだったから反応が遅れた。夢と同じだ。このままオレが居た場所に車が突っ込んできて、類がオレを突き飛ばして、身代わりになる。そんなのは、夢の中で何度も体験した。
たとえ夢の中でも、類が死ぬのは苦しかった。
何もできないままなのがつらかった。どうしようもなくても、諦められなかった。諦められないから、ずっとつらいままでいつまでも立ち直れなかった。くよくよしていた。情けない自分が嫌になった。
類が夢の中で死ぬたび、そんな想いを抱えていた。
あんな思いは、もうごめんだ。またオレを、こいつは身勝手に庇う気なのだ、オレの気持ちも無視して。
「そんなこと、絶対にゆるさない……っ」
オレの背中を押してきた手を掴んで、強い力で類の体を引き寄せる。そんなことだから、バランスがとれずに勢いよく類の体がオレの方へ倒れ込んでくる。ちょうどその後ろでは先程類が居た場所に車がものすごい勢いのスピードで通り、勢いよくビルに突っ込んだ。あんなものが夢では類に衝突するなんて、思い出したくもなかった。類がオレに覆い被さるような体勢になる。オレは類の温かい体温にひどく安堵していた。一方で、そんなことを知らない類は呑気に顔を赤くして固まってしまっていたが。
「ッ、類の大馬鹿者!!! 自分の命を大切にしろ馬鹿!!!」
「ち、近いよ、司くん……っ」
「もしお前がまたそんなことをして、オレより先にくたばってみろ、即オレは後追いしてやるからな!!」
「司くんこそ自分の命を大切にしてよ……」
「ふん、お返しだお返し、……っお前のような馬鹿には、この扱いがお似合い、だ……!」
鼻の先がつんと痛い。涙の兆しが見えてきたところで、類は空気も読まずにそれを指摘してきた。
「……泣いてるのかい?」
「泣いてなんていない!! ……ひっ、ぅ……っ」
「な、泣かないで……」
夢でも同じようなことを言われた気がして、さらに苦しくなって嗚咽が漏れた。涙に濡れた目を見られたくなくて、でも類が上に乗っかっているから隠すこともできなかった。
「どけ………っ」
「わっ」
覆い被さる類の体を押しのけて上半身を起こした。そうして類に顔を見られないように膝を抱えて座り込む。多分子供のように拗ねるオレはカッコ悪いだろう。しかし、どうしたって勝手に体が意地を張ってしまうのだから仕方ないのだ。
「……怒ってる?」
「おこってない」
「じゃあどうして頑なにこっちを見てくれないんだい……?」
類の声がだんだんとしょぼくれたものにへと変わっていく。顔を膝に押しつけているせいで表情がわからない。でも、類のことだから顔を上げたらにやにやと笑っているような気がして顔は上げられなかった。
「……実感が、湧かない」
「え?」
「類が生きてる、って実感が、まだ湧かなくて」
「……、司くん」
「!」
ふわりと温かいものに体が包まれた。頭になにかが当てられる。耳を澄ませれば、とくとくと音が聞こえてきた。
「ほら、鼓動を聞いてごらん。ちゃんと聞こえるだろう?……君が助けてくれたんだから、当たり前じゃないか」
顔を上げると、類が優しい顔をして笑っている。今、目の前で類が笑って存在している。それだけでも、オレの涙腺が決壊するには十分だった。
「……っる……! ほんとうに、無事で、よかった……っおれ、……っオレ……っ間違ったのかと、思ったんだ……! 類に死んでほしくなく、って、……類のこと……っふったのに、なんで庇ったりしたんだ……っ?」
「もしかして聞いてなかったのかな? 言ったよね、僕は司くんが恋人じゃなくても誰よりも優先する、って」
そんなこと、言ってくれていたのか。
全然聞こえてなかった。未来のことばかりに囚われて、目先のことが見えていなかったのだ。
「……それに、なんで司くんが僕をふったら僕が助かるんだい。僕、こう見えて司くんにふられてから、メンタルがめちゃくちゃになって、ある意味死にそうだったよ?」
「それは、すまん……」
「でもね、」
「それだけの理由なら、僕は助かったわけだし、僕とのこと、まだ考えてくれるよね?」
「え、」
一瞬類の目が、肉食獣のようにぎらぎらとして見えた。なんとなく怖い。少し後退りすると、ずいと類の顔が近付いてくる。
「おい待て近いぞ」
「君に言われたくはないなあ」
類の端正な顔が眼前に広がる。目を逸らしたくても、満月のような瞳が、オレをとらえて離してはくれない。
「絶対そんなことは許さないけど、僕が死んだら君もすぐに後追いするんだよね? でもそれって僕をずーっとそばで監視しておく必要があると思うんだけど……」
「ねぇ、司くん。期待しても、いい?」
オレも大概かもしれないが、どうやら相当重たい男にオレは、捕まってしまったみたいだ。