展示案内の訓練は散々だった。
ガストが例の出来事のせいで過去一度もミュージアムを訪れていなかったのに加え、先日チーム四人で確認に来たときもガストはろくに展示場を見ていなかったらしい。
幸い、エリオスやサブスタンスについての歴史は、アカデミーで学んだのがガストの頭に残っていた。マリオンはミュージアムの間取りや各展示の意図を叩き込んでやってから、改めて観光客のロールを担ってガストの案内の訓練をした。
ガストは最初何を訊ねられても狼狽えていたのが、最終的にはどうにか多少ましにはなった。
「お、おぉ! うん、マリオンのお陰だ」
「ボクは『ましになった』と言ったんだ、ガスト。当日までにちゃんと仕上げておけ。次は物販だ」
ガストは「うぐ、はい……」と疲れ切った声でマリオンに返事した。
マリオンは、もしもガストが音を上げたら鞭で思い切り打ってやるつもりでいた。今のところマリオンはガストへ鞭を振るうことなく済んでいる。
ガストの応対自体には、割と序盤から目立ってマズいところがなかった。客としてのマリオンが求めるところをすぐに察するようになったし、向ける笑顔も次第に自然になった。難点だった展示の配置をすでに覚えたので、あとは女性客を相手にしたとき、この練習時の振る舞いを発揮できるかどうかだ。
壁の順路札の最後を通り過ぎ、今言ったとおり開けた物販エリアへ向かう。
このミュージアムのお土産コーナーは、まあまあ広い造りをしていた。旧研究所を利用しているせいとはいえ、ガストに仕込むことがまた多そうだ。
「あっ! えぇっと、『お嬢さん、お手をどうぞ。足元に気をつけて』、そこに段差があるんだ」
ガストが突然、大きな手をそっとマリオンへ差し出した。
マリオンはびっくりしたが、言われてみれば物販エリアと展示エリアとの境にひとつ段差があったのだった。綺麗になっているとはいえ、昔の建物なのでそこここ段差がある。
驚いたのを悟られないように、マリオンは
「『ありがとうございます』」
と笑顔でガストの差し伸べた手を取った。
「ははっ、合ってたみたいだな。さっき展示物覚えて回ってるとき、俺もこの段差に足を取られちまってさ」
「ぼーっとしてるからだ、オマエこそ足元に気をつけろ。でも、実際危ないかもしれないな。女性客が大人数で通ることもあるだろうし、ツアー中だけでも注意書きを置いてもらうか」
マリオンはガストに手を引かれながら、段差の通路を通って思案した。ツアーを良いものにするには、まだまだやれることがある。
なかなか広いお土産コーナーは、展示エリアと同じくこの時間だと誰もいなかった。会計場もカフェもすでに閉まっていて、人に迷惑をかける心配はない。
「『ザ・ライトニング』のグッズならこっちだ。覚えたんだぜ。俺たちのも並んでるんだよな。ぬいぐるみとか」
「まだ何も訊いてないだろ。……まぁ、言われる前から把握に努めたことは評価、しないでもない」
マリオンの言葉に、ガストは意外そうな表情をしたあと頬を緩めて笑った。なんだその顔は、まだ褒めてないぞ。
お土産の勧め方は間違えるな、売り上げを伸ばすことではなくて、客に満足してもらうのが目的だ。客が何か探している様子だったら、迷わずコチラから積極的に声をかけろ。マリオンはひとつひとつ噛みしめて返事するガストへ、基本事項を説明してやった。
こうして真面目に頷くガストの反応が、まだ見慣れた光景とはとてもいえない。少しだけ自身への苦い気持ちが湧く。
振り払ってマリオンは、ひとつ息をついて窓の外の庭園へ目を向けた。池に水こそ張っていないが、いつも手入れされている庭園は夜も相変わらず美しい。
「客に庭園見物をオススメするのもいいかもな。こんなに綺麗だし、女性客なら花も詳しいんじゃないか?」
「たとえ女性だろうと、詳しいかどうかは人によるだろ。でも暖かくて時期はいいから、勧めたら喜ばれそうだ」
「……もしかして、花も覚えないとマズいのか? あの白いのとか全然わからねぇんだけど」
ガラス扉の向こうに咲く花をガストは指差して困った顔をした。
マリオンだって花に特別詳しいわけではないが、さすがにガストよりはもう少し知っている。マリオンが「アレはマーガレットだ」と教えてやると、ガストはガラス扉を押してマリオンを外へ誘った。花のこと知っているなら案内の手本を見せてくれ、とばかりにガストは戸を押さえてマリオンが来るのを待っている。
これはガストが息抜きしたいだけなのでは、とマリオンは思い当たったが、マリオン自身も少し休みたい気持ちはあった。ガストの思惑には目をつぶって、マリオンは庭園へ出た。
少しひんやりした空気が、しゃべり通しで感じていた疲れに心地良い。
「花を全部覚える必要はないけど、奥に行けばバラもまだまだ綺麗な時期だ」
「へぇ、俺もたぶんバラなら見ればわかるな。あのときも咲いてたっけ。……抜け道は、さすがに埋められてるんだろうな?」
「当たり前だ」
ガストの使った抜け道が、あのあとすぐに埋められてしまったのをマリオンはよく覚えている。ガストが「どうした?」と訊ねたので、マリオンは「何がだ」と返して足を進めた。
庭園はミュージアムの順路のように、歩いてひとめぐりできる造りだった。観光客にも勧めやすそうな整備がされている。ガストは奥にも咲いていたマーガレットを指し、名前を言って「あれはもう覚えた」と笑った。
「合ってるよな。しかしさっきの黄色いヤツは何だったんだろうな……」
「は? 見つけた時点で訊け、遅いぞ。いや、覚えなくていいとは言ったけど」
「そっか、遠慮せずに訊けばよかった。マリオンに教わるのは楽しいしな」
ガストが間髪いれずに何か指差したので、マリオンは見やったが「バラはわかるぜ!」と言っただけだった。子供みたいなガストの笑顔に、マリオンは腹が立ったように気持ちがそわついた。鞭を繰り出すかひと呼吸ほど悩む。そのとき不意に、一陣夜風が吹いた。
昼間は暖かくて良い季節とはいえ、やはり夜はまだ少し冷えた。冷たい空気が鼻腔を冷やし、マリオンは短く二度くしゃみした。すん、と小さく鼻をすする。
観光案内に必要はないが、ガストが知りたいというなら花だってもう少し教えてもいい。気を取り直すにはいいタイミングだろう。思ってマリオンはガストを見上げたのだ。
マリオンが顔を合わせるつもりだったガストは、しかし何故かマリオンへ身を寄せていた。回した腕でマリオンの肩を抱いている。
「えっと、『夜はまだ冷えるので、こちらへ――』痛ってぇ!! なんで鞭!? 俺はてっきり、マリオンが寒いのかと思って!」
「いっ、いきなり抱き寄せるヤツがあるか!」
「そういう"フリ"だったんじゃねぇの!?」
フリでくしゃみが出せるワケない。マリオンは驚きで、まだ喉元で心臓が鳴っていた。
あの失礼な告白を受けたときも、似たような感覚だったような気がする。いいやそんなことよりも、観光客相手にガストがいきなり肩を抱くようになる方が問題だろう。
ガストが、女性客だと思って振る舞えと言ったのはマリオンだろうというようなことを言ったが、これはまた躾け甲斐のある言い訳をするものだ。
もうひとつふたつと鞭をくれてやって、案内の練習として夜の時間がまた経っていくのだった。
了