「ッ、よお流川」
「‥‥‥おい、何ニヤついてやがる」
「え?ああ悪い悪い、えらく大荷物だなと思ってよ」
日頃の仏頂面と似ているようで少し違う、不機嫌丸出しな顰めっ面。そして地を這うような低音に怒りを買ってしまったことを悟った仙道はすぐさま眼前で僅かに肩を怒らせる男——流川に謝罪を述べた。
普段は学校に何をしに行っているのだと言いたくなるほどに身軽な流川(仙道もあまり人のことを言えたたちではないが)が今日は随分と大荷物。平時はペラペラの通学カバンはパンパンに膨れ上がり、両手には同じくギチギチに詰め込ませた紙袋がいくつも提げられていた。中身は察しがつく。遠目で中を覗くとやはりそこには予想通り赤、ピンク、水色に黄色と色とりどりの箱がひしめき合っていた。
(にしてもすげえ数だな‥まあファンクラブもあるくらいだし妥当か)
今日は2月14日、恋する男女の祭典バレンタインデーだ。つまり流川が大量に持ち帰ったコレは全てチョコレート。多くの男子にとって夢のような状況だろう。しかし当の流川はというと、嬉しそうにするどころかひどく迷惑そうだ。こんな姿、越野が目にすれば不満不平の雨嵐に違いない。そしておそらく湘北で桜木と既に一悶着あったのであろうことは、白い頬に貼られた傷パッドと頭の包帯から容易に想像がつく。機嫌の悪い流川が八つ当たりとも取れる桜木の喧嘩腰の態度をスルーすることができるはずもなく、同じく八つ当たりのように拳を振り上げたであろうことも。
それにしても多くの男女がソワソワドキドキするバレンタインデーに取っ組み合いの喧嘩とは。あまりにらしくて、想像すると少し笑えてくる。しかし先ほど不機嫌面で指摘をされたばかりであったと、流川に気付かれる前に仙道は慌てて緩む口元を手で覆い隠した。
「それにしても律儀だなお前、ちゃんと全部受け取って」
「??当たり前だろ。つうかアンタは」
「ん?あぁ、オレはこんだけ」
怪訝な顔で問いかけてくる流川に右手に提げていた小さな紙袋をひとつ掲げて見せてやる。すると途端に流川の表情が一転。驚き、困惑、疑い、そして罪悪感。流川にしては珍しくコロコロと表情が変わり、終いにはそれらが全て混じり合ったような何とも言い表し難い不思議な表情に落ち着いた。
これには我慢できず、仙道は腹を抱え声をあげて笑った。おかしい、あまりにおかしすぎる。決して仙道がゲラなのではない、先の一連の流れは普段の流川のクールな姿からはかけ離れていて、あまりに間抜けすぎたのだ。きっと笑いのツボの浅い者であれば笑い死んでいたであろう。
笑いすぎて滲んだ涙を拭い顔をあげると目と鼻の先に流川が迫っていて、すっかり元の仏頂面に戻ってしまっていた。残念、もう少し目に焼き付けておけば良かった。そんな意地の悪いことが頭を過ったその時、流川の白い手が仙道の学ランの中へと入り込んできた。
「あははははッ!やめろって、ンフフフフ」
「もっと隠し持ってんだろ」
「うハハハッ、バカっ‥もって、ねえって、ひひひひ」
体を這いずり回る手に腹を抱えて笑い、身を捩ってなんとか逃げようとするが流川の手は止まらない。息が苦しい、笑いすぎて腹が攣りそうだ。普段こんなに大声をあげて笑い続けることなどない仙道にとってはまさに地獄の責苦で、あっという間に呼吸すらままならなくなってしまった。
息が苦しい。もう限界だ、そう思った時ようやく流川の手が離れる。納得いかない様子だがとりあえずはチョコレート捜索を諦めたらしい。それが賢明だ、仙道は決してチョコレートの存在を隠したりなどしていないのだから。
「はぁッ‥はあ‥‥」
「なんで少ねえんだ。先輩‥三井先輩がアンタも山ほど貰ってるはずだって」
「へぇ‥三井さんが、ハァッ‥オレのことを、そんなふうに」
「どこに隠してる」
「隠してねえって。貰ってないだけ」
チョコレートの数が少ない理由、それを端的に口にすると流川は再び間抜け面を晒した。白旗をあげるようにひらひらと揺らした手の平を見つめる、猫のように丸い目。それは仙道お気に入りの釣りスポットで魚をねだる黒い子猫に似ていて少しおかしかった。
「アンタ、実はモテないのか」
「あはは、そりゃお前よりはモテないよ。でもまあ、今年少ないのはアレだ‥直接渡してくれた子のは全部断ったんだよ。引き出しとか靴箱に入れられてたのはまぁ、仕方ないから既製品だけ食べるけど」
「‥‥‥シツレーじゃねえの、それ」
「その気もねえのに受け取る方が失礼だろ。つうか皆にチョコお裾分けしてたら魚住さんにチクッと言われたんだよな、去年。応えるつもりがないなら、ましてや惰性で食ったり他人にやるくらいなら受け取るな。相手にもチョコにも失礼だからってさ。魚住さんらしいよな」
脳裏に浮かぶのは、バスケ選手としても人としても尊敬する魚住の渋顔。今思えば板前を、食のプロフェッショナルを目指す男に相応しい説教であった。このところ卒業を控えすっかり部活にを顔を出さなくなってしまったなと、一抹の寂しさを覚えながら紙袋の中を覗く。小さな紙袋を3分の2ほど埋める、可愛い包装紙でラッピングされたチョコレートたち。このくらいの量であればきっと美味しく食べられるだろう。渡してくれた彼女たちの気持ちに応えることはできなくとも、彼女たちがどんな思いでこのチョコレートを用意したのか、引き出しの中にそっと残していったのか思いを馳せることはできる。兎にも角にも腐らせる前に食べきらねばと、山のような量のチョコレートの処理に追われていた頃の仙道にはとてもできなかったことだ。
広げていた紙袋を右手に持ち直し、ゆっくりと視線をあげると再び不機嫌そうな顔の流川。それも先ほど以上に眉間の皺が濃く深くなっている。またか、仙道は眉を下げ小さく頬を掻いた。理由は不明だがこの男は魚住の話をすると毎回こうなのである。試合中に言い争いをしていた桜木とは違い、流川と魚住に個人的な因縁などこれといって思い浮かばないのだが。もしや仙道の知らぬところで何かしらあったのか。はたまた単に流川がその場にいない、それも自分のあまり知らぬ人間の話を出されるのがつまらないタイプなのか。
どちらにせよ早めに話の流れを変えてしまうのが吉だろう。元々バスケをやりにここに集まったのだ、ボールを出してやればこの一連のやり取りもすぐに忘れるはず。そう思いスポーツバッグからボールを取り出そうとしたその時、流川の頬にある見慣れぬ発疹に気が付いた。
「珍しいな流川、お前ニキビできてるぞ」
「あ?」
「顎んとこ。思われニキビってやつかな」
仙道が自らの顎先をトントンと指差すと、流川も倣って己の顎先に触れる。年頃の男子の肌とはとても思えない、ギトギト感も粉吹きも無縁の綺麗で真っ白な卵肌。ニキビなどできた経験もないのかもしれない、顎にできた発疹を物珍しそうに弄っている。
あまり触らない方がいい、そう言いながらニキビを突く指先をそっと払うと流川の双眼が仙道へ向く。ジッと、それが何かはハッキリしないが何かしらの意図をもって見つめ続けてくる黒目はひどく居心地悪く、仙道はしれっと顔を背けしゃがみ込み、ついでにスポーツバッグのチャックに手をかけた。相変わらず視線が突き刺さるが、ひとまず無視でいいだろう。
「おい」
「‥‥‥なんだよ」
「アンタの顔にないのはおかしい」
「なにが」
「ニキビ」
「偶々じゃないか?」
「思われニキビって、アンタ」
背中に浴びせかけられる拗ねたような、面白くないといったような声音。おまけに止む気配がない。よほど己の顔にできた吹き出物が気に入らなかったのだろうか、それとも仙道の言動が気に食わなかったのか。どちらにせよ、流川にしてはやけに食い下がってくる。
これは少々面倒だ、仙道はカバンの中を漁り一応は返事をしてやりながらも小さくため息を吐いた。流川とは普段バスケをするのみでまともに会話もないため気付きもしなかったが、意外と冗談の通じぬタイプだったらしい。今後は余計な話は振らないことにしよう。チームメイトたちにバレようものなら即白い目を向けられるだろう冷たい結論に行き着いた。
「んー‥まあほら、それはジンクスみてえなもんだしさ。そんな深い意味は、って‥‥おい、なんだコレ」
「‥‥‥チョコレート」
ボールを手にして立ち上がり、くるりと流川を振り返ったその瞬間ズイと目の前に迫ってくる流川の白い手の平。その上に乗っていたのは1枚の板チョコであった。銀紙で包まれ、さらに紙で包装されメーカーのロゴが印字された、何の変哲もないコンビニやスーパーで売られているミルクチョコレート。しかしそれを流川が差し出していることが事態をややこしくする。それも無言。なんだと問いかけるもチョコレートだと、聞かれずとも分かりきったことしか返らないのだ。
仙道は他人の機微に聡いと評されることが多い。そうであると自覚もある。というのも仙道は人よりも広いらしい視野で他人を観察し、その人が考えていること欲していることを多少読み明かすことは可能なのである。しかしそれはその人の人となりを最低限知っていることが条件で、そしていくらか前後の流れがあって初めて推測できるのだ。超能力者などではないのだから当然である。
仙道は流川楓という男がどんなプレイヤーかはよく知っているが、どんな男なのかはよく知らない。バスケ以外にどんなことが好きなのか、学校や家ではどんな振る舞いをするのか、どういったことに心惹かれるのか、何ひとつとして分からない。思考回路も全くの謎だ。おまけにこの男の行動は突拍子もないことばかりで、流れも何もあったものではないのだ。要するにこのチョコレートが一体何を意味するのか、正直言って仙道には1ミリたりとも分からないというわけだ。
(ッ、もしかして消費すんの手伝えってことか‥‥いや、流川に板チョコ渡す女子はいねえか‥)
「これ、オレからアンタに」
「は?」
「だから、オレからアン」
「いや聞こえてるって。え、なに。お前がわざわざ買ったの?オレに渡すために?」
壊れた機械のように同じ言葉を繰り返す流川を遮り矢継ぎ早に問いかける。すると流川はコクコクと小さく、しかし確かに首を縦に振った。見間違いでも聞き間違いでもない。であればとにかく受け取らなければ、そう思い手を差し出せば長い睫毛に縁取られた切長の瞳が大きく見開かれた。
そして仙道の手の平にそっと置かれるミルクチョコレート。それは軽いながらも確かに重さが存在していて、夢でも幻でもないのだと、仙道は不思議な思いで己の手の上のチョコレートを見つめた。
(こいつが、オレにチョコを‥)
昨今流行りの友チョコというものではないだろう。そんな流行り物を好む男ではない。日頃1on1に付き合ってくれることへの感謝を込めて、というのはこの男にしては殊勝すぎるので除外。一度挨拶をしたことがある流川の母親が持たせたという可能性も一瞬考えたが、それにしては板チョコは適当すぎるのでこれも選択肢から外れる。
そうなると最もシンプルな理由、"好きだから渡した"という最もあり得なさそうなものが最も可能性として考えられるというわけだ。おかしな話だが。しかし今になってよくよく流川を見てみると耳や頬がほんのりと赤く染まっていて、黒い瞳は仙道の動向を注視しながらもゆらゆらと揺れていた。
(‥‥‥へぇ)
可愛いやつ、そう思った。流川は男、それも仙道と同じほどの体格を持つ屈強な男で、極め付けは生意気な他校の後輩だ。可愛いなんて言葉、普通は似つかわしいはずなのになぜだか仙道にはそう思えてならなかった。
そして先ほどは理解に苦しんだ思われニキビに関する応酬、そして魚住の名をあげた時に見せた流川の冷ややかな反応が見事に繋がり一本の線となっていく。なんだ、訳のわからぬ男だと思っていたが案外単純で可愛らしいところがあるではないか。湘北のカラーを彷彿とされる包装紙に包まれた流川の思いそのものに、仙道はゆるりと口角をあげた。
「さんきゅうな、流川。ありがたく貰っとく」
「ッ‥おいっ、さっき直接は断ってるって」
「そうなんだけどさ、コレだけは貰っとこうかなって。せっかくお前が用意してくれたわけだし。あと、今日オレ誕生日だし」
「!?」
そう、実は今日2月14日はバレンタインデーであると同時に仙道がこの世に生を受けた日でもあるのだ。チョコレートが増えることを憂い今までは尋ねられても適当にはぐらかしていたのだが、どうしてだか今は自分で打ち明けてしまった。聞かれてもいないのにだ。そう、仙道は浮かれていた。可愛げのカケラもない生意気な後輩がとった意外な行動に、そして健気な恋心にちょっぴり心が傾いてしまっているのだ。これが恋なのか、そこまではまだ分からないけれど。
「おい、そんなの聞いてねえ」
「言ってねえからなぁ」
「やり直す。もっと別のもん」
「オレはコレがいいの。それより流川、一緒に食わねえ?オレ何も準備してねえからさ」
ボールを一旦カバンの中へ戻し、ベンチの前まで足早に向かって腰を下ろし自らの横をバシバシと叩く。すると流川は暫く嬉しいような顔をしたり拗ねたような顔をしたりと忙しそうにしていたが、結局は喜びが勝ったのか見えない尻尾を振りながら隣に駆け寄ってきた。そんな姿に仙道は一層楽しくなって、くつくつと小さく肩を震わせた。
寒空の下、狭いベンチで肩を触れ合わせながら2人並んでチョコレートを齧る。想像通りの、特別捻りのないストレートな甘みが舌の上に広がり、2人して「甘いな」とこれまた捻りのない感想を述べた。やはりおかしい。しかし悪くない。んふふと咀嚼しながら小さく笑い、それからチラリと隣を見やると流川も目敏く気付いたようですぐにこちらを見る。
その瞳はいつもと同じなのにどこか違っていて、柔らかく甘やかな色をしているように仙道の目には映った。初めて見る色だ。コートの上では激しい炎を宿していたこの男の瞳もこんな風に誰かを捉えるのかと、そしてよりによってそれが自分なのかと、仙道は黒い眼に映る自分の姿に不思議なもんだと目を眇めた。しかしもっと不思議なことに、黒曜石の瞳に映る仙道の眼差しもまた今まで見たこともない色を湛えていたのだ。それはまるでこれから迎える春の海——あたたかな木漏れ日を照り返す水面のように穏やかに揺れ、ぴかぴかと煌めいていた。