カリカリカリ
静かな談話室に筆を取る(言葉の綾で、正確に言えば筆ではなくシャーペンであるが)音が響く。来週に控えた試験に向け、各々持ち込んだ課題をこなしているのだ。隣の机では赤点常習犯の沢北が両隣の深津と河田に監視されながらもなんとか英語の参考書を解いている。9月にはアメリカへバスケ留学、そして特にトラブルさえなければその後も海の向こうでバスケを続けるであろうに初歩的な英語さえもままならない後輩に少し心配になるが、野辺も人の心配ばかりしてはいられない。
前回平均点を下回ってしまった物理と数学をなんとかしなければ。工業生でありながらこの2科目が苦手なのは恥ずべきことなのだろうがどうにも解けないのだ。優等生の松本曰く、公式をしっかりと理解しある程度基礎問題を積めば応用問題もこなせるようになるとのことなのだが、1人ではどうしても煮詰まってしまう。そういうわけで松本に教えてもらいながら提出課題に取り組んでいるのだ。正直試験直前に手を取らせてしまうのは気が引けるが、見返りとして松本が苦手としている古文を教えてやることで手打ちとしている。
そしてそんな中ここに姿を見せていない者が1人。いつもは早々に課題をこなし、沢北の面倒を見てやっている優等生の一ノ倉が珍しく来ていない。そういうこともあって現在沢北は鬼コーチ2人に囲まれているわけである。
「お、やってるね」
「イチノ」
「イチノさんたしゅけてッ‥!!深津さんも河田さんも怖いんすよぉ〜」
「沢北落ち着きなって。2人とも沢北が試合に出られるように勉強見てくれてるんだから、むしろ感謝しないと」
一ノ倉が談話室に入ってくるなり鬼コーチ2人の間から脱出しヒシと泣きつく沢北。そしてそんな沢北に尤もすぎる言葉を授ける一ノ倉。確かにその通りだ。深津も河田も誰に頼まれたわけでもないのに沢北のために(というよりはチームのためだろうが)面倒を見てやっている、感謝されて然るべきだろう。とはいえ圧が凄すぎるため、泣きたくなる沢北の気持ちも分からなくもない。
「イチノ遅かったピョン」
「うん。ちょっとクラスの女子に頼まれごとして」
「頼まれごと?」
「ラブレター、預かってきたんだ」
「「「ラッ、ラブレター!?」」」
一ノ倉の懐から出てきた可愛らしいピンクの便箋に皆がガタリと立ち上がり叫ぶ。試合中は冷静沈着な深津も、男らしく頼りになる河田も。勿論、野辺もだ。
しかしすぐに皆——正確に言うならば沢北以外の全員が一斉に真顔に戻った。ラブレターを貰うなど、十中八九沢北に決まっている。皆が皆平等にチャンスを与えられれば素敵だが現実はそう甘くはない、皆そのくらいのことは分かっているのだ。
「どうせ沢北ピョン」
「うし、いっぺん締めるか」
「ええ!?まだ誰宛か聞いてもないのに酷すぎだだだだ!!」
山王工業バスケ部始まって以来の2枚目と評される沢北に冷たい視線が集まる。ファンの女の子たちからファンレターや差し入れを貰っていることも、バスケ以外には興味がないからと袖にしていることも周知の事実であるからだ。
皆の冷ややかな視線に状況の悪さを察知したのか、沢北がマズいといった顔をして談話室から逃げ出そうとする。しかしそれよりも先に動き始めていた河田が沢北の背後に回り込み、目にも止まらぬ速さで技をかけた。サソリ固めだ、これは痛い。沢北の叫び声が寮内に響き渡った。
バスケ部恒例、お決まりの流れだ。これがあと少しで見られなくなるのかと思うと少し寂しい。わぁわぁと泣き叫ぶ沢北には悪いなとは思うけれど。
そしてそんな沢北を見てケラケラと笑う松本の無邪気な横顔に、野辺は柔く目を細めた。試合中は勿論のこと、練習中も常に己を律し真摯にバスケに向き合う高潔な男。そんな松本が気を許した者に見せるもう一つの側面、素朴で朗らかで、まるで人懐こい犬のような姿。そんな愛くるしさと試合中の研ぎ澄まされたナイフのような鋭さと、そのギャップにやられた女の子が一定数いるらしいことを野辺は密かに知っている。
「意外と松本かもよ」
「え、オレッ!?」
「この前1組の子に告白されてたでしょ」
まさか自分に話の矛先が向くとは思っていなかったのか、野辺の告発に酷く驚いた様子の松本にピトリと肩を寄せる。「断ったの?」とヒソヒソ尋ねると困ったように眉を寄せ、陶器のように白い頬をほんのり桃色に染めた。そして「そりゃあ、まぁ‥」と野辺同様密やかに返す。そんな松本に野辺はほぅと小さく息を吐き、それからこれ以上は不自然になってしまうなと、そっと触れ合う体を離した。
松本のことが好きだ。深津と同じく入部したての頃から実力者として一目置かれる存在であった松本。デカいだけの野辺とは違う圧倒的なスキル、そして堅物ともとれる生真面目さ、正直近寄り難いと当時の野辺は松本のことを遠巻きに見ていた。そんな松本の評価が変わり始めたのは初めての合宿。練習の過酷さに耐えかね脱走する松本に、こいつもオレとそんなに変わんないかもと、妙な親近感を覚えたのがきっかけであった。
それからは少しずつ距離が近づき、松本が意外にもよく喋りよく笑う男だということ、そしてその笑顔がいたく可愛らしいということを知った。きっとその頃にはもう好きだったのだろう。気付けばコートの外でも自然と目で追っていて、しかしながら今の心地よい関係を崩す度胸はなく、時折こうして体を触れ合わせては己が身に移る体温とすぐそばに感じる息遣いに満足するようになってしまっていた。
「うちのクラスの女子も松本イケメンだよねって話してたよ」
「そ、そうなのか‥?」
「松本‥裏切り者ピョン。よし河田、やるピョン」
「うし」
「え!?ちょっ、ちょっと待て河田、話せばわかだだだだ!!」
沢北の屍の上にドカリと座り込んでいた河田が深津の指示でスッと立ち上がる。そして逃げそびれた松本を引っ捕まえると、流れるように技をかけた。美しい、見事な4の字固め。そして悲鳴をあげる松本に対して深津が「バカの犬養毅ピョン」と謎のボケを披露し、一ノ倉がケラケラと笑った。
沢北を疑っていたわけではないけれど、松本の苦悶の表情を見ていると冗談抜きで本当に痛いのだなと伝わってくる。しかしこれで自分は女の子にモテるらしいと悟った松本が変な気を起こす可能性の芽は完全に摘み取られた。勿論松本がそのような軟派者でないことは分かっているけれど、片思いしている身としては僅かな可能性すらも許せないのだ。一安心である。助けを求める松本の顔が絶望に歪んでいく様は正直可哀想で見ていられなかった。しかし少しだけ、ほんの少しだけ胸の内だけで深津と河田に感謝を述べたのであった。
「まあ松本がモテるのは事実なんだけど、残念ながらこのラブレターは松本宛じゃないんだ。そして沢北宛でもね」
「「「え!?」」」
楽しそうな一ノ倉の声に続き深津、河田、そして野辺の驚愕の声がハモり談話室に響き渡る。深津に至ってはその後も接尾語も忘れ困惑気味に喋り続け、暫く経って恥ずかしそうに「ピョン‥」と呟いていた。
沢北ではなく松本でもないのであれば一体誰宛のラブレターなのか。一ノ倉が頼まれてここに持ってきたということを考慮すれば勿論一ノ倉宛ではない。つまりはここにいる誰か——残る深津、河田、野辺の誰かに絞られるわけだ。
皆の間にソワソワと、謎の緊張感が走る。勿論ラブレターを渡されたとて、ハードな練習で碌に休みもないバスケ部には女の子とお付き合いする余裕などない者が大多数であろう。しかしそれはそれとしてラブレターは欲しい、それは間違いなく誰しもが思っていることだ。ゆっくりと足を進める一ノ倉の動向に皆の注目が集まる。
「はい、じゃあ確かに渡したからね」
「オ、オレっ‥!?」
一ノ倉が深津、そして河田(と屍となった松本)を通り過ぎ野辺の目の前に立つと、ハイと言ってピンクの便箋を差し出した。
まさか自分宛だとはつゆほども思っておらず、バクバクと胸が騒ぐ。野辺は松本に懸想していて、だからこのラブレターの主の思いに応えることは決してない。ない、ないけれど、だからといって何とも思わないはずがないのだ。第一女の子に思いを寄せられた経験などない野辺にとって今のこの状況は夢そのもので、ふわふわと心が浮ついてしまうのは致し方ない。
女子が書いたものだからか、心なしかいい匂いのする便箋をひらりと裏返す。するとそこには野辺の見知った名前が記されてあった。
「あ、同じ図書委員の子だ」
「そうそう。なんか委員会で野辺に助けてもらって好きになっちゃったんだって。この前試合も観にきてたらしいよ」
「そうなんだ‥直接渡してくれれば良かったのに」
「恥ずかしかったんじゃないかな?オレに頼んでるときも顔真っ赤だったし」
「そっかぁ‥」
部活動に支障が出ないよう比較的負担が少ない図書委員会を選んだ野辺と違い、心の底から本が好きで、図書委員になるべくしてなった彼女。真面目で、少し融通が利かなくて、野辺のような理由で委員会に属する者からは少し距離を置かれていて。正直野辺もそこまで彼女と親しくしているわけではない、高所での作業を彼女の代わりに行っているくらいだ。
けれども大好きな本に向き合う時の真剣な横顔が、作業を手伝ったときにだけ見せてくれる柔らかな表情が、どこか松本を彷彿とさせて。そんな下心込みの優しさだった故に少し、いやかなり申し訳ないし気まずいというのが正直なところだ。
「付き合うんすか?」
「え?いやまさか。今はバスケのことで精一杯だし、両方うまくやれるほど器用じゃないよ」
「勿体ないピョン」
「まあでも野辺らしいよね」
ようやく復活した沢北に問われ首を振る。本当の理由は隠しつつも、あながち嘘も言ってはいない。野辺が松本に思いを告げられない理由は、実はこれもあったりするのだ。
万が一、なにかの奇跡が起こって松本と付き合えたとして、自分は松本の彼氏として万事を尽くせるだろうか。レギュラーとして試合に出るために、そして試合で勝つために精進して精進して——それだけで精一杯の自分に、果たして松本が少しの不安を抱くこともなく、まっとうに愛してやることができるだろうか。
付き合えてもいないのにこんなことを悩むなど、側から見れば滑稽だろう。しかし少しでも相手を傷付ける可能性があるならば関係を変えない方がいいのではないかと、そう思ってしまって二の足を踏み続ける毎日。今日もまた言えなかった。ああまた今日も言えなかった。そんな日々を積み重ねて気付けば野辺たちは3年に、最高学年になってしまった。松本と過ごせる日々もあと残りわずかだ、そう頭では分かっていても弱い心は今の関係の心地よさに縋ってしまう。ラブレターを渡してくれた彼女と違い酷く臆病な自分に改めて情けなく思い、野辺はこっそりとため息を吐いた。
その後、寮長が消灯の時間だと知らせに来てその場はお開きとなった。皆が談話室を後にする中、松本の背中を探す。大丈夫だったかと、一言かけられればと思ったのだ。しかし野辺のせいでとばっちりを食らったため怒っていたのだろうか、松本は何も口を開かないまま足早に自室へと戻っていってしまった。
続きます