「お、これは運動会か?この頃から大きいんだな、周りから頭ひとつ抜けてる」
「‥‥‥」
「ん、これは遠足だな。ははは、両手いっぱいに菓子抱えて可愛いな」
「‥‥‥あのさぁ」
一言も返事を返していないのにさして気にした様子もなく、延々とベラベラベラベラ喋り続ける男に紫原は我慢の限界を迎え渋々声をかけた。相手にするのは面倒で、しかしながらこうも延々と話しかけられ続けるのはいい加減うざったい。胸の辺りがつっかえる感覚に大好きなポテトチップス(2袋目)へ伸びる手が止まるくらいで、正直言って迷惑もいいところだった。
だから2つを天秤にかけ、仕方なしに前者を選んだに過ぎない。だというのに目の前であぐらを組む男——木吉鉄平は紫原の声を聞くなりバッと顔を上げ、嬉しそうに目を輝かせた。そしてその大きな手には、足元には大量のアルバムが置かれてあった。
「それ楽しい?」
「ああ、楽しいぞ!」
「あっそ。変なやつ〜」
まさかの即答。いや、この男の鬱陶しさを考えればこのくらいは想定の範囲内だろうか。
たかが数秒のやり取り。おまけに紫原を知らぬ者が見れば思わず一歩後退りしてしまいそうな塩対応。木吉も初めの頃は時折顔を強張らせたり、体をビクつかせたりとそれなりの反応を示していたような記憶があるが、付き合い始めてからはしつこさにも鈍感さにも磨きがかかり今では紫原の方がたじろぐことも少なくはない。
嬉しそうに、柔らかなアーチを描く太い眉。チカチカきらきらと煩い薄茶色の瞳。調子が狂う。付き合ってられないと顔を背け、一度は手放したポテトチップスの袋を掴み封を開けた。
勢いあまって1つ2つと床に落下したポテトチップスを拾い口に放れば舌先にひろがる程よい塩味。うまい。期間限定の変わり種も含め、基本どんな味でも好んで食べるがやはり定番には定番の良さがあると紫原は思う。
袋の半分ほどをペロリと開けた頃には木吉の視線は再び手の中のアルバムに落ちていた。ぺらり。ぺらり。太く長い指が静かに、丁寧に分厚いページを捲る。写真に写るのは薄茶色——ではなく紫色の頭髪の少年。その上どれもこれも同じような、眠そうな顔ばかりで一体何が楽しいんだかと紫原は小さく鼻を鳴らした。
「お、これは帝光中の写真か?黒子‥は、いないのか」
「黒ちんが一軍あがってきたのはもっと後だし、そん時は知りもしなかったよ」
「そうか‥。紫原、この時は髪が短かったんだな。背も周りに比べたらデカいが、今よりずっと小さいな」
黒子が赤司によって才覚を見出される以前の苦労を、挫折をそれとなく聞いているのか、はたまた感じ取っているのか。木吉の表情が一瞬曇るが、またすぐにパラパラとアルバムを捲った。
白い、馴染みのあるブレザーに身を包んだ己の姿。それは木吉の言う通り髪は肩に届かぬ長さで背は低く(それでも大半の大人の背丈を抜いてはいたが)、体つきも子ども特有の線の細さを感じさせるものであった。
ページを捲っては戻しを繰り返す指先。アルバムの端から端まで忙しなく動く視線。時折フッと柔い笑みを浮かべる口元。紫原はむず痒さに身をくねらせた。
「まだ13とかなんだしチビで当たり前じゃん。バッカじゃないの?」
「ハハ、それもそうか。それにしても可愛いなぁ」
「呑気なやつ。中学んとき、オレに何されたか忘れたわけぇ?」
紫原の吐き捨てた言葉は殊更冷たく響き、途端に室内はシンと静まりかえった。驚きを、困惑をあらわにするように大きく見開かれたライトブラウン。放っておいたらポトリと落っこちてきそうだ。そんなことを思いながら見つめていると木吉が徐に「あ」と呟き、ポンと手を叩いた。
「勿論今の紫原のことも可愛いと思ってるぞ!」
「ハァ〜〜〜〜⁇何意味分かんないこと言ってんの」
「む、違ったか?」
「全っ然違えし。あんまり変なことばっか言ってるとヒネリつぶすよ」
「ハハ、そうか」
めいいっぱい顔を顰め毒づいてみせるも、木吉に特に堪えた様子はなくカラリと笑った。緩く覗いた歯の眩さが瞼の裏に残る。背中に走るむず痒さ。すると大きな手が紫原へ向かって徐に伸ばされ頭のてっぺんで2、3度往復——紫原は先の木吉以上に大きく目を見張った。
かき混ぜられ、普段以上にダラリと垂れた頭髪の下で顔が爆ぜる。そして体温とともに心拍数も跳ね上がり、怒りにも似た激しい感情が腹の底で芽吹き始めた。加虐性を伴う衝動。しかし視界の端に映った写真たて——初めてミニバスで試合に出た日、きょうだいたちと撮った写真がすんでのところで紫原の理性を繋ぎ止め、あたたかな手の平をバシリと払い除けるのみに踏みとどまった。
「‥それ、ウザいからヤメてくんない」
「悪い悪い、つい癖でな」
きょうだいもいないのに、一体どこの誰にしているというのか。口をついて出かけた言葉は口いっぱいに含んだポテトチップスとともに胃の中へと流し込んだ。どこの誰か——そんなこと、わざわざ聞かずとも分かる。チームの大黒柱として仲間を励まし、鼓舞するために惜しみなく差し出される手の平を何度もこの目で見てきたのだから。
親きょうだいの背丈を追い抜かした紫原にとって、頭を撫でられるという行為は特別である。対して木吉はというと、なんら変わり映えしない日常だ。つまらない。大好きなポテトチップスを頬張っても、いつものような幸福感が心を満たしていかない。しかしこのことに敢えて言及するというのは、いくら紫原が子どもっぽいと揶揄されることを気に留めないたちだとしてもどうにも憚られた。
「紫原」
「なに?またつまんない冗談?ヒネリつぶすよ」
「おいおい、つまんないって酷いな。それに冗談じゃないぞ。だからほら、こっち向いてくれ」
蕩けるような声音に引っ張られるように、そっぽへ向けていた視線を木吉へと向けた。そしてそこにあった真綿のように柔らかな、それでいて甘やかな微笑みに紫原はグッと息を呑み込んだ。
誰に対しても、それこそウザったいくらいにニコニコと柔和な笑みを絶やさない男だが、それでも今向けられている"これ"がそれらとは全くの別物であるということくらいは紫原でも分かる。それほどまでに露骨で、あけすけな"恋人扱い"に、皮膚の下では痛いくらいに心臓が強く脈打っていた。
「確かに悔しい思いもしたし、良い思い出だと胸を張っては言えないが‥それでも、あの試合があったからこそ今のオレがある」
「‥‥」
「お前とだって、こうして仲良くなれた」
「ッ、あーはいはい。あんたはそーいうやつだったわ。はい、この話はおしまいねー」
「おいおい、勝手に終わらすなよ」
相変わらずのバスケ馬鹿、おまけにムカつくくらいの前向きさ。そして先ほど紫原が一体ナニをしようとしていたのか、知ってか知らずか"仲良くなれた"だなんて朗らかに笑う——その目を焼くような眩しさに嫌気がさし、手をひらひらと適当に振り会話を切り上げようとするも木吉は止まらない。床に座り込んでいる分、気持ち近づいた視線をたっぷりと絡めて紫原の手の甲にピタリと触れた。
「それにな紫原、好きな人の新たな一面っていうのはそれがどんなものでも嬉しいものじゃないか?」
「〜〜〜ッッ、しっ、知らねーし!」
誠凛の監督と付き合っていたらしい木吉と違い、紫原にとっては生まれて初めての本気の恋なのだ。姉が好きな恋愛ドラマや漫画などにも別段興味はなく、経験値もなければ知識もないのないない尽くし。故に恋愛における一般論など振り翳されても、同意を求められても困るの一言に尽きるのだ。
けれども理解できる否か、それと木吉の発言をいかように受け取るかは無関係だということを紫原の体は——触れ合った指先から伝播した熱により熱る体から噴き出る汗が、白熱した試合を想起させる激しい鼓動が、カラカラに渇きキューッと異音を響かせる喉が証明していた。隠しようもないほどに。そしてそんな紫原の変化に木吉がうっとりと目を眇め、心底幸せそうに笑いながら小指同士を絡ませた。
こんな時、紫原はいつもどうすればいいのか分からなくなる。身も心も、自分のものとはとても思えないくらいにいうことを聞かなくなって——これが恋なのだと、2年がかりでようやく気付いて木吉とも恋人になれたけれど、こうなると頭が真っ白になって木吉の甘く柔らかな視線から逃れることしか紫原には出来ないのだ。
今日だってそうだ。そして視界から消えた木吉が笑みを深めるのもいつもと同じ。付き合っているのにいつも木吉は紫原のいくつも先を行っていて、自分ばかりが翻弄されている。恋人同士である以上同じだけ経験値を積み重ねていき、一生縮まることのない経験の差。紫原が悔しさにぷくりと膨らませた頬に木吉の指先が触れた。
続きます