最初の日「はい、じゃあこれ鍵ね」
大家の男はチャリとキーホルダーでまとめられた二本の鍵を差し出した。
「よろしくお願いします!」
司は目を輝かせながらそれを受け取る。
「これからよろしくお願いします」
隣にいた類も深々と頭を下げる。
「何かあればすぐ言ってくださいね」
ありがとうございますと二人は答えると、挨拶もそこそこに大家の家を後にした。
司は受け取ったばかりの鍵を一つ、キーホルダーから外す。
「ほら」
差し出された鍵を眩しそうに一瞥し、類はそれに手を伸ばす。
「これからもよろしく」
少し照れくさそうにはにかむ類につられて司の顔も緩む。
「こちらこそよろしく頼む!」
二人はそれぞれ大切そうに鍵をしまうと、手を繋いで歩き出した。目的地は――二人の新居だ。
× × × ×
紆余曲折あって恋人となった二人は、紆余曲折を経て晴れて同居することとなった。大学へ進学する春のことだ。
ガチャリ。司が鍵を回すと廊下に金属音が響く。
「開けるぞ」
緊張した面持ちの司に苦笑しながら類は頷く。もう何度も下見に来ただろうに。
「ここが今日からオレたちの家だ!」
司は玄関に入ると振り返って嬉しそうに宣言した。広げた両手は狭い玄関を容易に塞いでしまう。
「ほら、早く上がって。それじゃあ僕が入れないよ」
「む、すまん」
いそいそと靴を揃えて脱ぎ、司は廊下へ進んだ。バタンと類が玄関のドアを閉める。
「司くん」
司は室内をキョロキョロと見回していた視線を類へ向ける。
「ただいま」
「……!」
瞳が溢れんばかりに目を見開くと、司はそのまま類へ飛びついた。もうほぼタックルだ。
「おかえり! 類!」
「ふふふ。苦しいよ司くん」
骨が軋まんばかりに抱きしめられながら、類は司を抱きしめ返す。
ひとしきり喜びを噛み締めると類はぽんぽんと司の背を叩いて口を開いた。
「さあ、荷物が届く前に掃除をしてしまおう」
「ああ!」
午後からは家電やそれぞれの家から発送した荷物が届く予定だ。それまでに掃除をしてしまおうと、二人は動き出した。
リビングとそれぞれの部屋。それに申し訳程度のキッチンと風呂とトイレ。特別広くは無いが、防音だけはしっかりしている。それが二人の家だ。
二人は手分けして家中を掃除した。一区切りしたところでインターホンが来客を知らせた。
「天馬司さんですか?」
引っ越し業者だ。数人で訪れた彼らはてきぱきと荷物を運び込んでいく。段ボール箱がいくつかと、ベッド、デスク、洋服棚。薄い長方形は姿見だろうか。類は司の部屋へ消えていく荷物をなんとなく眺めていた。
すると、再びインターホンが鳴る。引っ越し業者を部屋に招いている司に変わって類が玄関へ向かった。
「天馬司さんのお宅ですか?」
引っ越し業者とはまた別の運送業者だった。類はちょっとお待ちくださいと言うと司を呼びに行く。
「届いたか!」
司は目を輝かせて玄関へ消えていく。入れ替わるように運送業者が長方形の箱を司の部屋へ運び込む。類は何が届いたのか気になったが、自身が依頼した引っ越し業者からの電話に遮られ、確認することはできなかった。
司の元に訪れていた業者たちが帰ると同時に、類の荷物が届いた。
「……少なくないか?」
「そうかい? 単身者用の引っ越し荷物なんてこんなものじゃないかな」
家具は改めて買いに行くし。片手で足りる段ボール箱と簀巻きにされた布団。それが類の荷物だった。
「別に実家も遠くないし。必要なものがあれば取りに行けばいいさ」
「まあ……確かにそうか」
納得した返事にギュルルルという音が重なった。類の腹の虫だ。
「昼食を取り損ねていたからな」
オレも食事がしたい。司はスマホに視線をやりながら腹の虫に返事をした。カーテンが取り付けられていない窓からは茜に染まった空が見える。
リビングには司の部屋に入りきらなかった荷物が置いてある。逆にそれ以外はまだなにも無い。類は少し照れたように眉を下げて「外へ食べに行こうか」と司の服の裾を引いた。
カチャンと金属音が響く。類が鍵を閉めた音だ。
「何が食べたい?」
歩き始めた司が問いかける。類はそうだなと呟くと下見のときに確認した近所の飲食店たちを思い出す。
「チェーンのファミレスがあっただろう? あそこにしよう」
「む、記念すべき最初の食事がそれでいいのか?」
「祝杯ならきちんと片付いてから、家でゆっくり食べたいと思ってね。――それに」
確かにと相づちを打ちながら類に続きを促す司。
「あのファミレスなら野菜のないメニューが分かるからね」
「お前なぁ……」
肩を竦めてみせる筋金入りの野菜嫌いに、司は溜息しか出なかった。
× × × ×
帰宅すると二人はそれぞれ部屋の片付けに精を出した。交代で風呂に入った後、夜遅くまでそれは続いた。
と言っても、家具を持ち込まなかった類は早々に片付けを諦め、次のショーに向けて演出を練っている。まっさらな床に、みっちりとアイデアをかき込んだコピー用紙が散らばっていく。
「るい~~~~~~」
時間を忘れて作業をしていると、パジャマ姿の司が半泣きで訪ねてきた。類は驚いて駆け寄ると、どうしたんだいと聞き返す。
「今夜、お前の布団で眠らせて貰えないだろうか……」
「いいけど……準備していないから待ってもらえるかい?」
「へ?」
類の回答に数度瞬きをすると、司は一気に顔を赤くして否定した。
「違う! その、そういう意味ではなくてだな! いや嫌だというわけではなくて!」
わたわたと両手を振り回す司。でも今日は疲れているだろうと更に言い募る。
「じゃあ一体どうしたんだい? 初めての同棲でてっきりテンションが上がってしまったのかと……」
「……布団がだな、無くて」
「へ?」
今度は類が瞬きを繰り返した。
「見れば分かる」
司は類の手を引いて自分の部屋へ連れて行った。片付け終わった段ボール箱が潰されて隅に置いてある。デスクの上にはいくつかの本と電気スタンドが並んでいる。窓にもカーテンがきちんと取り付けられている。そしてそのすぐ側にベッド。
「ああ、なるほど」
ベッドフレームだけが鎮座していた。どうやらマットレスや寝具一式を忘れたらしい。
「申し訳ないが、一晩布団に入れて貰えないだろうか……」
頼むと司は両手を顔の前で合わせ、類に頼み込む。
「うーん、そうだな……」
当然、類に断る気など無かった。しかし類もベッドは後日買う予定だったので、持ち込んだのは類一人寝るのがやっとな標準サイズの布団だ。二人で寝るには些か、いや、かなり狭いだろう。そもそも引っ越し荷物を相談したときに、その晩いるものは最低限持ち込もうと話していたのだ。明らかに司の過失だ。だから、司も半泣きになっているのだろうが。
類はぐるりと司の部屋を眺める。その一角に黒い長方形があった。丁度、別の運送業者が持ち込んだ箱の大きさと同じくらいだろうか。
「あれは?」
「ん? ああ、両親からの進学祝い兼引っ越し祝いでな。電子ピアノだ」
司が黒い蓋を持ち上げるとピカピカと光る八十八の鍵盤が姿を現した。司は穏やかな表情でポーンと一つ音を鳴らした。類はそれを眩しそうに眺めると口を開いた。
「明日、僕のために一曲弾いてくれるなら、一緒に寝てもいいよ」
「本当か 一曲といわずいくらでも演奏するぞ!」
顔を輝かせて司は類を振り返る。
「明日の内に寝具を買わなきゃならないだろう。だから一曲。選曲は君に任せるよ」
「任せろ!」
みっしりと、布団に詰まっていた。
「すまん……本当に……」
司は布団から片腕片足をはみ出させながら謝罪を口にした。
「いや、君を招いたらどうなるかは分かっていたからね。別に謝る必要はないさ」
類は両足を布団から突きだしたまま答える。
「でも、もう少しこう……なんとかならないだろうか……」
三月の夜はまだまだ冷える。自分は自業自得だが、類が風邪を引いてしまっては合わせる顔が無い。
「――我慢、できるかい?」
もぞもぞと試行錯誤する司に類が問う。司はオレが悪いのだから全然大丈夫だと類の方をよく見ないまま答えた。類の顔は珍しく『照れ』を示していたが、司は気付かなかった。
「うおっ……」
司は急に体を引っ張られた。ほどよい弾力と心地よい温もりが触れあった箇所から伝わってくる。
「え? 類?」
状況が飲み込めずにいるうちに、司はすっぽりと類の腕の中に収まった。足もしっかりと類の長いものが絡みついている。端的に言えば、類の抱き枕と化していた。
「これならまだマシだろう?」
類が掛布を引っ張り上げて二人を包み込む。
「いや、確かにマシではあるが……」
司は顔を真っ赤にしながら類の腕の中で焦る。マシではあるが、近い。体温も、匂いも、全部が。
「照れているのかい? もっとすごいこともしたことあるじゃないか」
「それはそうだが……!」
今日は、同棲一日目なのだ。ここは、自分たちだけの家で。やはりそう言ったことがしたいのでは? でも我慢できるかと言われて?
目を回してしまっていた司だったが、類の胸からトクトクトクトクと駆け足な音が鳴っていることに気付いた。
「類、お前も、」
「みなまで言わないでくれるかい?」
「うぶ」
類は力任せに司の頭部を胸にしまい込んだ。司はクスクスと笑いながら類の背中に腕を回す。
「すまない。いや……ありがとう、類」
「どういたしまして。ピアノ、楽しみにしているよ」
「最高の演奏を披露しよう」
「ふふ。ふわぁ……じゃあ、寝ようか」
類が抱きしめた司の頭に顔を寄せる。
「おやすみ、司くん」
「おやすみ、類」
同棲最初の夜。二人は互いの温もりを感じながら眠りについた。
翌日、防音のしっかりした部屋で、類は司の演奏を独り占めしたのだった。