ある男の話 近頃気付けば溜息ばかりついている。
無自覚に行っていたその行為に、先日同僚から指摘をされてやっと自分が溜息ばかりついていることに気付いた。
そうか、自分はモヤモヤとしている。そのモヤモヤが口から知らず知らずの内に漏れ出していたのだな。そう思うと小さじ一つ分位には心のモヤが晴れた。
「女か? 女だろう?」
暇潰しの恰好の獲物を見つけたとばかりに、にやにやしながら絡んでくる同僚に嫌気がさしながらも、酒を奢ってやるから聞かせろよと言われれば素直について行く自分はまだ正常だ。そう思う。
「好きな女でも出来たのか」
「いや、そんなんではないけど」
そんなものではない、と思う。
「まぁまぁ」
何がまぁまぁなのか分からないが。
「で、どうなんだ? 綺麗系か? 可愛い系か?」
こっちの意図なんて関係ないとばかり次の質問が投げられる。席に着いた途端まずは仕事の愚痴から始まり、プンスカと紅潮させながら膨らませていた頬は今では違う意味で赤く染まっていた。この会話も明日になれば忘れているんじゃないか。自分も奢りの酒を無駄にする訳はいかないのでまた一口、二口と喉に流し込む。
「綺麗だとか可愛いだとか、そんな言葉で括れるものではないよ……けど綺麗……いや、可愛いかな……そのどっちもかもしれない、いやどっちもだ」
顔は一目しか見たことがなかった。ある日の警備の任に当たっていた時に、一目だけ。けれどその一目だけの顔が頭から離れず、忘れられない。もしかしたら頭の中でかなり美化してしまっているのかもしれない。美化しているのだとしたら、それはそれで良かった。それは正常だと思う。
「おいおい、そんな女がいるなら俺にも会わせてくれよ」
すっかり上機嫌になってげらげらと笑いながらそう言う。
「会えるものなら……会いたいさ……」
「ん? なんだなんだあ、会いに行きゃいいじゃないか」
「会いになんて行ける訳ないだろ」
向こうの軽口に対抗するように自分の声は少し荒くなった。なんだかんだ自分も酔いが回ってきているらしい。
「お前それはお前の努力が足りねぇんだ。お前はいつもここぞって所で竦んじまうからよお」
酔っ払いの言葉を真に受ける訳にはいかない。
「好きな女に会いに行く位出来なくてどうするんだあ」
「だから、好きとかそういうじゃなくて!」
そもそも女ではなくて、そもそも人ではなくて。
「分からないんだよ! これが何なのか!」
これが何なのか分からない。
自分の言葉を受けて相手は一際大きく笑った。
「だったら猶更会いに行って確かめなくちゃ駄目だろう」
酔っ払いの言葉を真に受ける訳にはいかない。
「いい加減お前の溜息にも飽きてきたからなあ」
「ああ、そうかよ! じゃあすっきりさせてくるさ。溜息、悪かったな!」
酔っ払いの言葉を真に受けた訳じゃない。ただ売られた喧嘩を買っただけだ。自分もすっかり酔いが回っていた。
けれど本当に、このモヤモヤとする胸の内をすっきりとさせたい。
出来るならもう一度だけ、あの子に会いたい。
もう一度会ったら、これが何なのか分かるはず。
ああもう、自分はもう正常じゃないのかもしれない。
仙人に、しかも男の仙人に、恋をしているかもしれないだなんて、正常じゃない。
いやいや、そんな訳があるはずない。
それを確かめる。そうそれを確かめるだけだ。
その為にだけ、もう一度だけ、会いたい。
それ以外の動機なんて、ないからな。そう自分に言い聞かせた。まだ正常だろう。
「帰離原の仙人? ああ、望舒旅館に行けば会えるって聞いたことがあるな」
「本当か!」
職務の合間、同僚たちにそれとなく探りを入れていると、何人目がそう教えてくれた。望舒旅館といえば七星の管理下にあるとも聞いたことがある。自分のような下っ端では噂程度だったが、もしかしたら事実であるのかもしれない。
「仙人にでも会って願い事でもするのか?」
「馬鹿言うな」
「まぁその仙人はそういう仙人じゃないらしいから、願っても無駄だろうけど」
その物言いに何故か腹の虫が微かに喚く。
「そういう仙人だとかじゃないかとか、そんなのは関係ない」
結果、語気が強くなってしまった。
「何をムキになってるんだ?」
確かに何をムキになっているんだろう。顔しか知らないあの子をまるで擁護しているように思えて一瞬言葉に詰まる。そして腹の虫を黙らせた。自分が怒ることじゃない、きっと腹が減っていたんだ。きっとそう。ああ、自分は怒ったのか、少し遅れて自覚する。
「いや、ありがとう、助かった」
へらへらと笑ってバランスを取った。そしてこれ以上の追及を受け付けぬようにそのままその場を離れる。
望舒旅館か。次にその辺りの警備に回された時にでも一度行ってみようか。それとも次の休みでも一般客のように利用してみようか。そして瞬時に自分の財布事情と相談をし、やはり出来れば次の警備の時が良いなと結論を出す。
そして運よくそれ程日を開けずに望舒旅館近くの警備の任が回ってきた。以前、あの子を見た時と一緒の駐在所だった。それに運命めいたものを感じてしまうのは愚かだろう。愚かだろうが、それでも自分の胸は高鳴る。いやいやそう、やっとこれですっきり出来るからだ。溜息に飽きたと言ったあいつにもガツンと言ってやれる。実際会ってみたら大した子ではなかったと。
そしてその日がやってきて、自分は意気揚々とその任に当たっていた。
「ちょっとあっちの方を少し見てくる」
本来駐在所から離れて警備する必要もなかったが、どうにも望舒旅館が気になる自分はそちらを指さして見せた。一緒に警備する者は特に気にする風でもなく「気を付けてな」とそれだけ言って自分が指差した方向とは逆の方向に目を光らせる。
一先ず旅館に行って本当に会えるのか聞いてみようか。それですぐに教えてくれるだろうか。それとも自分が千岩軍であることをアピールして尤もらしく聞いてみようか。それともそれとも、嘘の用件でもでっち上げて緊急性のあるようにして聞いてみるのはどうだろう。いやしかし、そんなことをして万が一にでも上層部に知れたら減給どころでは済まないかもしれない。そんなことをああでもないこうでもないと考えていた。
そしてそんな思考を濁った奇声を邪魔される。
我に返った時にはもうヒルチャールに囲まれていた。なんてことだ。
「ひい」
急いで槍を構えようとするが、その前に槍を弾き落とされる。丸腰になってしまった自分の体は、もう一度大きな奇声を浴びせられ、いとも簡単に尻餅をついた。両手を頭の上に掲げるようにして反射的に頭を守る。
死ぬ、死んでしまう、ここで死んでしまう。
神様、帝君様、助けて下さい。ああ、帝君はもう居ない。
「仙人様、お助け下さい!」
哀れにも地面に向かってそう助けを乞う。
そして自分の頭の上で金属が大きくぶつかり合う音がする。
自分の頭にぶつかったにしては、自分の頭は痛くない。恐る恐る指の間から自分の頭上を確認すると、自分のではない槍がヒルチャールの攻撃を防いでいた。
そこからは見るも止まらぬ速さで自分の周りのヒルチャール達はバタバタと倒れていった。まるで風が草を薙ぎ払う様に、倒れていく。
「貴様……死にたいのか」
全て静かになった頃、そう声をかけられる。いや、声はかけられていないのかもしれない。ただそう零す声が聞こえる。軍人の身なりをしながらも頭を抱えているだけでいた自分に対しての感想かもしれない。
「仙人様!」
その姿を確認すれば、いつか見たあの仙人だった。小柄な体に緑の髪、腰から伸びる布がひらひらと風に舞う。
「あ」
自分は今この仙人に助けられたのか。なんてことだ。これは運命だろう。運命に違いない。
「ありがとうございます!」
「礼など要らぬ」
そして一向に立ち上がろうとしない自分を訝しげに一瞥する。
「あの、腰が抜けて……」
恥ずかしい。なんて恥ずかしいんだ。
呆れたように息を吐かれ、一層羞恥で顔が熱くなった。最悪の印象のままこの子に去って行かれてしまう。そう頭の中で後悔の念を渦巻かせていると自分の体がふわりと宙を浮いた。
「え? ええ?」
自分はこの子供のような仙人に片手で担がれていた。そういえば前に会った時もこの子はこうして倒れた大人の男たちを担いでいた気がした。あの時は妙にこの子の存在感は薄く、気付いたら作業は終わっていたという状況ではあったが。
「お前の仲間が居る所まで運ぶ。黙っていろ」
「は、はい」
そう答えるのを待つこともなく、周りの景色は一気に変わり、次の瞬間には自分は駐在所まで舞い戻っていた。そしてぞんざいに降ろされるかと思えば、とても静かにその場に降ろされる。見上げると仙人の顔があった。大きな目、赤い化粧が眩しい。もう一度お礼を言おうと「あ」の形に口を整える頃には仙人は消えていた。
「あれ、お前いつの間に帰ってきたんだ?」
自分の存在に気付いた同僚にそう声をかけられる。
「あ……いまさっき」
こうしてもう一度会う事が叶った。
自分の中で美化しているかもだって?
実際会ったら大したことはないかもだって?
そのどちらも微塵に砕かれ、風に舞って消えていく。
あの仙人が自分の世界で絶世の存在であることが証明されただけだった。
そうして自分の心は完全に奪われていた。
ああ、自分は正常じゃない。
これは恋だ。きっと恋だ。もう頭からあの子が離れない。どうか恋だと呼ばせて欲しい。
そして最早待ちきれず、次の日には望舒旅館へ足を運んだ。何でもいいからあの子へ繋がる情報が欲しい。またもう一目だけでも見たい。きっともう一目見たら、あともう一目見たいと自分は願うだろうが。
「あの、上の人と話したいのだが、どこにいるのだろうか」
自分が千岩軍であることは姿を見れば一目瞭然であるはずだから、特に余計な説明は付け加えずそれだけを言った。
「ああ、上の人なら、上にいますよ」
そんなちぐはぐな会話をしながら、エレベーターに案内されたのでそれに乗った。そして建物内のカウンターに何かしら役職を持っていそうな女が居たので近寄っていく。
「ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
そう切り出した声は少し上擦っており、自分が緊張していることは容易く伝わってしまっただろう。
「はい、何か?」
その声色からまだ不審がっている様子もない。また自分が軍の人間であることは明白な為、客に向ける声とも違う。ただただフラットだ。
「あの、こちらに仙人が立ち寄られると聞いたんですが、その……少年のような仙人なんですけど」
どう考えても不審と思われるようなことを言ってしまった。しかしもう言ってしまったら引き下がれはしない。
「……どういった意図でしょうか」
まだ女はフラットでいてくれている。
「昨日、魔物に襲われている所を助けてもらって、それでお礼を言いたくて」
これは本当のことだ。これは全く嘘ではないし、不審でもない。軍人である自分が助けてもらっていること以外は何ら違和感はない、はずだ。
「そうでしたか」
自分の答えに女はそう言いながら笑って応えた。
「しかし、そう言ったことをあまり求めてはおられない方ですので、お気遣いは不要です。仙人が守ったそのお体、これからも大事にしていただければそれだけで、あの方は喜ばれると思いますよ」
「け、けど、一目会ってお礼を言いたいんだ」
思わず声を大きくしてしまった。瞬間、女の顔は少し険しくなる。
「他のお客様が驚かれますので、あまり大きな声を出さないで下さい」
「だけど!」
一歩カウンターに近付き、食い下がるように言葉を続けようとすると、後ろから別の声が割って入る。
「何か問題でも?」
振り返ると、見たことがある姿が立っていた。以前あの仙人を初めて見た時に一緒にいた鍾離と言う男だ。
「いえ、問題という程では……」
女が自分を飛ばして鍾離に応えるとまた新しい人影が増える。
「鍾離様」
あの子だ。あの仙人だ。何故今ここに現れる。何故鍾離を様付けで呼ぶ。何故。何故。何故。混乱している中で、ちらりと旅館の女を見てみると、何ら驚いている様子もなくこの状況を受け入れている。そして鍾離は全く動じてすらいない。今ここで付いていけていないのは自分だけのようだ。一体どういうことだ、誰か説明してくれ。
「如何なされたのですか。何か問題がありましたか」
何故仙人がその男に対して謙るような態度をとるのだろう。そしてそう言ってからちらりと旅館の女へも視線を向ける。女は僅かに首を振って応えていた。
皆、口々に問題問題と、その問題というのは自分のことか。
その自分の嵐のような心の内とは逆に鍾離は実に穏やかな顔をして、その仙人に顔を向ける。
「たまにはこちらの景色を楽しもうかと足を運んだ。丁度いい、お前も少し一緒にどうだろうか」
問題は何処に行った。
「少しであれば……」
この状況は何だ。
「オーナー、一部屋いいだろうか」
そう言って旅館の女へ声をかける。
「はい、勿論です」
さっき自分に向けた顔とは全く違う顔をしていた。
「しょ……お前は先に。俺はこの方にまだ用がある」
そう鍾離に言われ、仙人は声を発さずに頭を僅かに垂れて応えていた。素直だ。
あと今、何を言いかけたのだろうか。自分に聞かれたくないことだろうか、それは考えすぎか。
そのまま仙人は奥へと消えていった。すっかり姿が見えなくなると残された鍾離はこちらへ視線を向け、そしてちらりと女を見る。
「それでオーナー、この御仁は?」
「いえ、その……」
「先ほどの仙人殿にお目通りを願いたいのだが」
慣れない言葉に舌を噛みそうだ。
自分の言葉に鍾離は一瞬に口角を上げて笑ったかと思ったが、気のせいかもしれない。
「ああ、貴殿にはお会いしたことがある。以前駐在所では大変お世話になった」
自分も忘れもしない。以前の印象から仙人の伝言役でもしているのかと思っていたが、先ほどの様子を見るにそんな浅いものではないのかもしれない。最初に会った時も底知れぬ男と思ったが、今は更にその印象が強くなった。
「なるほど。しかし、それはならない」
「なっ」
何の議論の余地もなく、あっという間に自分の申請は却下された。それも気持ちが良い程に。
「彼は高尚な仙人だ。あまり凡人が近づいてはならない」
言われた瞬間自分の中でモヤモヤが爆発しそうになった。いや、した。アンタも凡人だろう、そう言いたかった。けれどこの鍾離の圧の前ではそう頭の中に浮かんでも、口から飛び出すことはなかった。しかし何か言わなければ。
「じゃあ、何故アン……あなたは一緒に……」
苦し紛れに言い返しては見たものの、最後まで言い切ることが出来ない。やはりここぞという所で竦んでしまうのか。視線だけは外すまいと鍾離の目を見続けた。吸い込まれそうな目だ。きっと今の自分はどこぞの蛙のように萎縮しているだろう。
「確かに貴殿の言う通りだな。しかしそうだな……」
鍾離はそこで一度言葉を切る。
「俺は特別好かれているから許されているのだろう」
「は?」
特別好かれているという言葉が頭の中で繰り返し再生される。
そうして呆然としていると、旅館の女が堪らずといった感じで笑い声を漏らす。聞こえているぞ、女。俺はからかわれているのだろうか。鍾離を見れば実に涼しい顔をしている。目には何のからかいの色もない。本気だろうか。
「鍾離様、その……どうぞお部屋へ。あとでお茶をお持ちいたします」
女は助け舟のつもりかこちらをちらりと一瞥してから、そう鍾離を促す。
「ああ、すまない。では失礼する」
そう言って鍾離もこの場を去っていった。
残された自分はまだ茫然し、そして旅館の女はまだ笑いを堪えていた。
「ふ、二人はその……デキてるのか?」
女はとても大きく息を吐いた。
「ちょっと、そういう程度の低い言葉を吐かないで」
否定をしないということはそういう事なのだろうか。
「けど貴方のおかげでちょっと面白かったわ、ありがとう。あんな風なあの方を見れるなんて、ふふ、面白いものを見ちゃった。おめでたいわあ」
そう言って今度は堪えることもなく、とても機嫌よく笑い続ける。なんだかとても嬉しそうだ。そこまで嬉しそうにされると、自分も悪い気はしない。いや、ここで腹の虫を治める訳にはいない。
「ひどい……」
「あら、そうね。貴方には失礼だったわ、ごめんなさい」
本当に失礼と思っているのであれば、まだ笑っているその顔を少しでも同情寄りにして欲しい。いや、嘘だ。同情なんてしないでくれ。こうして笑われた方が幾分か気持ちはましになる。
「お詫びに下でご馳走するわ。遠慮なく何でも食べて」
「ふん、そうさせてもらう」
自分の財布では食べれないものを悔いなく食べてやろうじゃないか。溜息なんてつく暇もない位に。
一晩の恋なんて、一晩で忘れてみせる。きっと。多分。おそらく。
酒にまた今夜も酔う。
「くそう、何で凡人風情が仙人様にあんなに偉そうに。神様にでもなったつもりかよ、ちくしょう」
「なぁ魈、俺はお前に特別に好かれているか?」
またおかしなことを言うと魈は鍾離を横目でちらりと見る。けれどそう問われれば、自分の言葉は決まっている。
「……唯一無二に好かれています」
「そうか」
それを聞いて実に鍾離の機嫌は良くなる。
「俺もお前を唯一無二に好いている」