それは、とても小さな「何か、俺としてみたいことはないのか?」
唐突だった。鍾離に連れられて、軽策荘で筍を掘っていた時だった。無言で土から出たばかりのそれを取っては籠に入れていると、同じく筍を吟味していた鍾離に声を掛けられたのだ。
「……特には、ないです」
一秒程考えてはみたが、何と答えるのが正解かわからず、思い浮かぶものはなかった。
「ほう? 俺は、お前と筍を掘ることも、お前としたいことの一つだった」
「左様でございますか…… 」
自分と筍など、いくらでも掘れる機会はあるというのに、それが鍾離のしたいことだというのが意外だった。
「どんな些細なことでも構わないんだ。お前の好きなことを俺に共有してくれるのでもいい」
「なるほど……」
しばし思案するが、鍾離の傍にいられればそれだけで満足なので、それ以上に何かしたいということは思いつかなかった。
「俺は凡人に倣って『人生が終わるまでにお前とやりたいこと100リスト』というのを先日書いていたのだ」
「……はぁ……」
鍾離は凡人の生活をとても楽しく過ごしているのがよくわかる。魈は時代の移り変わりの差異などに無頓着だが、鍾離は流行り廃りにいちいち乗っかって楽しむ傾向があった。そして、それを魈にも共有して共に楽しもうとするところまである。
「今見せよう」
「いえ、いいです」
そんなもの見せられたらたまったものじゃない。内容を見るだけでも顔から火が出そうだが、三日と経たず全て叶えてあげてしまいそうな自分がいたからだ。
「あと90個程リストは残っている。長い人生の中で、これを消化していきたいと思ったんだ。悔いのないようにな。だから、お前も書くといい」
「善処します」
鍾離とやりたいことを100個。到底思いつきそうになかった。そもそも不敬である。
「俺と行きたい場所、食べたいもの、やりたいこと、なんでもいい。俺はお前のやりたいことを叶えてやりたい」
「もう貴方様は神ではないのですから、我の願いなど叶えなくても良いのではないのでしょうか」
「これは神としてではない、お前を好いているからこそだな」
「なっ!? ぅう……」
かっと顔に熱が籠る。魈とて、鍾離のことを好いていることには違いない。先日この『好いている』ことの意味が同じなのだと知ってしまったのだ。
「考えて、おきます……」
「特に俺に見せなくてもいい。お前の小さな幸せを、俺にも分けて欲しい」
例えば、今こうしてお傍にいることで、既に幸せなのですが。
なんとも平和ボケしていると思う。土をいじりながら筍を掘る鍾離は、実に楽しそうだった。
♪
それが己に課せられた使命ならば、考えない訳にはいかない。
「我の、好きなこと……」
好きも嫌いもあまりない。唯一好きなのは鍾離と杏仁豆腐くらいなものだろうか。鍾離に共有したいこともない。今日の妖魔の様子など、話したところで面白くもなんともないからだ。
鍾離に倣って筆を取り、紙を眺めて既に数刻経ってしまった。仙人が欲を持つことに後ろめたさもある。傍にいたい。手を繋いでみたい。朝起きたら挨拶がしてみたい。夜に挨拶をして眠ってみたい。そんなことを鍾離に申し出る訳にもいかず、またそのようなことを思ってしまう自分にも呆れ、少し考えてみたところで、紙を丸めて屑入れへ投げ入れた。
唸っていると、コンコン、と扉を叩く音がする。考え事に夢中で、その気配に気づいていなかった。
「鍾離様……」
「下で食事でもどうかと思ったのだが、取り込み中だったか?」
「いえ、そのようなことは……すぐ向かいます」
望舒旅館の露店に座り、鍾離が注文を頼んでいる。鍾離は毎回違うものを頼んでいるように思うが、魈の為にいつも杏仁豆腐を注文してくれる。テーブルに運ばれ、外の風を感じながら食事をするのは気持ちが良いとは思う。今日の鍾離は、ニンジンとお肉のハーブソテーを頼まれたようだった。
あまり早く食べ終わってしまうと手持ち無沙汰になってしまうと思い、レンゲに少しずつすくって口に含む。好きなものを共有して欲しい。以前そう言われたことを思い出し、口に出してみることにした。
「その、鍾離様と……共に杏仁豆腐が食べてみたい、です」
「ん?」
何の脈絡もなく、前後に説明もない。あまりに突拍子もなく口にした言葉が、じわじわと己を責める。
鍾離はフォークを持つ手を止め、目を丸くして数回パチパチと瞳を瞬かせ、魈を見ている。驚いているような気がした。杏仁豆腐を鍾離が好んでいるか否かは存じていない。海鮮系は苦手だと言っていたが、つるりとした食感の杏仁豆腐もまた同様に苦手な部類だったかもしれない。
「な! なんでもないです! 今日はこれにて失礼します」
「魈!」
空気感に耐えられなかった。自分の口からそこまで大きな声量が出るものかと思いながら、早口で捲し立て仙術を使い風の如く逃げてしまった。鍾離が自分のことを好いているからと自惚れてしまったのだ。だから、次の言葉を聞きたくなかった。しかしまだ食事途中だった鍾離を残して来てしまった。不敬だ。どうしよう。合わせる顔がない。
「鍾離様、我はどうすれば……」
行く宛もなく飛んだのだが、慶雲頂に来ていた。モラクスの七天神像を見上げ、一人嘆く。清心の花を詰んで、匂いを嗅ぎ気持ちを落ち着かせる。折角鍾離が歩み寄ってくれたのに、うまくいかない。
本当に、傍にいられれば、それだけで幸せだというのに。
♪
「魈、いるのだろう? 開けてくれ」
望舒旅館の自分が住んでいる部屋は、いつでも開いている。入ってこようと思えば、入って来れるものだ。数週間鍾離から逃げ回ってしまい、益々面映ゆくなってしまった。
ドアを開ければ鍾離がいる。会って先日のことを詫びたい気持ちと、まだ顔を合わせたくない気持ちが錯綜する。
「俺が、お前を困らせてしまったのか? ならば言って欲しい。善処する」
嗚呼、違う。鍾離を困らせたい訳ではない。自分が一人で勝手に気まずくなっているだけだ。それは伝えなければいけない。と、ドアを開けに行く。
「違うのです。鍾離様のせいでは、ありません」
久しぶりに見た鍾離の表情は、いつもと何も変わりないように見えた。
「ならば、なぜ俺を避ける?」
避けているのもバレている。ああ、情けない。
「先日は、途中で席を立ってしまい、申し訳ありませんでした」
「いや、良い。顔が見られればそれで良い」
「鍾離様……」
「息災であったか? 少し顔色が悪いように思うが」
「変わりはないです」
鍾離が頬に触れる。慈しむような目線を向けられ、己の不甲斐なさを恥じ、居た堪れなくなる。
「下で軽食でも取ろう。お前と話しがしたい」
「わかりました」
したい。と言われてしまえば、それを拒否することはできない。挽回のチャンスかもしれないと、鍾離の後をついて行った。
「杏仁豆腐を二つ頼む」
鍾離が注文していたのは、杏仁豆腐だけであった。聞き間違いであっただろうかと思っていたが、運ばれてきたのは間違いなく杏仁豆腐が二つだけであり、鍾離と魈の前に一つずつ置かれた。
「鍾離様、これは……?」
「杏仁豆腐だ。お前が共に食べたいと言ったんだろう?」
「は、あっ、いえ、覚えてて、くださったの……ですか……」
「当たり前だ。これがお前が俺と一緒にやりたかったことであっているか?」
「……はい……」
「うむ。ではいただこう」
鍾離様、は、杏仁豆腐が嫌いではなかったのですか。味はどうですか。甘すぎませんか。食感は苦手ではありませんか。
何も聞けない。うんうん。と頷きながら杏仁豆腐を食べている鍾離に、何も言えなかった。
折角頼んだのだからと食べるよう促され、レンゲにすくって一口、口に入れるも味なんてわからず、喉を通っていく。鍾離を見れば、美しい所作で自分と同じ杏仁豆腐を食べている姿が目に入る。共に好物を食べるとはこのような心境なのか。目に毒だ。安易に言ってみるものではなかった。
「これで一つ叶えられたな。次は何がしたいんだ?」
「しばらくは、良いです」
一つ目のやりたいことが、あっさりと叶えられてしまった。毎日このようなことをされてしまうのならば、自分の心臓が持ちそうにない。
「そんなことを言うな。お前の憂いは晴れたか?」
「はい……」
それはもう、明日この命が尽きても良いと思えるくらいには、身に余る幸せな時間でしたよ、鍾離様。