キャンセル不可 彼女の部屋まで送る道。名残惜しい空気の中で、コーヒーでもどうか、と年下の恋人が言った。
彼女は同世代と比べれば大人びている方だけれど、彼より一回り下。彼女の過去の経歴から考えても男女交際については疎いだろうし、ましてや夜と称するような時間帯に一人暮らしの自分の部屋に男を招き入れるなど褒められた行いではない。
しかし、彼は彼でいわゆる普通の恋人ではなく、なかなか彼女との時間を作れない忙しい人間だった。一月いや二月に一度、外で夕食を共にするくらい。付き合ってからそこそこ日が経過しているものの、二人は交際しはじめたばかりの初々しさを残したままだ。
普通の恋人同士を知らない彼女でも、さすがにもう少し相手と一緒に過ごす時間が欲しいようであるし、その気持ちは彼も同じだ。彼女が彼を全面的に信頼していることも、このお招きに裏がないこともわかっている。それはそれでお邪魔した後に葛藤することになるだろうけれど、それはさておき彼は二つ返事で頷いた。彼女はほっとした様子で微笑む。二人は車を降りて、部屋までの階段を一緒に上がり始めた。
「はい」
彼女がマグカップを小さなテーブルに置く。それはいわゆるお揃いの色ちがい。彼女は一人暮らしを始めて日が浅く、以前、初めてこの部屋に寄ったときには不揃いの湯呑みでお茶を飲んでいたことを思い出す。彼がしげしげと眺めていると、彼女は慌てて自分のコーヒーに口をつけ、熱っ、と顔をしかめていた。
「新しく買ったの?」
何を動揺しているのやら。笑いを堪えながら尋ねると、彼女はむっとした表情でそっぽを向いてしまった。カップを探す彼女を思い浮かべる。彼をこの部屋に招こうと準備する彼女がかわいい。そして準備していたことを隠そうとする彼女もかわいい。
「大丈夫?」
彼女は黙ってこくりと頷いた。それでも彼の方を向こうとはしない。むくむくと悪戯心が膨らんでいく。
「志保さん、こっち向いて」
「………今はダメ」
「何で」
「何でも」
広くはないラグマットの上。彼女のそばに進み出れば、標的に逃げ道はない。これはこれで好都合。顔を覗き込めば、むう、と膨れ面をした彼女と目が合う。
「何よ…言いたいことがあるなら言えば」
かわいい。すき。語彙を喪失した感情が頭の中に溢れる。もて余している気持ちを落ち着かせる手段としては正解でもあり悪手でもある提案をする。
「じゃあ…キスしてもいい?」
彼女の頬に手を添えて、親指を唇に押し当てる。脈略のない唐突な提案に、ぼっと音を立てて彼女が固まった。
彼女はしばらくの沈黙の後、口をうんと動かした。恥ずかしそうに瞳を潤ませている。
承諾を得た彼は素直に顔を綻ばせる。彼女の持っていたカップを取り上げてテーブルに戻す。それを見守っていた彼女がおずおずと目を閉じるので、それだけでたまらない。ガツガツしないように気を付けて、できるだけ紳士的に近付けていく。手をそっと握り、髪を撫でる。怖がらせないように、優しく。
二人の関係はまだキス程度。愛しい人と繋がりたい気持ちはあるものの、何せ彼女は初体験だろうから、とにかく大切にしてあげたい。つい際どいところに触れてみたりだとか、舌を入れてみたりだとか、それくらいはたまにしてしまうものの、本番ではきっと痛みを感じるだろうから。せめて彼女が幸せで幸せでたまらなくなるような、そんな夢見るシチュエーションをプレゼントしてあげたいと思っている。相当なロマンチストに見えるかもしれないが、それだけこの年下の彼女に骨抜きなのである。
「……ん」
柔らかな感触と鼻から抜けるような声に、今日も今日とて煩悩との戦いを覚悟する。髪を撫でていた手をゆっくりと背中に下ろしていく。もっとぴったりと近づきたくて、ぐっと引き寄せた。
彼女の手が彼の腕にそっと添えられる。チリッと何かに掻き立てられ、薄く開いている唇の隙間から舌を滑り込ませる。彼女が薄目をうっすら開けて、彼の様子を伺ったのがわかったけれど、彼女はまたすぐにきゅっと目をつぶる。そう、全てこちらに任せておけばいい。呼吸しやすいようにずらしてやれば、彼女がかわいらしい吐息をこぼす。
「ん…ふ、」
ぴちゃ、と濡れた音が脳天に響く。もっと深いところに行きたくて、奥に奥にとねじ込んでいく。彼女の味を堪能する。ぴったりとくっついた身体の感触。お互いの衣服が触れあう衣擦れの音。邪魔なそれを取っ払ってしまいたいけれど、さすがに許されない。
そろそろ限界かな、とゆっくりと引き下がれば、ちょうど彼女の身体から力が抜けていく。銀色の糸が伸び、それを掠めとるように、ちゅっ、と最後にバードキスをひとつ。
目を開けた彼女はぼうっとしているけれど、すぐに我に返って俯く。キスした後、いつも彼女はこうやって顔を隠そうとするのだ。曰く、変な顔をしていそうだから、とのこと。とろとろに蕩けきった彼女の顔を隠されてしまうのは残念だが、彼はちゃんとキスの最中に彼女の表情を記憶に刻みつけていたりいなかったり。彼女のささやかな抵抗など、あってないようなものだ。
「志保さん」
「………何」
「今度。……うちに泊まりにおいで」
「え…?」
彼女が思わず顔を上げる。
「君の都合のいいときでいいから」
繋がったままの手を持ち上げて、その甲にキスをする。思わせぶりに上目遣いを送れば、彼女は不安と期待が入り交じったような顔を浮かべた。
いくら恋愛経験が乏しいとは言えど、恋人の家に泊まるともなれば彼女だって何が起きるかわかるだろう。
「……………」
しばらくの沈黙の後、彼女が小さく頷いた。外には出さないけれど、彼は大きく安堵する。そわそわと落ち着かない彼女に嬉しいと伝えたくて、目蓋にキスを落とす。握ったままの手に力を込めた。
ほわっと頬を染めた彼女がそそくさと彼から距離を取ろうとする。またしても顔を隠してしまう。恥ずかしいのはわかるけれど、もう少しこちらの気持ちもわかって欲しい。彼女がもじもじする度にいじめたくなってしまう衝動を抑えるのは、そこそこの重労働だ。
「志保さん」
「…何でもない。あなたはいいわよね」
ふん、とツンツンした態度で彼女が言う。
「……私ばっかり『初めて』で。ドキドキしてばっかり」
唇を尖らせて、そんなことを言う。顔を背けているけれど、髪から覗く耳も赤い。もちろん彼と彼女では経験値に差がある。あるけれど、むっとしてしまう。初めてじゃなかったら、ドキドキしないとでもいうのだろうか。
彼はむくむくと広がる苛立ちのまま、彼女のシャツの襟に手を伸ばした。彼女の服のボタンを一つだけ外す。白い肌に指を這わせながら、驚いた彼女の身体を床に押し付ける。
「君は。他の誰かに『初めて』をあげたかったの?」
「……っ、」
僕以外の、と。小さく告げる。言っただけで、心の中に真っ黒なものが広がっていく。彼女が息を飲んだ。
怖がらせているなとはわかっているし、そのときの彼には幾分か余裕があった。だが、好きな女性を前にして「待て」をしている自分の必死さを少しはわかって欲しい。ちょっとは懲りてほしいと、正当化させる。
だが、押し倒された彼女がぽっと頬を染めて、目を逸らした。
睫毛が小刻みに揺れる。まるでその仕草が――期待しているように見えてしまうのは、都合の良い解釈だろうか。制止されないことをいいことに、彼の手が止まること無く、意思を持ったように彼女の身体を這っていく。
か細い吐息を漏らしながらびくびくと身体を震わせる彼女に、下半身が重くなる。早くこの身体を好きなようにできる日が来ますように。もっと深いところで繋がれる日が。もっと、思う存分鳴かせることができる日が。首筋に顔を埋め、ちろ、と舌で撫でると、ひゃん、と彼女が声を上げた。
「…、ま、待って」
ようやく彼女が止めてくれたので、降谷は顔を上げることができた。志保は顔を真っ赤にさせて、潤んだ瞳で彼を見上げていた。彼は顔いっぱいに不満を表して、彼女の鼻先へちゅっとキスを落とす。
「君の『初めて』は、……全部僕が貰うからな」
心が狭いなと思うけれど仕方がない。気持ちのよいことも、痛いことも、特別な彼女だからこそ全部自分が教えてあげたいのだ。いや、知りたいだけなのかもしれない。彼女がどんな声で鳴くのか、とか。どんなところが良いのか、とか。他の男が、もしそれを知るとなれば。彼女が、そんな姿を誰かに見せているともなれば。こんなには待てないし、絶対優しくできない。
彼に離してもらえた彼女はあからさまにホッとした顔を浮かべたが、すぐにはだけた胸元に気付いてボタンを直し始める。
妙な空気になってしまったが、こちらをムキにさせてしまったのは彼女の方だ。そう自己弁護しつつ、先ほど感じた甘美な感触を脳に刻み付ける。もう少しの我慢だと、そう言い聞かせて。
起き上がった彼女が、ぷくりと頬を膨らませて彼を見ている。
「………バカ…」
「君が、変なこと言うからだろ」
「変なことを言ったのはあなたのほうじゃないの…」
顔を背けても、赤い顔は隠せない。降谷と少しずつ距離をとりながら、彼女は今度こそコーヒーに手を伸ばす。心を落ち着かせたいらしい。もうさすがに飲みやすい温度になっているだろう。
「えっち…」
男は全員そうですよ、と彼女の背中を見ながら思う。部下には絶対見せられないぶーたれた表情でいると、志保が彼をちらりと振り返った。
「そんなわけ、ないじゃない」
「え?」
「あなた以外の人に誰があげたいと思うのよ! バカ! そ、それに……――『初めて』だけじゃなく、未来永劫まで貰ってくれなきゃ嫌なんだからね!」
怒鳴るように言うと志保はカップを持ったままキッチンに走って行ってしまう。狭い部屋だから、どこに行っても逃げられやしないけれど。
降谷はしばらくぽかんと呆けていたが、やがて緩む口元を押さえながら、短い逃亡劇を始めたヒロインを追うために立ち上がった。