夏の日、残像 02 義勇いつも、暗闇の中を走っている。
追うか、追われるか。殺そうとしているのか、殺されそうになっているのか。世界はぐるぐると無意味に回る。
共に岩陰に隠れ、先ほどからヒュウヒュウと喉から息を漏らすだけになっていた仲間の隊士の首が、ガクリとのけぞった。義勇は眉をしかめ、首元を触る。脈は止まっていた。鬼の爪に深く腹を裂かれ、呼吸で傷を塞ぐこともままならず、ただ手で押さえることしかできていなかったのだから、こうなるのは分かっていた。
確か同い年と言っていたか。任務の前に交わした短い言葉からではこの男の人となりを図ることはできない。けれども、鬼狩りには珍しく快活で爽やかな話し方をしていたように思える。苦悶に顔を歪め、固く閉じられた目からは、そのような様子はもはや思い出せなかった。
十人。義勇を入れて十一人。事前に綿密に打ち合わせをし、それぞれの立ち回り方は決めていた。勝てると見込んでいた。
なのに。
まるで歯が立たないとは。
嘲笑うように次々と血鬼術の見えない爪に裂かれていく仲間たちを、義勇は見ていることしかできなかった。なんとかひとりを救って駆け、岩陰に隠れるのが精一杯で。
その彼すらも、すでに大きな傷を負っていた。彼を抱えて走った義勇の隊服もすでに血にまみれ、てらてらと鈍く光っている。
事切れた彼から目を離した途端に、ズキリと左の腿に痛みが走った。目をやると、パックリと傷が開いていた。いつのまに負ったのか、隊服を裂いて刻まれた傷から血があふれている。義勇は懐から布を取り出して傷口をしばった。ジワリと白い布に赤い血がにじむ。
辺りにざり、ざりと足を引きずるように歩く音が響いた。
「いるんだろゥ。わかってんだよ」
金属をすり合わせるような嫌な音、鬼の声だった。
「出てこいよゥ、虫ケラ。あと一匹。いるんだろゥ」
気怠さを滲ませて、鬼はヒヒッと笑った。
「ホント虫ケラだよな、お前ら。弱すぎだっつうの」
身勝手なことを大声で言いながら、だんだんと義勇が潜んでいる大岩に近づいてくる。気づかれるのも、時間の問題だった。
十人、手も足も出せずに死んだ。
どうする。このままいけば俺も同じように死ぬ。
手が勝手にガタガタと震え始める。十人が束になって敵わなかった相手に、自分ひとりで何ができるというのだろう。
錆兎。
親友の顔を心に思い浮かべる。
お前なら、どうする。お前なら…
息をしろ。
不意に、声が聞こえた。ハッと義勇は喉を押さえる。さっきから完全に息が浅くなってしまっていた。フウと長く吐く。吐いた息の半分の長さで息を吸う。繰り返し、繰り返し義勇は呼吸に集中した。
頭がだんだんと清明に澄み渡っていく。それと同時に、先程の鬼の動きが頭の中に再生された。血鬼術を繰り出す際の動作。振りが大きいのでどうしても隙が出る。それを連続して出すことで補っている。そこにつけ込めないか。
「そこ、いるんだろゥ〜」
至近で鬼の声が響いた。義勇は日輪刀の柄をグッと握りしめる。とうに足の痛みは消えていた。
◆
「ユウくん、そろそろ起きて」
部屋の外から姉の声が聞こえる。目覚めは最悪だった。動きたくなくて布団の中でもぞもぞと体を丸めて小さくなる。
またあの夢だ。今日は十人だと。なんだあのバケモノ。大量虐殺じゃないか。警察はどうなってる。
雀が鳴く声が聞こえる。そのままグズグズしていると、痺れを切らした姉が、もう!と言いながら部屋に入ってきて、カーテンを勢いよく開けた。
朝日が一斉に差し込んできて、目を刺した。仕方ない。義勇は両手で顔を覆い、ノロノロと起き上がった。
「さ、早く支度して!」
姉の蔦子が布団をまくり上げる。
「今日は試合でしょ!」
「わかってる…」
「ならしゃんと起きる!」
なんでこんなに朝から元気なんだろう。
テキパキと動く姉の背中で揺れる三つ編みを見ながら義勇は思った。
朝、は来て欲しいものだ。少なくとも夢の中の彼はいつも切望している。けれども、起き抜けはどうも血圧が低い傾向がある自分にとっては、朝とは二度寝するもの。二回目のまどろみのなかでは、もう夢なんて見なかった。
「おはよう、ユウくん」
寝ぼけ眼でリビングに行くと、新聞を広げた義兄が爽やかそのものな笑顔を向けてきた。
「…おはようございます」
ボソボソと返す。長いこと姉と二人暮らしだったので、新しい家族がいる状況にまだ慣れていない。最近姉と結婚してこの家にやって来た義兄のことは、特に嫌いではないが、姉と同じく有り余る元気を持っている人で、どうにもテンションが合わなかった。
「今日は試合だろ、きっと勝てる。がんばれ!」
そんな義勇の気持ちを察する能力を全く持ち合わせてない義兄は、謎にはりきってスポ根そのものな言葉をかけてくる。
ハイハイ、と頭の中で適当な返事を返しながら、義勇は頷いた。
試合、と言っているのは義勇が所属している少年サッカーチームの練習試合のことだ。
サッカーについて、義勇は正直そこまで情熱を燃やしているわけではなかった。
元々、姉に勧められて始めて、適当にやっていたはずなのに、いつのまにか周りが騒ぎ始めて、辞めるに辞められなくなってしまったのだ。
なので、正直なところ、試合に勝てるかどうかなんて、どうでもいい。
◆
その日は隣の市の少年サッカーチームとの試合だった。指定のグラウンドまではバスで行く予定だったけれども、グズグズしているうちに時間が足りなくなり、義兄が車で送ってくれた。応援しようかと提案されたけれども、面倒だったのでそれは丁重にお断りした。
掲示板に貼り出されたメンバー表を見る。
やはり当たり前のようにスタメンに入れられていて、義勇はため息をついた。
しかし、やるからには本気を出す。
俺は基本的に脳筋なのだ、と義勇は思う。
ホイッスルが鳴った瞬間、頭の中で目覚めるヤツがいる。そいつは獰猛で、勝つことに貪欲で、おそろしく負けず嫌い。そんな自分がいることに最初は驚いた。
あるいは、幼い頃から見ている夢の影響かも知れなかった。いつも死にものぐるいでバケモノと戦っている彼。あの姿を見ていると、サッカーでぶつかり合うことなど、子供の遊びのように思える。実際、義勇は歳の割には冷めていると思われがちな子供だった。周りの男子たちが喜んでやっているゲームや、カード集めや、プロレス遊びや、そんな年相応なことにまるで興味が持てない。それどころか、子供っぽくて嫌だとすら思っていた。そうして周りから一歩引いて、線を引くような態度を取るものだから、当然のように義勇には友達がいない。
まあどうでもいいけど。
全部遊びだ。命を賭けるほどのものではない。
結局、結論はいつもそこに行き着いた。
更衣室でユニフォームに着替えて、グラウンドに出る。
背負うのはエースナンバーだけれども、義勇に気安く声をかけるチームメイトなんて、誰一人としていない。
いつものことだ。
そう思いながら挨拶のためにセンターサークルに並んだ時、義勇の目は相手チームのひとりの男子をとらえた。
ハデ。
まず第一印象がそれだった。背が高い。小六とは思えないくらい体格がいい。そして、髪が赤い。それは彼のチームのオレンジのユニフォームに映えてワサワサと揺れている。
そして、それ以上に。
……サビト?
似ていた。あまりにも似ていた。
夢の中の彼がいつも窮地に陥るたびに、心を奮い立たせるために思い浮かべる『サビト』に。
サビトは彼が心から尊敬する男だった。いつも、サビトならどうするか、からの思索で、バケモノを倒すヒントを得るのだ。
その、理想の男。
目の前に立っている男は、そのサビトにまるで瓜二つだった。
義勇は驚いて思わずまじまじと見つめてしまった。夢の中の人間が、実在するものとは思っていなかった。
相手も義勇の視線に気付いたようで、戸惑いながら視線を返してきた。
ヤバい。
義勇はとっさに視線を外した。ぶしつけな人間だと思われたくなかった。
視線を外したことで義勇は冷静さを取り戻した。
そうだ、そんなはずはない。あれは夢だし、ただの他人の空似だ。
そう無理やり頭を納得させてしまえば、後は造作もなかった。ただの敵だ。倒されるために俺の前に現れた、ただの。
試合開始のホイッスルが鳴る。
さあ、狩りの時間だ。
義勇の中の獰猛な獣が、鬨の声を上げた。
◆
相変わらず周りはトロくさかった。試合の間はただひたすらに、苛つきしかない。
なぜ俺のパスを受け損ねる?
なぜあの場面でボールを取られる?
なぜあそこで簡単に突破される?
いっそ一人でやれるスポーツに転向したほうが良いのでは、とさえ思う。けれどもサッカーはチームプレーを重視する。なによりも、一番に協調性が求められるスポーツだ。
協調性。
それは、義勇にもっとも縁遠い言葉だった。
その証拠に、またひとりで弁当を食べている。
周りのチームメイトがいかにも遠巻きにしている様子を横目で見ると、さすがに試合中怒鳴りすぎたかも、と思わなくもなかった。試合の間はずっと心拍数を上げていることもあり、心がたかぶりむやみやたらと攻撃的、平たく言えば苛つきがちだ。そのせいか、周りから見るとイタイくらいにエキサイトしているアホに見えているのかもしれない。
まあ仕方ない。
義勇からすると、周りこそ勝ちたいという気持ちに欠ける軟弱者に見えていた。執念が足りないんだよ、と批判めいたことを思いながら飯を摘んで口の中に突っ込んだそのとき、サッと頭の上に影が落ちた。
「よお、おつかれさん」
それは先ほどの試合相手のチームのエース、ミスを連発して前半終了と同時に下げられた男だった。
ミスこそ多かったがワントップとして攻守共に優秀、チームの主柱となるようなフォワード。そんな印象だった。コイツがいなくなったおかげで後半は楽ができた。下げた相手チームの監督は、つくづく無能だと思ったものだ。
彼は赤い髪を日に透かせ、ニコニコと微笑んでいた。その笑顔の質は姉や義兄を彷彿させるものだ。家族に向けるような、気安い笑顔。決して今日初対面の相手に向けるものではないだろう。
なぜ?
義勇は無言でその男を見上げた。
愛想笑いではない、本物の善い人間の笑顔だ。
でも、どうせうわべだけだろう。
義勇はもぐもぐと飯を噛み、ゴクリと飲み込んだ。
「いかない」
これで大概の人間は諦めてくれる。あ、悪かったな、とか何とか言いながら、きまり悪そうな顔をしていなくなるのだ。
けれども、彼はそうではなかった。
「まあそんな堅いこと言わずにさ」
なぜか、少しも諦める様子はない。
義勇は彼の顔を見上げた。彼は、角度によっては紫に見える不思議な瞳の持ち主だった。笑ったことで細めた目をパッと開くたびに、キラキラと光を帯びてきらめく。
コイツ、本当にサビトなんだろうか。
義勇はふと疑問に思った。それはさっき頭の中では否定したことだったけれども、こうしてまた近くで見ると、どうにも似ているように思える。
そしてそのうち彼は、ガリガリ君がどうとか、という話をしはじめた。
面白い。
ガリガリ君に乗じて、ついて行ってもいいかもしれない。
顔は相変わらず無表情だったけれども、義勇は心の中で密かに笑みを浮かべた。
そのあと、なんだか久しぶりに、心地よい、ワクワクする気持ちが湧いてきたことに、心底驚いたのだった。