夏の日、残像 08 錆兎「どこだよ、ここ」
「うん、遠く?」
その駅で降りたのは、俺たち二人だけだった。山の中のさびしい駅だ。一本の線路を挟んで、左右に乗り場があり、上りと下りの間には階段があった。明かりも最低限しかなく、周りは真っ暗で、生い茂っている木のシルエットがザワザワと迫ってくるような。
ほとんど客が乗ってない電車をなんとなく見送って、義勇は駅の階段とは逆方向の、ホームの端に向かって歩き出した。
「えっ?」
てっきり階段を使って逆のホームに行くと思っていた俺は、驚いて義勇の後を追った。
「そっちじゃないだろ」
そう言って腕をとると、義勇は顔だけこちらを向いて、ニヤリと笑う。
「いいんだ。もう折り返しの電車は終わってるし」
そして何を思ったのか、俺の腕を払い、フェンスの上部に手をかけてひらりと飛び越した。
「え、えっ?」
飛び越した後、義勇の姿は向こう側に消えた。俺はもう驚きしかなくて、慌ててフェンスに駆け寄り覗き込む。フェンスの向こうは土手のようになっていて、すこし降りたところで義勇が手を振っていた。
「錆兎、こっち」
まじか?これっていいのか?ヤバくないか?俺の頭の中でグルグルと論理感というものが駆け巡った。そもそも超過料金を払ってないし、そっちは上りのホームじゃないし、そもそも帰る気なんて全くないじゃないか、ええいもう!
俺の中で何かがプツンと切れた。
もう知らん!何があっても、もう知らんぞ!
ままよ、と俺はフェンスを飛び越えた。義勇は俺が近くに降りるまで待っていてくれて、近寄ると「共犯だな」と言って、悪びれもせずニヤリと笑った。
ああ、こいつ確信犯だ。俺は腹を立てるを通り越して、むしろあきれてしまう。
土手を下りきると、細い田舎道が伸びていた。道はゆるゆると下りになっている。所々街灯はあるものの、かなり暗い。ただ、月が満月に近くてずいぶんと明るく、明かりなしで歩くのには支障がなかった。
そのまま、迷いもなくズンズンと義勇は坂を下っていった。俺は黙ってついていったけど、内心不安でいっぱいだった。
一体、どこに行くつもりなのだろう。
なにやらよくないことをしている、という自覚はあった。そもそも家に連絡を入れていない。今頃親が心配しているかもしれない。なんとか連絡を入れようと思ったけれども、俺は今日に限ってケイタイを家に忘れていた。じゃあ電話ボックス……とは思うものの、そんなものは影も形もない。
それどころか。
道の両脇はうっそうと木が生い茂る山の中で、人っ子ひとりどころか、民家すらない。
そうやってしばらく歩いていくと、ふいに左側の道の脇の茂みが切れた。代わりに見えたのは赤い鳥居。それも、いくつもの。
ああこれは。
俺は思わず立ち並ぶ鳥居を見やった。特徴的な小さめの赤い鳥居。いわゆるお稲荷さんってやつだ。
すると、義勇はカクッと直角に曲がり、あろうことか鳥居に向かって歩き始めた。
えっ、そっちなのか?
俺は少しひるんだ。夜の神社って、怖くないか?
そうは思ったけど、義勇は止まらない。俺が思わず立ち止まると、ゆるりと振り返り、大丈夫だと言わんばかりに手招きをした。
そして、あ、と言って思い出したように鞄からスプレー缶を出して、シャッと自分の手足に吹きかけた。
「錆兎も」
「なにそれ」
「虫除け」
「は?」
「ヤブに行くから」
「なにそれ?」
もう訳がわからない。さすがに準備が良すぎやしないか。俺はもう考えることを放棄して、義勇から虫除けスプレーを受け取り自分の手足にかけまくった。
「これで安心だ」
義勇は俺が返却した虫除けスプレーを鞄にしまいながら、ムフフと笑う。
何が安心なのか、ここはツッコミを入れるべきなのか、そのムフフ顔を見るとなんだかどうでも良くなってくる。おそろしい男だ。
「行こう」
俺の意向は全無視で、さっさと義勇は神社に向かって歩き始めた。次々に鳥居をくぐる。神社は、山の中にしてはよく手入れされていた。鳥居の足元に雑草はなく、綺麗に整えられている。
歩きながら頭の上を通り過ぎていく鳥居を見ていると、ふとテレビアニメでよく見るシチュエーションだな、という考えが頭をよぎった。俺は異世界にでも連れて行かれるのか、と不安になったが、まったくそんなことはなかった。
元々大した規模の神社ではない。鳥居はすぐに切れて、目の前に、こじんまりとしたかわいらしいお社が現れた。
義勇はお参りするでもなく、するりとお社の脇を抜けて裏側に進んでいく。
お社の裏側は、やっぱり山の中だった。そこから、細い獣道がゆるゆる降りながら続いている。
だから虫除けが必要だったのか。
俺は思わず頭を抱えたくなった。どうなってるんだ義勇の頭の中は。
義勇はまた振り返り、もう少しだから、と言い、またズンズンと進み始めた。俺は慌てて追った。こんなところにひとりで残されてはたまらない。
林の中の細い獣道を、足元に注意しながら進む。ジグザグに蛇行しながらゆっくり下る道。俺はそろそろ行先について勘づいていた。
さっきから潮の匂いがするし、ざん、ざん、と潮騒の音が耳に届いていた。足元も土から、だんだんと砂のようなサラサラとした踏み心地になってくる。
そして、ふいに林が切れた。
星が見えた。そして、月明かりに照らされてキラキラ光る水面が見えた。水面は波に合わせてユラユラと揺れている。
「海だ…」
進む先には、平べったい大きな石がいくつも横たわり、その先には真っ白な砂が続いている。白い砂の上に、ザバン、ザバンと波が寄せては返していく。
俺の目の前に広がっていたのは、まるで嘘みたいに幻想的な美しい浜辺だった。
浜は小さな入江のようになっていて、岩が続いていく左右はやがて崖になる。たしかに、神社の裏からではないと、ここまでたどり着けそうにはない。
「いいだろう」
義勇が自慢げに俺を振り返り言った。
「俺のお気に入りの場所なんだ」
「すごい」
俺は素直に感心した。こんなに綺麗なところは見たことがなかった。俺が知ってる海といえば、せいぜいが、遊園地の流れるプールか、人混みだらけのお世辞にも綺麗とは言い難い浜辺だけだ。
「でも」と俺は義勇をジト見した。
「最初からここに来るつもりだったんだな」
なにが世界の果てだ。俺はなんだか騙された気分だった。義勇は苦笑して、俺の肩をポンと叩く。
「錆兎が来なくてもここに行くつもりだったよ。でも、一緒にきてくれて嬉しい」
そういいながら、ふふ、と微笑んだ。
ずるいな、そんな顔を見せられると、もう許すしかない。
俺は釈然としなかったが、そんな思いを全部帳消しにしても、ここは余りあるほどの場所だった。
そして、そんな宝物のような場所に、他でもない、俺を連れてきてくれたということが、とても嬉しい、と思ってしまう。
俺は知らず知らずのうちに、心の中でひとり密かにニヤけていた。
「ここは」
ゆるゆると吹いてくる浜風に、義勇は目を細める。
「誰も来ないし、ひとりになれる。ひとりでもいいんだって、思える」
「ひとりは、寂しくないか?」
俺がそう言うと、錆兎はそう考えるんだな、とチラリと俺を見て、また微笑んだ。
「座ろうか」
そしてふと気づいたようにそう言って、目の前の平たい石の上に腰掛けた。俺もその横に座る。義勇はいつ買ったのか、鞄の中からペットボトルの麦茶を取り出して、一本を俺に渡し、もう一本の蓋をくるりと回して開けた。
「歩いて、のど乾いただろ」
そう言ってひと口飲む。
俺もありがたくいただくことにした。
麦茶はもうぬるくなっていたけれども、それでも歩いた後の乾いた喉には、とても甘く感じた。
「うま」
俺が思わず声を漏らすと、義勇はハッと短く笑い、「錆兎のそういうところ、好きだな」
と、さらりと大胆なことを言う。俺は思わず麦茶をふきそうになった。
義勇はニヤリと笑って、また麦茶を一口飲む。
腹立つ。やっぱりわざとやってるんだ。きっと俺をからかっているに違いない。
「夢の話」
ひそかに腹を立てている俺などお構いなしに、思い出したように義勇が呟いた。
「まだ途中だった。錆兎の」
「ああ…」
そういえばそうだった。でも、俺の話なんて大したことはない。
「他の夢は…義勇とおにぎり食べてたやつと」
「おにぎり」
義勇は驚いた声を上げた。
「ピクニックでもしてたのか」
「いや、多分修行の時のお昼ごはんだと思う」
さすがにあの時代劇みたいな格好でピクニックはないだろう、と俺が言うと、義勇はそうだな、とうなずいた。
「ほかには?」
「あとは…」
これは、言っていいものか、一瞬迷った。
「あとは、っていうか、義勇に会う前にいつも見てた夢なんだけど」
「俺に会う前?」
「うん。会ってからは色々見るようになったんだけど、それまではひとつだった」
「どんな」
「義勇が泣いて俺に謝ってる、夢」
それを聞いて、義勇は黙り込んだ。そして、眉根を寄せて、俺を見返した。
「なにを謝っているんだ?」
そう言ってくるということは、義勇自身は見ない夢なんだ。なんだか微妙に食い違っている気がしてきた。俺たちは、本当に同じ夢を見ているのだろうか?
「……間に合わなくて、ごめん、守れなくて、ごめん」
俺が呟くようにぼそりと言うと、義勇はさらに顔をしかめた。
「泣きながら謝られるんだが、俺には謝られる理由がさっぱり分からない」
俺がそう言うと、義勇はそうか、と小さく呟き、それきり黙り込んでしまった。
波の音だけが繰り返し繰り返し、飽きもせずにあたりに響く。俺は待った。
しばらくすると、義勇が顔を上げて麦茶をひと口飲んだ。
「…そんな夢、なんだな」
絞り出す声は少し苦しげで。俺は言ってしまったことを少し後悔した。
「ごめん…」
俺が思わず謝ると、義勇は「錆兎本人には関係ないだろ」と俺を見ずに言った。
そして、ハアとため息をひとつつき、天を仰いだ。
「錆兎」
上を見上げたまま、義勇は口を開いた。
「だいぶ、様子が違うみたいだ。俺とお前が見ている夢は」
「そうなのか……」
「俺は迷っている。俺の夢を話したところで、錆兎がたんに気分を悪くするだけかもしれない」
「……お前の夢は気分が悪くなるようなもの、だと言うのか?」
「そうだ。そもそも、俺は修行時代とやらの夢を見ない……」
俺はこっちを見ないままの義勇の青白い頬をじっと見ていた。俺が思っているよりも温度差があるのかもしれない。けれども、ここまでついてきておきながら、じゃあ聞きません、というのはどうなのか。それはとても男らしくない。
「それでも」
俺は口を開いた。
「俺は義勇の話が聞きたい」
喉に力を込めて、ハッキリと告げると、自分で思っていたよりも大きな声が出た。
義勇は大声に驚いてこっちを向いた。それでようやく目が合った。
俺は義勇の目を見つめて、もう一回言った。
「聞かせてくれ、お前の話を」
気圧されたのか、義勇の目の光が一瞬揺れる。ゆっくりとまばたきをして、義勇はもう一度俺を見た。
「分かった。聞いてくれるか、俺の夢の話」
それはもちろんだった。むしろ、そのためにここまでついてきたのだから。
「ああ」
俺がうなずくと、義勇は顔を戻した。いつになく真剣な顔をしていた。
「俺が見ている夢は…」