夏の日、残像 03 錆兎その日は朝から嫌な予感がしていた。サッカーの練習に行くために起き上がり、カーテンを開けて曇天の空を見た途端、目の奥がずきりと痛み、どうしようもなく光が眩しくなった。
慌てて薬を取り出す。台所に行くと、母親が朝食を作りながら、「早いわね」と言った。
「頭痛が来て」
と短く返して水を汲み、薬を飲み込む。痛みが来始めてから飲んでもあまり効かないけれども、仕方がない。
母親は、あらまあ、と言い、
「じゃあ今日はサッカー休むよね、母さんが言っとくから、寝なさい」
と、俺の背を押した。
土曜日、学校や試合の日でなくて良かったと思いながら俺は部屋を真っ暗にして布団に潜り込む。
目の奥でチカチカと光が瞬いている気がした。
◆
「錆兎!」
彼が振り向いて微笑んだので俺は驚いた。
夢が変わっている。
彼は泣いてはいなかった。それどころか、満面の笑顔だ。笑うとどこか幼く見える。
「義勇」
俺が返事をする。勝手に俺が動いたので、俺は驚いた。どうやら、勝手に寸劇が始まったようだ。俺は俺の背後霊だ。五感は共有しているが、俺の意思で動いているわけではない。
「どこ行ってたんだ。お昼にしよう」
彼がニコニコしながら竹の皮の包みを取り出す。
「ああ、座ろう」
俺が答える。そして、俺と彼は大岩の上に腰掛けて、包みを開いた。
中には大きなおにぎりが四つ。
「はい」
と彼が一つをつまみ、俺に差し出す。
俺はありがとう、と言いながら受け取り、かじりついた。
「うまい!」
そう言う俺を彼は嬉しそうに見て、自分も一つ、つまんでかじりついた。
「うまい!」
彼は俺の真似をして大声を出し、ムフーと鼻息を出して俺に向かってドヤ顔をする。
その顔はまさにトミオカに瓜二つだった。
まあ、あのときトミオカは最後まで笑うことはなかったが。
こっちの彼はさっきから笑顔全開で、ニコニコと俺の顔を見ている。
いったい、何なんだろうか。彼はトミオカの何なのだ。
「錆兎」
おにぎりを食べながら、ふと彼は不安そうな顔をした。
「俺にあの岩、斬れるかな」
「斬れるさ」と、俺。
「男ならば、信じてやり遂げるのみ」
俺は一体何を言っているんだ、と正直思わないでもなかったが、その謎の励ましに彼はパァッと顔を明るくして、ウンウンとうなずいた。
「そうだな、男ならやり遂げるのみだ!」
そう言って手の中のおにぎりを見つめ、モフっとかじりついた。リスのようにおにぎりを頬張る姿は、男だと分かっていても、なんだかめちゃくちゃ可愛いかった。
多分本体の俺もそう思っているのだろう、彼の肩をポンポンと優しく叩き、「がんばろう」と囁きかける。
彼の耳たぶが、カァッと赤くなったのが見えた。
◆
目を覚まし、俺は頭を抱えた。
なんだか、とてもヤバいものを見てしまったような気がする。
頭痛は綺麗さっぱり消えていたが、その代わりに何か違うものが頭の中にあとからあとから湧き出してくる。と言うか、そのことしか考えられない。どうかしている。
トミオカに出会ったから、夢が変わったのだろうか。
泣いていない彼の笑顔が俺の脳裏によみがえり、鮮やかにきらめく。
俺は、なんだかトミオカに会いたくなった。足が無性にうずうずする。走り出したくてたまらない。その衝動は、しがない小学生である俺ごときに、とても抑え切れるものではない。
トミオカのチームの練習場の最寄駅は、俺が住んでる地域の最寄駅から五駅ほど行ったところだった。元々、俺は市の境目に住んでいたので、隣の市とはいえ、思ったよりも近い。
待ち伏せというつもりはなかったけれど、俺はなんとなくその駅まで行ってみた。色々考えてみたけれど、住所も電話番号も通っている学校も知らない相手に会うのに、他の方法が思いつかなかった。練習が終わる時間帯は分からないし、トミオカがこの駅を使っているかどうかも分からない。会えるかどうかは賭けでしかなかった。
俺は改札を出るやいなや、近くの柱に陣取った。そのまま行き交う人々を眺める。ここは地下鉄の乗り入れ駅になってるので、乗り換えの人が多く賑わっている方だと思う。
時間はすでに夕方近くになっていて、窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。見知らぬ人々を橙色に染め、次から次に長い影が交錯する。なんだかとても幻想的な風景だ。
しばらくそのままぼうっとしていると、この間見たユニフォームと同じ色のジャージの集団が通り過ぎた。肩から下げた大きなカバンには、トミオカのチームの名前が入っている。
おっ、と俺は思いながら目を凝らした。その中にトミオカはいなかった。
ボッチのトミオカが輪の中にいるはずはないな、と思っていたら、案の定、しばらくしてから一人で改札に向かって歩いてくるトミオカを発見した。
声をかけよう、と思い、はたと我に返る。
声をかけるって、何て?
俺、ストーカーみたいじゃないか?
迷いが頭の中を駆け巡る。
いやでも、ここで声をかけなかったら、いつ会えるか分からないだろ?
俺はままよ、とトミオカの前に飛び出した。
あ、とトミオカが顔を上げる。
「やあ」
俺はできうる限り最大限の友好的な笑顔を浮かべた。
「たまたま用事があって来たんだ。見かけたんで思わず…偶然だな」
トミオカは焦る俺の顔を、じいっと見つめた。
そして、何を考えてるのか全く分からない無表情のまま、こてんと首を傾げる。
「誰だっけ?」
「えっ?」
最悪だった。覚えられてなかった。
「あっ、あの、こないだ練習試合した!ガリガリ君の!」
俺が慌ててそう言うと、トミオカはああ、と合点がいった顔をして、俺を指差し「サビト」と言った。
「名前、覚えてくれてたんだな…」
「変わってたから」
感激する俺を尻目に、どうでも良さそうな感じでトミオカは返した。
「何か用?」
今にも歩き出しそうな感じでトミオカは言う。俺がここで何か言わないと、さっさと帰ってしまいそうだった。
「いや、あのさ、特に用事ではないんだけど、よかったらお茶でもどうかなと…」
俺は慌てて引き留めようとした。とっさに出た言葉は、なんだかおかしい。これは男に対して言うことではない。ナンパか!と自分の頭の中で激しいツッコミが発生した。お笑いでボケ役の俺が、ツッコミ…代理はハマちゃんあたり…に、頭をパーンとはりとばされてるような気がした。あまりに恥ずかしくて、顔がカーッと熱くなってきたのがわかる。
トミオカはそんな俺をじっと見て、ちょっと考え、またもやコテンと首を傾げた。
「シェイク」
「え?」
「シェイクおごってくれるならいいよ」
ウソみたいな返事が返って来た。トミオカは相変わらず無表情だったけれど、構うものか。てっきり無下に断られると思っていた俺は、驚きで思わず目を見開いた。
「も、もちろん」
なるべく平静を装って返事したけれど、顔が赤くなっているのはもう見られてしまっているので、ごまかしようがない。
「じゃあマクドナルド行こうか」
俺が言うとトミオカはコクリとうなずいた。
そのまま駅ナカのマクドナルドに俺たちは入った。
夕方のマクドナルドは中高生で混んでいたが、席はポツポツ空いており、俺たちが座れないこともなかった。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
カウンターでスマイルを浮かべる店員を見て、俺は少し浮足だった。よく考えたらあまりこういうのは得意じゃない。
「ええと、コーラMとシェイクM…」
「シェイクは何味にいたしますかあ?」
「あじ…?」
思わずトミオカを見ると、彼は落ち着き払って「ストロベリー」と店員に告げた。
「あとポテトM」
店員はかしこまりましたあ、と言って素早く準備を始めた。俺は財布を覗き込んで、すこし青ざめた。ヤバいことに財布の底が見えそうだった。小学生の小遣いなど、たがが知れている。
まあここの支払いくらいはできそうだ。ただし帰りは二駅ほど手前で降りて走って帰らないといけないだけで。
店員はテキパキと注文を全部揃え、お支払いはご一緒で?と聞いて来た。
俺が一緒で、と言いかけたとき、横からトミオカが「べつで」と口を挟んだ。そしてカバンから自分の財布を取り出した。トミオカの財布はマジックテープ式で、しかも古い戦隊ヒーローの絵が書いてあるキャラクターものだった。
その財布から、さっと小銭を取り出して、ジャラリとトレイに置く。
俺はあっけに取られてしまい、口を挟めなかった。店員に促され、自分の分を支払っているうちに、トミオカはさっさとトレイを持って空いてる席に移動していた。
「あ、ありがとう。運んでくれて席取ってくれて。俺のオゴリだから、お金は払うよ」
慌ててトミオカを追っかけて席に行くと、トミオカはシェイクをじゅるりと吸い込み、「いい」とひとこと言った。
「でも…」
なお食い下がる俺に、トミオカは
「お前が帰れなくなったら困る」
と続けた。
「なんで…?」
「顔を見れば分かる。お前はわかりやすい」
そう言われると身も蓋もない。俺はまた顔が赤くなっていくのを感じる。
「まあ座れ、サビト」
トミオカにそう言われ、俺はまだ立ちっぱなしだったことに気がついた。
「サビトってどんな字なんだ?」
トレイの上に散らばったポテトを摘みながらトミオカが言った。
俺は机の上にあったアンケートの紙を取って裏返し、錆兎、と書いた。
「こういう字」
「ウサギなのか。やっぱり変わってる」
「確かにキラキラネームだと思うけど…まあ、おかげですぐ覚えてもらえる」
「だろうな」
「母親が、古事記?とか好きらしくて、因幡の白兎、からつけたとか、何とか言ってた。よく分かんないけど」
へえ、とトミオカは意外そうな顔をした。
「てっきり親が元ヤンなのかと」
「何でだよ」
「その髪」
と、言いながら俺の襟足を指さした。俺は確かに、全体的には短くしているが、なぜか襟足だけ伸ばしている、はたから見るとヤンキーっぽい髪型をしていた。
「これは、俺の父親がプロレスファンで。ナントカっていうプロレスラーの髪型。ずっとこの髪型だから、特に気にしてなかったけど、変かな」
「いや」
トミオカはポテトをパクリと口に入れ、間髪入れずにシェイクをすすった。
「似合ってる。色も」
「色も地毛だよ。染めてない」
俺の髪は赤い。けれどもこれも生まれつきだった。
「そうか」
さっきのが気に入ったのか、またトミオカはポテトを口に入れたまま、シェイクをすする。その食べ方、変じゃないか?甘いのかしょっぱいのか分からない。
俺がジト見をすると、トミオカはさっきからいっこうに減らないトレイの上のポテトを途方に暮れた目で見て、
「多すぎた。食べてくれ」
と俺にも勧めてきた。
「あ、ありがと」
俺はありがたくいただくことにする。
「あんまり来ないのか?」
「何が?」
「マック」
「初めてきた」
「え、初めてなんだ」
「前々から飲んでみたかったんだ、コレ」
シェイクのコップを軽く振って、トミオカは俺を見た。
「お前のおかげで念願叶った」
意外だった。マクドナルドに来たことがない人間がいるということに、俺はちょっと驚く。
「それは何より…。初シェイクの味はどう?」
俺の言葉に、トミオカは顔をしかめて眉間にしわを作った。
「甘い」
そしてもう一回、甘い、と言いながらシェイクをすすった。ただでさえ甘いのに、ストロベリーとか頼むからだろう、と俺は呆れた。
「甘いの苦手なのか?」
「あまり得意じゃない」
「ガリガリ君好きなくせに」
「それは別」
ぶつくさ言いながら、それでもトミオカはシェイクをすするのをやめようとはしない。
「無理して飲まなくても…」
俺がそういうと、トミオカはズーッと音を立てシェイクを飲みあげた。
「甘いのは甘いけど…嫌いじゃ、ない」
そして俺をチラリと見る。
「お前も」
藍がかかった綺麗な目に射られて、俺は柄にもなくドギマギした。おいおい、冗談だろ、相手は男だ、と思っても胸の鼓動は収まらない。
つられて、思わず俺も口にしていた。