銅製のジョウロから、さらさらと水が降り注ぐ。
細長い口の先から霧雨のように散る細かな水の粒は、光を弾いて輝いていた。十分に新鮮な水を含んだ土の匂いを心地よさそうに吸い込んで、ルークは軽くなったジョウロを掲げた。
「このジョウロ、すごく使いやすいな。いつも有難う、チェズレイ」
「旅先で、良い仕事をする銅細工職人と巡り会えたもので。お気に召したようでしたら、光栄ですよ」
「わざわざオーダーしてくれたのは嬉しいけど、大変だったんじゃないか? 収穫出来たディルの種を分けて欲しいと言ったのは僕だけど、まさか会えるとは思ってなかったから。しかも、あの時のキットの鉢まで持って」
「おや、ボスは私にお会いになりたくなかったとでも?」
「そ、そうは言ってないな! ……会いたかったです。うん」
「ふふ。このキットはボスからの大切な贈り物ですので、肌身離さず持ち歩いておりますよ。先日などこれのお陰で、私を狙った銃弾を無事回避するに至りまして」
「えっ」
「当然、ボスからの贈り物を傷つけた狙撃手には相応の制裁をさせて頂いておりますが……ああ。そんな顔をなさらずとも、命は奪っておりませんよ。催眠で全裸になっていただき、数時間ばかり時計塔の天辺から吊るしてみた程度ですので」
「……冗談だよな?」
「どのくだりについてそう思われますか」
チェズレイがゆったりと微笑む。
あのモクマがいるならそんな状況にはならないのでは、と思いながらも、ルークの目はほんのわずかに黒ずんだ鉢の端に釘付けになってしまう。
エリントンに帰り、仕事に追われているうちに、緑が目につく生活が恋しくなったのかも知れない。ルークはある日ふと、自分でもハーブを育ててみようと思った。育成キットは見つからなかったものの、花屋でディルの鉢植えを見つけていそいそと買って来たものの、帰宅もままならない日々では十分な水やりも出来ないのだとすぐに気がついてしまった。
職場に鉢を持ち込む発想も一瞬よぎったが、日当たりや風通しを思うとそれはそれで可哀想なことになってしまうかも知れない。育て方を調べ直したところ、室内の鉢よりは土に直植えの方が環境がよく、ある程度放置してもしっかり育つらしいとのことだったので、庭への植え替えを検討し始めた。
そうして、植え替えるなら鉢の分だけではなくもう少し賑やかにしてやりたいと、チェズレイが種を持っているか打診してみたのだ。種を送ってもらえれば有難いとは思っていたものの、まさか本人が直に運んでくるとまでは考えていなかったが。チェズレイのことなので危険のないように対処しているのだろうか、それにしても植物検疫はどうクリアしたのだろうかとは考えないことにした。
「では。お手伝いしますよ。以前のように」
「そういえば君、土いじりは」
「ご安心を。この日のために、特殊加工の手袋を用意しておりますので」
「そ、そうか。君さえ気にならないようなら、手伝ってくれると嬉しい」
舞踏会に臨むように優雅に新しい手袋をはめるチェズレイを眺めながら、ルークは軍手の甲で額の汗を拭った。
ルークが休みの日に水や肥料を与えて耕しておき、掘り返した土のへこみに、チェズレイがプランターから土ごと取り出した苗をそっと置く。根を傷つけてはならないためディルの植え替えは難しいと調べていたのだが、そんな心配は一切無用な恭しい手付きだった。
慎重に土を馴染ませて、周りの土にも均一に間をあけて種を蒔く。土を被せてもう一度水を撒き、植え替え作業が一段落してルークは軍手を外した。
「自分でも植物を育ててみて改めて思ったけど、土っていうのはすごいな。ひとつひとつはこんな小さな粒なのに、色んなものが含まれていて……たくさん集まって土壌が出来れば花を咲かせたり、水を塞き止めたり出来るんだもんな」
言いながら、ルークは素手のまま黒い土を少しだけ掬いとり、掌に薄く広げた。
「ええ。まさに、『一粒の砂にも世界を、 一輪の野の花にも天国を見る』……とは、よく言ったものです」
「今のは?」
「ある詩の一節ですよ。あなたの名に少し似た名前の詩人の手によるものです」
「一輪の花に天国を、かぁ。前に君の誕生日に送ったプレゼントが、花になったってモクマさんから聞いたのを思い出すな」
「……ええ。あの時は、思いもよらなかった天国を見ましたとも」
チェズレイがルークの掌に両手を添えた。手袋の指で掌の土の汚れをそっと払い、続ける。
「そして、この詩の続きは──『君の掌のうちに無限を』『一時のうちに永遠を握る』」
日の当たる庭で、穏やかな声で諳じる。チェズレイの長い指が、ルークの掌をそっと包み込んだ。
「……チェズレイ」
「差し伸べ、繋ぎ、何者をも射抜く、この掌……ボス。私が今、あなたのそれに何を見ているか判りますか」
さらりと肌を撫でる指先に、ルークは思わず唾を飲み込んだ。掌と、そこに落とされるチェズレイの眼差しを交互に見ながら、ルークは困ったように眉を寄せた。
「わ、……わざわざ軍手を外して土に触ったもんだから、手が汚れてしまった……とか?」
「あァ。ご明察です」
チェズレイは嫋やかに頷いた。
「本日お持ちしたのは、種子だけではないのですよ。収穫したボスからの贈り物の三代目は自家製ドライハーブにしまして、ブレンドハーブティとハーブクッキーも作ったのです。クッキーは蜂蜜とオレンジピールをたっぷり使って、ボスのお口に合うように焼き上げました」
「お、おお……」
「天気も良いことですし、庭でアフタヌーンティーと参りましょうか。ボス」
「いいな、それ! ……ってこの間、新品のガーデンテーブルセットが送られて来ていたのは、まさかこのためか……?」
「ジョウロはお預かりしますよ。手を洗って、お顔にも泥がついていますので、鏡もよくご覧下さい。ああ、うがいも忘れずに」
「華麗にスルーされた……いや、もちろんちゃんときれいにしてくるよ。終わったら、テーブルセットを出してくる。まだ梱包を解いただけで、組み立ても何もしてないから」
「では、一緒に組み立てましょうか。私はここを片付けておきますので」
ルークは嬉しそうに、いそいそと家に駆け込んでいった。ひとり残り、チェズレイは受け取ったジョウロに目を落とした。赤銅色のジョウロの内側、薄暗くたゆたう水の残りを見ながら、空洞に声を落とすように口を開く。
「永遠など、あるはずもない」
チェズレイは目を伏せ、種を植えたばかりの土を見た。
「そう、思っていたはずなのですがね。けれど、もしもそれをただの不変ではなく、更新され続ける一時のことを指すのなら──」
この庭で植えた花が咲き、種がこぼれ、土に落ちて、いずれまた芽を出す。同じ花に見えながらも、一年ごとに代を変えて少しずつ遺伝子を変化させる植物のように、似て非なる日々を繰り返す営みをそう呼ぶのなら。
「あなたがもたらしてくれたそれを、私は信じてもいいのかも知れない」
いつかどちらかが土に還る日が来たとしても、この想いまでもが終わることはないのだと。
チェズレイはジョウロの底に残っていた水を切った。土に繁る緑の若苗に雫が滴り、土に向かってきらきらと跳ねていった。