さめないうちに 繰り返すノックは、控えめだがしっかりとした音で響いている。ドア越しに呼ぶ声も、穏やかだが少しずつはっきりと聞こえるようになっていた。
シキは息を潜め、身を固くして呼びかけを無視する。しかしノックの音は、部屋の主を行儀よく、そして根気よく待ち続けるつもりのようで、鳴り止む気配がない。
「毎度ー、出前です! 開けてください!」
家宅捜索の勢いだった。ドアの向こうから響いた声に、シキは諦めて席を立った。
「ルーク、近所迷惑、だから……」
「その御近所さんからの届け物だよ。はい、ゴンゾウさんから。コズエさんたちからでもあるけど」
シキは精一杯の不満そうな顔をしてみたが、来訪者にあっさりといなされる。ルークは、緋色の風呂敷に包まれた正方形の箱のようなものを携えてシキの部屋を訪ねて来ていた。
「体調不良で帰らされたのに、リモートで普通に仕事が進んでいるのが記録に残っていて、でも誰も外に出ているのを見ていないって言うから。心配したんだぞ。熱はないのか? ちゃんと食べてるか?」
「た……食べてる。熱も、ない……」
「水分は」
「摂ってる……」
「睡眠は。お風呂は」
「ルーク、……チェズレイみたい」
「えっ。そ、そうか?」
「なんで、ちょっと嬉しそうなの……」
複雑そうな顔のシキが眉を寄せた。
「それで? 最後に食べたのはいつ? 何を?」
「本職の尋問……」
「厳しくもなるよ。ほとんど一人暮らしみたいなものなのに、家の中で食べてなかったら、君が倒れたとき誰も気づかないじゃないか」
「定期報告は、してる……ゴンゾウさんも、イアンも気にしてくれるし……それに、ルークに言われたくない」
「え」
「休みでも、リモートで会議に参加したりして、昼も出席してるから、同僚のひとたちが心配してデリバリー手配してくれてるよね……?」
「それこそチェズレイといい、それをなんでみんな知ってるんだ……? いや、ともかく。まずは、おつかいのミッションを果たさせてもらうよ」
そういってシキの部屋に上がり込んだルークは、PCの設置されたスペースとは少し離れたサイドテーブルに風呂敷包みを起き、結び目を解いた。マイカの紅葉のような緋色から中央に向かって白くグラデーションを描くように織り上げられた風呂敷はどう見ても高級な生地で、その中心から黒塗りの箱膳が姿を現した。
「では、じゃじゃーん!」
浮かれた様子で、ルークが箱膳の蓋を開ける。
箱の中は鮮やかな朱色に塗られていて、華やかな料理がいっぱいに詰められていた。昆布締めの刺し身のカラフルな手まり寿司に、桜色をした練り物の団子、今なお油の香り立つ天ぷら、ごま豆腐、青菜のお浸し、魚の焼き物、鶏肉と根菜の含め煮、そして梨などがそれぞれ仕切りごとに入っている。
「……おお……!」
届け物の中身は見ていなかったらしい。ルークは新鮮な驚きを見せながら、鼻で大きく息を吸い込んでいた。エリントンに帰ってからは、久しく嗅いでいない香りだったらしく、どこか懐かしそうな顔をしている。 シキはこの差し入れが初めてではなく、少し戸惑ったような、しかしはにかむような顔で膳の中身を見つめていた。
「コズエさま……コズエさんが、ボクが仕事しながら片手でも食べられるものをって、オカンさんと一緒に、こんなふうに作ってくれて……お弁当は、いつも、すごくきれいに凝ってて。たくさん詰めてくれて、冷めても美味しいように工夫してくれて……」
「シキの生活ペースに合わせて、丁寧に作ってくれてるんだな」
「うん……」
シキはうつむき、胸にきゅっと握った手を不安そうに置きながらも、嬉しそうに頷いた。が、すぐに唇を引き結んで首を振る。
「けど……ごめん、ルーク。今日は、やっぱりすぐには食べられない。……もう少しだけ、集中させて」
「うーん……」
悩むルークの返事も聞かず、シキはワークチェアに戻って背を向けてしまった。脇目もふらずにキーボードを打ち始めた音が部屋に響く。 ルークは黒塗りの箸をとり、箱膳から料理をつまんだ。あれから練習したので、多少は箸使いが上達している。
「判った。じゃあ、シキ」
「何? ルーク。今は」
「はい、あーん」
「……じゃあ、って」
手を止め、シキが振り返る。声にも視線にも呆れを含んでいた。
「シキは、画面だけ見ていればいいよ。合図するから、そのたびに口を開けてくれたら、食べさせてあげるから」
「き……機材にこぼれると、困る」
「あ、それはそうか。……じゃあ、こうやって」
ルークが箸の先に左手を添える。皿のような形の手のひらに、ぽたりと出汁が滴る。
「はい」
「……」
こうなったルークは退かない。シキは観念して口を開けた。 舌の上に冷たい野菜の煮物がそっと乗った時、押し込みすぎないように気をつけたのか、ルークの箸がわずかに震えたのが伝わってくる。
「……美味しい」
「だよなあ 見るからに美味しそうだもんな!」
咀嚼し、飲み込む。質の良い出汁の塩分が体に染み渡るようで、シキは思わずため息を漏らした。 少し落ち着いた絶妙のタイミングで、次のひとくちが運ばれてくる。ルークの合図で小さく口を開け、小さく切った焼き魚を飲み下した時、ルークが話しかけてきた。
「なあ、シキ。もしも、の話になっちゃうんだけどさ」
「なに……?」
「もし、ハスマリーの研究所でみんな一緒に、変わらず生活していたら……君の成長をずっとそばで見ていたのかな、って。僕が赤ちゃんのシキにごはんを食べさせてあげることなんかが、あったのかなあ、なんて……」
「……」
「あ、これで最後だよ。それにしても、本当にどれも美味しそうだったな。これは……梨?」
普段使いなれない箸ではつるつると滑ってしまうようで、受け皿にしたルークの手のひらに、果汁がぽたりとこぼれていた。落とさないように集中しているのか、手を汚さないのは二の次らしい。
シキは黙ったまま口を開けた。水菓子が唇に触れ、口を開いて吸い込むように啜る。自分のハンカチで濡れた手のひらを拭いたルークが、しげしげと梨を眺めている。
「ミカグラの梨は、リカルドの梨と違うと思う……形も、味も……」
「へえー……」
「……食べてみる?」
「えっ、……いやいや! これはシキのためのお弁当だろ」
「いいよ。今は旬だし、美味しいから……ルークにも、食べてほしい」
ルークの手にシキの手が重なる。指をほどいて箸が離れ、梨を器用に摘む。ルークの口元に、シキの箸の先が促すようにちょんと触れた。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
しどろもどろに言いながら、ルークが口を開ける。
林檎よりも透明な印象の果実は、微かな酸味に爽やかな甘味がルークの口の中に広がった。とろけるような舌触りのリカルドの梨と違って、舌にざらつきと、それ以上にみずみずしさを感じる。特にこの膳の梨は、色の変化を抑えるために、甘くて爽やかな柑橘で香り付けがされているようだった。
「もぐ、……ん」
ルークは思いの外硬かった果実を手のひらで押し込み、咀嚼する。歯ざわりも、林檎や馴染みのある梨とはだいぶ違うものだった。
「これは……しゃりしゃりと薄く剥がれていくような歯ざわりと、きれいに澄んだ甘味が、品種どころかまるで違う果物みたいだ……!」
ミカグラの梨を堪能しているルークの左手に、シキの手が触れた。出汁の香りと、柑橘と梨の香りが混ざった手のひらに、微かに震える舌先が触れた。
「んッ……?」
「ね、ルーク、……美味しいでしょう。甘くて、固くて、塩気があって」
「え、待っ」
話しながら、戸惑って逃げようとする手のひらに舌を伝わせる。ルークの手のひらの溝、指の股、水かきの部分までシキは唇で挟んで軽く食む。
「ひゃ……!」
「ルーク。やっぱり、ちゃんと食べることにする」
「え……? い、今、食べ終わったばかり、では」
「足りない」
「え」
「ルークは知らなかったかも知れないけど、ボク……実は、結構、食べるんだ」
「知」
「食べて……寝るよ。付き合ってくれるよね、……ルーク」
じっくりと、噛み締めるように名前を呼ぶ。シキの口が、ゆっくりと開いた。