イケメン仏頂面上司が女子高生みたいな告白をしてきた件について3(終) 時計がお昼の十二時を指す。皆、パソコンのディスプレイをオフにし、お昼の休憩に入った。ジータも例外ではない。その日は同期の女の子数人とのランチ会だった。食堂で昼食を購入しいつも集まる席に向かう。
「こっちこっち!」
早く来ていた子が席を取っておいてくれたらしい。ジータを見つけると軽く手を上げ声をかけてくれた。
「おつかれ!」
「まだお昼なのにくたくただよー」
少し経つと他のメンバーも集まり、食事を取り始めた。皆チームはバラバラで、いい意味で距離感がある。だから、自分のチームはこうだとか、先輩がこうだとか、情報交換を行う。チーム外だからこそ聞ける話もあり、何かといい刺激にもなっている。
今日もそんないつもどおりの話をしていたのだが。
「ジータ、見間違えならごめんね」
話題が途切れたときだ。一人がそう前置きをしてジータに声をかけてきた。
「なに?」
「……先週の金曜日の夜、ルシフェル部長と歩いてなかった?」
「……」
待ち合わせは居酒屋だった。おそらく一緒に歩いていた帰り道を見られたのか。
「うん、歩いてた……けど」
少し言いにくい気がしたが、嘘をつくことはよくない。ジータは素直に答えた。
「やっぱり。あれ、ジータと部長だよね」
「え、なんでなんで!? ジータとルシフェル部長!?」
今度は別の子が食いつく。
「う、うん、一緒に飲みに行った帰り」
「一緒に? 二人っきりで? つまり、特別な関係ってこと!?」
その問いに対し、ふとジータ自身疑問を抱く。
(どういう……関係なんだろう)
少なくとも恋人ではないだろう。プロポーズはされたが、お互いをよく知ってからと言ってある。恋人ではないし、ここで上司と部下と答えるのもおかしい。ならば何だろう。
「ううん。共通の知り合いがいて、その人を通じて知り合って、プライベートの連絡先をやりとりして、ちょっと仲良くなったの」
前から面識はあったが、ベリアルを通じて今の仲になったのだ。嘘は言っていないはずだ。
「へー、そんな偶然あるのか」
「うん」
「じゃあ、ご飯食べる程度の知り合いってことだよね……」
最初に見たと言った子は、そう確認するように呟く。なんとなく、引っかかる言い方の気がした。
「なにか、あった?」
だから、ジータからそう尋ねてしまった。
「ううん、付き合ってるわけじゃないならいいんだけどさ……」
質問した子は、戸惑いがちに続けた。
「ルシフェル部長ね、取引先のお嬢さんと今度婚約するって聞いてたからさ、ジータが遊ばれたんじゃないかって心配しただけなの。だから、付き合ってないならよかった」
「……」
青天の霹靂か。まさに雷に打たれたかのような衝撃だ。
(あれ……私のこと……好きって、結婚したいって)
口には出さなかったがひどく混乱していた。ジータは取引先のお嬢さんでは当然ない。相手はジータのことではなく、別の誰かだ。
「その噂、たぶん、ソースはうちの部署の誰かじゃないかな」
ジータの気持ちなど知らない同期たちは、色恋話に花を咲かせ始める。次は別の子がそう口を挟む。
「うちの部署、部長の席の近くなんだよね。でさ、そのお嬢さん、っていうのが、うちの会社にこの前中途で入ってきて、部長の秘書みたいなこと始めたんだよ」
「もしかして、あの、最近一緒にいる美人さん?」
「そうそう。まぁ美人なんだけどさ、明らかに媚び売ってるのわかるし、既に奥さんヅラっていうのかな? なんか、あなたたちとは違います的な雰囲気出して、あんまりいい感じはしないんだ。……部長以外に塩対応だし……」
人のことを悪く言わない子なのだが、そんなことを言った。おそらく、その子か、もしくはその子の周りの人か、とにかく誰かがその女性と何かトラブルがあったのだろうことは容易に想像がついた。
「ちらっと聞いた話だけどさ、部長と結婚したいって強く父親にお願いしたらしくて、今みたいなことになったみたいだね。まぁ、部長もさ、あの人と結婚したら、出世するだろうし、奥さんは美人だし、悪くない、ってなるよね」
(部長は、そんな人じゃないもん……)
心のなかでそう不貞腐れたように思ってしまう。
ルシフェルは出世に興味が無さそうなことをよく知っている。そもそも、出世したいと思ったら、自力で這い上がることができる実力がある。だから相手の地位に目がくらんだなんてありえない。ルックスはなおさらだ。見た目で人を判断するような人ではない。だから、そんなことはないと思った。
そもそも、その噂自体ジータは怪しいと感じている。なぜなら、ルシフェルに愛されている自信がジータにはあったから。ルシフェルは誠実だから嘘をつかない。ルシフェルが本当に好きなのは自分だと、はっきりとわかっている。だから、その人と婚約することは今のところないだろうと思っている。
ルシフェルがジータにこのことを言わないのは、言う必要のない些細なことだからだろうとも察している。事実は、ルシフェルはジータを愛しているということ、それだけ。そのお嬢さんのことは、ルシフェルがジータを愛していることと何の関係もない。だから、ルシフェルはジータに言わないだけだ。ジータもたまたま、席が離れているから知らなかった。それだけだ。
わかっている。それだけなのだ。自分でも全て納得の行く結論だ。辻褄も合う。
でも、どうしてだろうか。ひどく心がグラグラと揺れていた。理由がわからない。何か漠然とした心地悪さを覚えてしまった。
(なんだろう……なんか、嫌だな……)
それからの会話は、何を話したのか覚えていなかった。ただ、ざわざわとしたよくわからない不快感だけが深く残った。
その不快感はその日の夜になっても拭うことができなかった。
「今日は、テレビで可愛い動物特集が入るな。君の好みの番組だと思うが、リアルタイムで見るのだろうか? それとも録画して後からゆっくり見るのだろうか?」
今日も彼からメッセージが届く。
(……リアルタイムで見ようと思ってたけど、そんな気分じゃないな)
少し考えてから「お風呂に入るので録画して後から見ます」と返すと、「お風呂の時間がいつもより遅いみたいだが何かあっただろうか」とすぐに返信がきた。拍子抜けするほどいつもと同じような、愛情重めでジータのことをよく知っている内容のメッセージだ。そう、彼はジータをよく知っている。いつもなら、ちょっと怖い、とかそんな感想を抱いていただろう。しかし、今日は違う。
「どんな顔して、メッセージ送ってるのかな」
一人暮らしだと聞いていたので、リビングや寝室で一人でくつろぎながら送っているのか。
(それとも、誰か……)
そんなことを想像しかけて首を横に振る。ルシフェルがそんな不誠実なことをするはずない。ルシフェルに失礼だ。
あんなのただの噂だと、頭の中では整理がついている。しかし、何故かもやもやとした黒い感情は時間が経っても薄れることはなかった。
本当はルシフェルに真相を聞いてみればいいのだろう。しかし、付き合っている相手でもないのに失礼だ。ジータは聞くことをためらっていた。
(そもそも、この今の関係って何なんだろうな……)
それゆえか、今の漠然とした関係は何なのだろうか、そんな疑問がわいてくる。どうすれば関係が進むのか、もしくは終わるのか。ジータはわからずにいる。ルシフェルのことを知って、素敵な人だと思い始めた。でも、まだ、結婚はもちろん、男女として付き合うことさえ、よくわからずにいる。
考えれば考えるほど、ただ、行き場のないもやもやとした気持ちが残るだけだった。
どうにかしなくては、そう思うがきっかけを掴めずにいた。いつも、モヤモヤとした気持ちを抱えながらルシフェルとやりとりをしていた。
そうしているうちに、ジータの周りにも例の噂が聞こえ始める。
「部長にはちょっと、がっかりだよね」
「わかる。ストイックなところが良かったのにね」
ルシフェルをよく知らなければ、きっと自分も同じことを思っていたかもしれない。彼のことをよく知る今となっては、胸が痛い。
(部長はこの噂、知ってるのかな)
ルシフェルは異性関係に少し疎いところがあるし、そもそも関係のないことは一切気にしないさっぱりとした性格でもある。だから、知らないような気がなんとなくしていた。
(……なんか、いろいろ嫌だな)
ジータの心は沈んだままだった。
「すまない、今週末の予定はキャンセルしてくれないか?」
久々に土曜日に合う約束をしていたのだが、そんなキャンセルの連絡がきた。話を聞くとどうやら、取引先との急な仕事が入ったらしい。基本は暦通りの休日であるから、土曜日に仕事というのはよほどのことなのだろう。
「埋め合わせは必ずする。すまない」
ルシフェルはジータのほうが申し訳なく思うくらいに何度も謝ってくれた。そもそも、ジータもどんな顔をして会えばいいか、少しだけ悩んでいた。だから、予定がキャンセルになり少しほっとしていた。
土日は結局一人でダラダラと過ごした。ぼーっとしながらも、余計なことを考えないように、難しくない本や映画を見て過ごした。
そして月曜日、いつもどおり出社し、お気に入りのマグカップに珈琲を注いで自席に戻る。
「うわぁ……ないわ……」
すると、先輩が周りの女子社員とこそこそと話をしていた。
「?」
ふと、ジータが視線をやると、それに先輩が気がつく。
「どうかしたんですか?」
なにかトラブルかと声をかけると、先輩はそっとジータを手招きしてくれた。自然と女子社員の輪に入る形となる。すると、一人の女子社員が話し出した。
「一昨日さ、買い物にでかけたらさ、前をカップルが歩いてたんだよね。甘えるように腕組んでてさ、人前でそこまでイチャイチャするのちょっと引くなぁ、って思ってたら、ルシフェル部長とあの人だったんだよ」
「え……」
一昨日、つまり土曜日は仕事だと言ってジータとの予定を断った。それなのに、別の女性……例のお嬢さんと腕を組んで歩いていたらしい。
その事実を理解すると同時に心臓が締め付けられるように突然痛くなる。
「いや、プライベートはプライベートだからいいんだけど、仕事で距離の近い人と、誰かに見られる可能性のある場所でイチャイチャするのはどうかと思っちゃう……」
「節度ある人だと思ってたけどね」
「わかるー! なんか残念だよね……」
先輩たちは口々にそう言っている。ジータはあまりのショックに、何も反応できずにいた。まるで誰かにギュウギュウと握られているかのように心臓が苦しい。そのせいか、呼吸さえも苦しい気がしていた。
「わかるわかる、ジータもドン引きだよね……まぁ、仕事に私情挟まなきゃ別にいいんだけど、何となくがっかりだよねぇ、何となく」
幸い先輩たちは、ジータがその事実にドン引きしたと判断してくれたらしい。ジータは苦笑いでごまかすことにした。
もう頭が真っ白だ。その日の仕事を淡々と片付け家に帰った。その間もずっと考えていた。ルシフェルのことだ、なにか理由がありそうな気は少しだけしたが、もう理性的に考えることなんてできなかった。
もしかして、自分のことを好きではなくなったのだろうか。だから、仕事と嘘をついてジータの予定をキャンセルしたのか。それならば、嘘なんてつかないではっきり言って欲しかった。
でも、それ以上に腹が立つことがあった。それは、自分のことだ。こうなって、初めて気がついた。ルシフェルとの関係について、わからないわけではなく、わかろうとしていないだけだったことに。それは、進む勇気も、終わらせる勇気もないから。このまま、今の関係をずるずると続けることが一番楽で心地よかったから。ルシフェルが優しく待ってくれている、その事実に甘えていた。……そしてそれ故、自分の気持ちを見ないふりをしていた。
(私、部長のこと、思った以上に好きだったんだな)
これだけ心が痛ければ、鈍感なジータでもわかる。自分でも気が付かないうちに、ジータは彼に心惹かれていたのだろう。そうでなければ、ここまでショックは受けない。よく耳にする、失ってから初めて気が付く、というやつだろう。
(私って、自分が考えるより、ワガママで自分勝手だったんだな)
どこか客観的にぼんやりとそんなことを思った。
嘘をついていたルシフェルが許せない気持ちは当然ある。しかし、自分の気持ちを見ずに彼に甘え続けていた自分も、許すことができなかった。
「ごめんなさい、いろいろなことがあって、距離を置きたいです」
だから、それだけメッセージを送って、連絡先をブロックした。
メッセージをブロックしてしまうと、一気に彼との接点はなくなった。会社でも物理的な距離があるから、何をしているのかさえ知らない。情報が入ってこない以上、心の整理もつくと思っていた。
しかし、ジータが考えているよりも甘くなかった。心穏やかではない日々は延々と続いていた。常にもやもやとした黒い感情を抱え続けていた。
仕事で彼の名前が聞こえただけで、心臓が大きくはね、耳をふさぎたくなるような、ざわざわとした仄暗い怒りとも悲しみとも諦めとも思える感情に囚われてしまう。会社に来ることが辛く、このまま部屋にひきこもれたらいいのに、そんなことさえ思う日もあった。
連絡を絶ち二週間程が経った。
これが失恋というのか、ジータはため息をつく。今日は、女子トイレでたまたま、見知らぬ女子社員が話していたルシフェルの噂話を耳にしてしまった。噂の内容は相変わらずだ。どうやら、もう、いつプロポーズされてもおかしくない状況らしい。例のお嬢さんが自慢していたと見知らぬ女子社員たちがざわざわと話していた。
なんとか一日の仕事を終え帰路についたものの、聞いてしまった噂が頭から離れない。
(本当、ばかみたい)
以前の自分なら、そうですか、と気にしていなかっただろうに。どうしてこんな自分になってしまったのか。やるせなさで涙が出てきそうになる。
こんなことで泣いてたまるか。深く呼吸を繰り返し、歯を食いしばり、涙がこぼれぬように努める。そうだ、何も考えないようにしたほうがいい。考えるから悲しくなるんだ。早く帰って適当なテレビをつけて、別のことを考えるようにしたらいい。
マンションに到着し、鞄から鍵を取り出そうと、歩きながら鞄を覗き込む。鍵を見つけ手に取り、顔を上げたとき、見覚えのある姿に心臓が早く脈打った。
(どう……して)
ルシフェルが部屋の前で待っていた。思わず歩みが止まる。ジータが気がつくと同時に、あちらも気がついたらしく、駆け寄られる。
「待っていた」
「……」
「最近、プライベートでは避けられているようだったから。君の意思を尊重し静観するつもりだったのだが、……その、会社で見たときも元気がなく心配になってしまって……」
「……かえって……ください」
顔を見たら泣いてしまいそうだった。俯いたまま、彼が言い終わる前にジータはか細い声でそう告げる。
「帰らない。君の力になりたい。何でも相談して欲しい」
「帰ってくれないことが苦痛です。帰ってくれたら元気になります」
「それは、根本的な解決には至らないはずだ」
「あなたに関係ないでしょ!?」
誰のせいだと思っているのか、そう思うと腹が立ち、声を荒らげてしまった。しかし、はっとマンションの共用廊下だと気が付き口をおさえた。
「……」
ルシフェルに帰りそうな気配はなかった。厳しい表情で無言でジータを見つめている。
「……部屋、上がってください」
廊下で話しても埒が明かない。部屋に上げることにした。
部屋には入れたものの、ジータもルシフェルもただ立ち尽くしていた。
「ジータ」
「……人の迷惑になるので上げましたけれど、特に話すこともないので、気が済んだら勝手に帰ってください」
顔を見たらまた声を荒らげてしまいそうな気がした。ルシフェルの顔を見ないように背中を向け、抑揚のない声でそう告げた。
「何かあったのだろうか?」
「別に……」
「教えてほしい。君の力になりたい」
「なにもないです」
そんな不毛なやり取りを繰り返す。
「いや、明らかに君の態度が今までと違う。タイミング的にはこの前、予定をキャンセルしたあたりだと思う。キャンセルしたことを怒っているのか? 君のことを大切にしたいんだ……だから、教えてほしい。君のことが誰よりも好きだから」
(……!)
その発言にまた頭に血が上った。キャンセルしたタイミングだとわかっているのならば、どうしてジータがここまで心乱しているか、わからぬはずないだろう。
「しつこい」
吐き捨てるかのようにその言葉が出てきた。
嘘をついたくせに、あっちを取ったくせに、どうして自分に構うのか。
どんな感情かわからない。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも両方か。とにかく、このもやもやとした気持ちの悪い感情をもう貯めておくことはできなかった。
「……」
ジータは、着ていたブラウスの一番上のボタンに手をかけた。慣れた手付きでボタンを外すと、次にその下のボタンに手をかける。その動作を繰り返し、ブラウスの半分ほどのボタンを外した。
「ジータ?」
ルシフェルはジータの行動の意図がわからないのか、少し困惑したように名を呼ぶ。
開いたブラウスの隙間から、キャミソールやブラジャー、そして白い膨らみが顔をのぞかせる。
「……そんなに私が好きなら、好きにしていいですよ。だから、気が済んだら帰ってください」
そのまま彼に近寄り、ブラウスの中が見えるように少しだけ指でブラウスを肌蹴る。
ルシフェルは困惑とも驚きとも取れる表情を浮かべている。けれども、視線は肌蹴たブラウスの胸元に向いていた。
「どうぞ」
挑発するように、もう一個ボタンを外し、さらに一歩近づく。こんなに近寄ったことはなかったような気がした。ゴクリと、喉仏を動かし、つばを飲み込んだのがわかった。ジータにも緊張が伝わってくる。
具体的に何秒くらいかはわからない。少なくともジータにはとても長く感じた。世界が止まってしまったような感覚さえしていた。
「……だめだ」
その中、動いたのはルシフェルだった。苦しそうに一言だけそう告げる。
「だめだ。ジータ、自分を大切にしなければ」
ルシフェルはそう言うと、目をそらし、自分のスーツの上着を脱いでジータに羽織らせた。
「……どうしてこんなことをしたのか、私にはわからない。しかし、こんなことをしてはいけない。君であっても、君を傷つけることを許すことはできない」
「……」
ルシフェルの言葉はあまり頭に入ってこず、ただただ、自分を拒絶された気がした。突き離され、全てを失ってしまったような、何も残っていない感覚だ。
「……もう、好きじゃないから触らないんですね」
だから。つい、本音が出てしまった。ジータの悟られたくない本音だ。
「ジータ……?」
本音がこぼれてしまったせいか、泣くまいと堪えていたものの、一気に涙が溢れてきた。そして、涙とともに苦しい感情も溢れてくる。
「ひっく……ぐすっ……辛い……」
化粧が落ちることだって、もう気にならなかった。ゴシゴシと流れてくる涙を手でこする。こすってもこすっても涙は止まらない。
「ジータ……どうして……そうか、触れなかったから」
「見ないで。こんな私、見ないで……」
みっともなさすぎる。なんて無様なのか。人生でこんなに惨めな気持ちになったことなんてなかった。ただ、嗚咽を上げながら泣くことしか出来ない。
そのジータに寄り添うようにルシフェルは近寄り、声をかけた。
「ジータ、私は君のことが変わらず好きだ。……恥ずかしい話だが、本当は触りたい。もっと言うとその先だって望んでいる。しかし、心が伴わなければ意味がなにもない。欲しいものは君のすべてだ。だから、君が本当に心を許してくれるときまで君に触れない、それだけだ」
「……」
「お願いだ、聞かせて欲しい。どうして、君はそれほどまでに苦しんでいるんだ? 頼むから聞かせてほしい。力になりたい」
ルシフェルの優しさが痛いほど伝わってくる。それと同時に、自分をいかに愛してくれているのか、大切にしてくれているのか、強く実感する。そして、自分のしたことが、いかに愚かだったのか、実感する。
「……噂、聞きました。部長、婚約するって」
だから、自然と言葉が出てきた。
「ううん、それはいいんです。噂ですから。私、部長が本当に好きなのは私だと信じていましたから、単なる噂だと思っていました。……けれども、この前のお出かけの約束の日、私には仕事って言ったのに、本当は噂のお嬢さんと腕を組んで歩いてたって。それを聞いて、私のこと、どうでも良くなって嘘をついたのか……」
「違う! それは断じて違う! 絶対に違う!」
ジータが言い終わる前にルシフェルが強く否定する。
「ううん、それだけじゃないんです。それ以上に自分が許せなかったんです。部長は自分が好きだ、だから曖昧なままでも許してくれる、そう思い込んでいた自分に気がついたんです。断ることも進むこともせず、そのままの関係でいようとする、自分が身勝手で許せなかった……」
「そんなことはない! 君は少しずつ、歩み寄ってくれていた、私はそれで十分だった。……何より、どんな形であれ、そばにいてくれれば、それだけで良かった……毎日が楽しかった」
それだけ言うと、ルシフェルは眉をしかめ、目をつぶる。
「この前のキャンセルの件は、本当に仕事だった。少なくともそう聞かされていたし、私は仕事だと割り切っていた。しかし、それが君を苦しめていたのか……ようやくわかった」
呟くようにそういったあと、ジータに向き直る。
「ジータ、お願いだから聞いてほしい」
そして、泣きじゃくるジータの肩を掴み、自分の方を向かせた。ジータも咄嗟に顔を上げてしまう。ルシフェルと目が合う。いつもの優しい目ではなかった。どこか、強い意思を感じる……どちらかといえば、二人きりのときよりも仕事のときに近い目だ。
「結論だけ先に言おう。私はジータ以外の異性は興味がない。愛しているのは君だけだ。君以外と結婚なんて考えられない」
「……」
「君が噂に聞いている彼女と私は何の関係もない。上司と部下、それだけだ」
ジータを安心させたかったのか、最初にルシフェルはそう言ってくれた。
「……」
「最初こそ彼女との結婚を上司と彼女の父親……つまり、取引先に打診された。しかし私は君以外とはそのようなことは考えられなかった。だから即座に断った。出世に響くようなことを言われたが、それならば退職すると言ったら諦めてもらえた」
「そう……なんですね」
やはりルシフェルはジータの思い描くような人だった。出世のために、そのようなことをする人ではなかった。少し嬉しく感じる。
「だが、その代わり、私のそばに彼女を仕事として置くと言われた。その人事に関して、私には決定権がなく、また断る明確な理由もなかった。だから、一部下として他の部下と平等に接していた。それだけだ。噂についてはわからない。しかし、私は仕事だと割り切って彼女に接していた。それは、胸を張って言うことができる」
「きっと、距離が近くて接点が増えれば、自然とそういう仲になるんじゃないか……みたいなことだったのかな……」
「だろうな。私は君以外の女性は、恋愛の対象ではない。仕事以上の接点は持っていなかった。プライベートで誘われたことはあったが全て断っていた。……だからだろう。例の土曜日、仕事の話がしたいと呼ばれて行ったら、仕事の話はすぐ終わり、あとは彼女に付き合うことになってしまった」
「そういうことだったんですね」
「あぁ。流れで、彼女に一日付き合うことになってしまった。距離が近く、離れてほしいと言ったのだが、聞いてもらえなかった。相手は女性だから、強引に引き離すわけにもいかず、困りはしたものの結局そのまま……」
ルシフェル自身も困ったことだったのか、最後は眉をしかめながらもそう教えてくれた。
「ぐすっ……良かった。部長が、私の好きな、私の信じた部長でよかった」
何の関係もなかった、その事実より、彼は自分の信じていた、誠実な彼だったという事実が嬉しかった。
「誤解は解けただろうか」
ジータはこくこくと小さく頷く。
「よかった。……しかし、君を悲しませることは不本意だ。今までは静観していたが、なにか手を打とう」
全ては誤解だった。最初にジータが思った通り、噂は単なる噂で、ルシフェルはジータのことを一番に愛してくれている、それが事実だ。
「こんな……試すことするような子でも……まだ好きでいてくれますか?」
「君が心乱したことの原因は私だ。君を咎めることはできない。……それに」
ルシフェルはそこで言葉を途切れさせる。
「?」
「心配をかけさせた私が言っていいのかわからないが、それほどまでに君が私のことを想ってくれていた証拠のようで、嬉しかった」
少しはにかむようにそう言われ、頬が赤くなるのがわかった。確かにそうだ。彼を気にかけている証拠以外の何ものでもない。少し照れくさくはあったが、コクリと少しだけ頷いた。
いつもなら、これで終わりだ。お互い誤解もとけた。また明日から今までどおりの関係に戻ることができるだろう。
しかし、ジータは今回の件でわかった。甘えたままではだめだ。ルシフェルが誠実であるように、ジータも誠実にならなければ。変わるならここだ。
「部長……」
「?」
「……ううん、ルシフェル……さん」
肩書ではなく、名前で呼び直す。いつもとは違うジータに、ルシフェルが少しだけ不思議そうな顔をする。
「私、今回の件でわかりました。私、ルシフェルさんが好き……です」
最後は小さな声になってしまったが伝えてしまった。ルシフェルの反応が怖いこともあり立て続けに自分の気持ちを綴る。
「ルシフェルさんの誠実なところ、すごく素敵だと思っていました。一緒にいると楽しいです。その……他の女の人といること考えたらすごくもやもやして辛かったです。好きだから、もっと深くルシフェルさんを知りたい……です」
ジータの発言にルシフェルが無言で目を見開く。まるで初めて会ったときのようだ。
「嫌じゃなければ……ですけど」
言葉を紡いでもらえず、気まずくてそんな言葉を継ぎ足し、俯いてしまう。
「いや、嬉しすぎて幻聴かと……」
「は、恥ずかしいので、何度も言えないですけれど……好き……です」
ジータの方が、恥ずかしくなってしまい、最後はまた消えそうな小さな声になってしまう。
「嬉しい」
その嬉しそうな声を聞いてようやく顔をあげることができた。頬がいつもより赤い。嬉しそうにニコニコしていた。
「私も変わらず君のことが好きだ。小さくて愛らしい君が好きだ」
「あの、最初は、少しづつ進展させてもらえると嬉しいです」
「急かしたりはしない。ゆっくり、君のペースで進めていこう」
その言葉とともにルシフェルの手が伸びてきた。が、触れる前にピタリと止まってしまう。
「急かさないと言った直後に、行動が伴っていないな。すまない、嬉しくてつい触れてしまいそうになってしまった」
ルシフェルは苦笑いでそう告げる。
「……嫌じゃないです。嫌じゃないですし、そもそも進むって決めたんです。だから、少しずつ、恋人らしいこと、していきたいです」
これではまるで触ってくれと言っているようなものだ、そう思いながら、恥ずかしさとともにそう告げる。
「……頭を撫でても?」
こくんと頷くと、また手が伸びてきた。頭に手を乗せられ優しく撫でられた。男の人らしい大きな手だ。ジータも嬉しくなる。
「君にブロックされてから、ずっと心配していた」
そういえば、この人の割には、よく接触してこなかったなと、仲直りをしたからこそふと思った。
(会社のアドレス宛にメールするとか、面談って言って呼び出すとか、できただろうに。まぁ、公私混同しない人だからなぁ……)
こういうところがジータも気に入っているところではあるのだが。
「職場では君のデスクが見える場所に用事を敢えて作って何度も行ったり、君の終業に合わせて終業し帰宅した君の後をつけたりしたが、君の懸念が何なのか全くわからなかった」
「え……会社でも帰り道でも……?」
「あぁ。心配でずっと見ていた。心配で部屋の窓を外からずっと眺めていた。電気が暗くなると君が眠れたのだと少しほっとした」
気が付かなかった自分も鈍感なのかもしれないが、改めてこの人の自分に対する執念のようなものを思い出した。
(間違ってない……よね?)
腹をくくったはずなのに、少しだけ心が揺れそうになった。
それから、数ヶ月が経った。
「なんか、あの人、ルシフェル部長とは関係なかったらしいよ」
「聞いた聞いた。ルシフェル部長が結婚前提に付き合ってる人がいるって言ったら、手のひら返してなんの関係もなかったって言い始めたって」
「最近は、ベリアル部長に夢中らしい」
そんな噂を耳にした。
事の顛末はルシフェルからも聞いていた。
「この際仕事をやめたほうがいいだろうかとベリアルに相談したんだ。そうしたら、間に入ってくれると言ってくれて、私は私で別に結婚を前提に付き合っている人がいることを伝えたのだが、いつの間にか彼女はベリアルに夢中になっていた」
ジータの勝手な予想だが、ルシフェルをやめさせないために、ベリアルが彼女を引っ掛けたのではないか、そんな気がした。どうしてもルシフェルには仕事をやめてほしくないらしい。
(ベリアル部長は慣れてそうだから、うまく流す自信があるんだろうなぁ……悪いけれど甘えちゃおう)
ベリアルは人を扱うのがとても上手い。ルシフェルとは違いきっといいラインでうまく流してくれるだろう。
「私も、社内で噂を聞かなくなって、ホッとしました。婚約するって噂もつらかったけど、そのせいでルシフェルさんが悪く言われるのも辛かったから」
「フフ、ありがとう」
そして、頭を撫でられる。
相変わらず、常識では考えられない過保護ではあるし、何故か誰にも言っていないようなジータのことまで知っていて、怖いと思うことは多い。しかし、それはジータを愛するがゆえだと思うと、まぁいいかと思えてしまう。随分変わらされたものだと苦笑いしかできない。
そして、ジータも優しくて誠実なルシフェルを愛している。会社では相変わらずの仏頂面だが、二人きりのときの喜怒哀楽のある表情を思い浮かべると、そのギャップについ笑ってしまいそうになる。
きっと、この人とであれば、楽しい家庭を築くことができるだろうと思っている。左手薬指にリングが輝くのもそう遠くない気がしていた。