大門八一が薄咲結乃に再会した話 終電も近い夜中、あの日彼女と出会った駅の改札口で彼女を探すようになってから、彼女を見つけるまでそう日はかからなかった。ミルクティー色の髪、白がよく似合うシンプルな服装。大きめの手提げ鞄を肩にかけているので、より小柄に見える。
あまり深く考えず、その場で声をかけようと思っていた。しかし、急いで改札口を通り駅のホームに降りていく彼女を追いかけるのは躊躇われた。もっと彼女に時間がある時に話がしたい。ただその一心で性懲りもなく俺は今度は彼女が出勤するであろう時間帯を模索し、ようやく夕暮れ時の退勤で混雑する人混みの中で彼女を探し出した時は、やっぱりこれは運命なんじゃないかと一瞬でも思わなかったかといえば嘘になる。
出勤時の彼女は幾らか時間に余裕があるようだったが、ここで引き止めても話を聞いてもらえなかったり迷惑になる可能性が高い。仕方なくこっそり彼女の後ろをついていくと、住宅街の中の小さな学習塾に辿り着いた。個人が経営する塾らしく、古めかしい木造建築が目立つ。今俺が住んでいるオンボロアパートよりは余程立派だが、未だに電球を使っていそうな雰囲気の建物に複数人の小学生らしき子供達がわいわいと騒ぎながら入っていく。学校帰りにこれから夜遅くまで勉強をするとは、優秀な子供も大変だ。恐らくこれから授業が始まるだろうから、授業が終わって彼女が退勤する前ぐらいが話をするのに丁度良いだろう。
車で来れば合間に仕事が出来たが、徒歩なので仕方なくその辺を散歩して時間を潰す。人通りの多い町中と違って閑静な住宅街だが、歩道や街灯の整備がしっかりしていて夕闇の中でも歩きやすい。これなら彼女も安心して夜道を歩けるだろうと俺が酷く呑気に周辺をぐるぐると歩いていると、子供たちが肩を並べて歩き去っていくのが見えて、ああ授業が終わったのかと察して早速足早に塾の入口へと向かう。入口の扉にはめられたすりガラスから温かい光が漏れている。まだ確実に人はいるだろうが、入っていいだろうか。散歩している間に言い訳は色々と考えたが、怪しまれてしまっては元も子もない。なるべく自然に入って、それから──
「こんばんは。お迎えに来られたお父様ですか?」
不意に扉が開き、話しかけてきたのはあの彼女だった。愛嬌がある垂れ目、柔らかな微笑み。あの日、俺に話しかけてくれた時と同じ穏やかでどこか不思議な佇まいだった。
「あ、いえ、塾の送迎ではなくてですね、ちょっとこちらで俺の知り合いが働いていると聞いて覗きに来たんですよ」
「そうだったんですか。もう私以外は皆さん退勤されていますが……もう少し早い時間でしたら、お会い出来ると思いますよ」
「その、それは大丈夫です。俺が来たってことあんまり知られたくなくて。様子さえ窺えれば構わないので」
流石に怪しすぎる言い訳だったなとすぐに心の中で後悔しつつ、彼女はそう怪しむ様子もなく頷いた。
「わかりました。この時間は対応が私だけで申し訳ありませんが、何か塾長に言伝等あればお聞きします」
「塾長さんには後で会った時に俺から言うんで、大丈夫です。何となく、その……みんな無事にやってるのを見ていられればそれでいいので」
次第にしどろもどろする俺をじっと見つめてくるので、とうとう看過出来ない怪しさになってしまったかと泣きたい気分になっていると彼女はよりにっこりと笑んだ。
「この塾がお好きなんですね」
「え?」
「熱心な子供たちに優しい先生たち。たまには疲れから元気が無い時もありますが、それでもみんな互いを思いやっています。私もこの塾が好きで、微力ながら勤めさせて頂いてます」
あんまり嬉しそうな顔をしているものだから少し放心してその顔を見ていると、俺は自分で思っている以上にこの人のことを好きになってしまう予感がして完全に目的を見失っていた。
「……はい。あの、あんまり知られたくないと言ったばかりですが、俺に出来ることなら何でもしたいと思ってます」
「そうですか、きっと塾長も喜ぶと思います。失礼しますが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか? 私は薄咲と申します」
手作りらしき名刺を受け取り、そこに【薄咲結乃】と書いてあるのを見た。
「ああ、ありがとうございます。俺は名刺持ってなくてすみません、大門といいます」
「大門さんですね。私は日中は殆ど居ないかと思いますが、お会いした時は是非よろしくおねがい致します」
そのまま彼女、薄咲さんが塾の戸締りを済ませて駅の方向へと歩いて帰っていくのを俺はぼんやりと見守っていた。ひとまず顔見知りにはなれた。駅まで一緒に行こうかと誘われたが、話し過ぎてボロが出てしまうのもいけないのでわざわざ断ってしまった。過去に受けた恩に対して礼を言うチャンスだったというのに、実際彼女に再会した今となっては内心相当渋っている。薄咲さんは俺の顔を覚えていないようだったし、いきなり覚えてもいないことの礼を言われてもピンと来ないだろう。しかもさっきの言い訳が全て台無しだし、かろうじて得た信頼も失う。結局、彼女に礼を言うのはまだ先にした方が至極賢明だと結論づけた。本当は彼女に会える理由を手放すのが惜しかっただけだと言われれば、否定はできない。
(気のせいだろうか、何か甘い匂いがしたな……)
チョコレートを焦がしたような、ミルクを煮詰めたような、キャラメルを溶かしたような。そういう香水なのか、はたまた本物の菓子か。彼女の残り香を不思議に思いながら、俺は冷えきった手をズボンのポケットに突っ込みコンビニに温かい缶コーヒーを買いに向かった。
-END-