八結乃お姫様抱っこ可愛いね 雨のことが鬱陶しいと思っていた。傘を持ち歩けばすぐに失くしてしまうし、濡れてしまえば冷たい体がより冷える。暗いし冷たいし濡れるし、俺にとっては良いことなんて何一つ無い。でも、結乃に関わるならどんなに暗くて冷たくて濡れたって全然構わなくなるぐらい俺は単純で、彼女のこと以外は見えていない。
「ねえ、仕事中は中々傘を差せないの?」
「ああ、駄目ってわけじゃないが荷物を出し入れして運ぶには帽子だけで手一杯だな」
「そっか……でもこんなに体が冷えちゃうなら、もっと防水性と保温性が高い服を今度探してみよっか」
そう言って俺の冷えた手の温度や作業服の布地の濡れ具合を触って確認している結乃の顔つきはとても心配そうだが、俺はそんなことより一刻も早く家に帰って彼女を抱きしめたくてたまらなかった。ハンドルを強く握ってしまい若干車体がよろめいたが、彼女はそれを気にする風もなく俺の濡れた髪や服を拭いてくれている。
────
塾の勤務が終わった結乃を車で迎えに行ってそのまま俺の家に帰る日々に慣れたかというとまだまだ全然慣れていなくて、未だに何かいけないことをしている気になっている。自覚していた以上にぼろくて狭いアパートの一室で彼女が遠慮がちに座っているのを見る度、喜びと後ろめたさで胸がいっぱいになる。本当に此処に俺と住んでいいのかと何度も聞いたが、彼女はニコニコと笑って頷くばかりで他の案を一切出さなかった。此処よりも綺麗で広い結乃の部屋の方に俺が住むとか新しい部屋を借りるだとか、そういう案は無かったことにされた。彼女が此処を去れば、この関係は終わりになる。俺がその日を恐れていることは結乃に悟られてはいけない。
────
狭い駐車場に車を停め、急いで降りて取り出した黒い折り畳み傘を広げて外側から助手席のドアを開けて結乃の頭上に傘を差す。車内で折り畳み傘を手渡せば済むことに俺が気づくのはあと半年後になる。
「ありがとう、八一さん」
結乃は、可愛い。欲目もあるのではないかと言われたらそうかもしれないし、世間的な評価としては例えばいろはなんかは特に可愛いと持て囃されているが、いろはの可愛さとは違う愛らしさがある。あまり主張しないようで時々変に押しが強いところとか、普通なようでこだわりが強いところとか。性格ばかり挙げているが、この柔らかい顔立ちと小柄な体型も可愛い。以前デパートのおもちゃコーナーでウサギのシルバニア人形という物を見かけた時、何故かその面影に結乃が重なった。流石に買うのは控えたしこのことは彼女にも明かしてはいないが、とにかく俺自身も驚くぐらい結乃の可愛さは違う世界を見ているようなものだった。
軋む階段を上って端から二番目の部屋に辿り着き鍵を開ける。そういえばインターホンが壊れたままだし表札もかけていない。インターホンを直して表札をかける前に新しく良い部屋でも探すべきかと俯いて考えていると、玄関で靴を脱ぐ結乃の足元がいつもと違うことに気がついた。
「あれ、今日はヒールが無い靴だったのか」
「うん。雨だから危ないかなって思ったのと、ちょっと靴擦れが出来ちゃって」
「何……!? 大丈夫か!? 痛いのに歩いていたのか!?」
「絆創膏も貼ってあるし、大丈夫」
長い靴下を脱いで露出した彼女の足には確かにしっかり絆創膏が貼ってあった。靴のサイズが合わなかったのだろうか。無理して履いていたのか。全く痛い素振りなんか見せなかったのに。結乃にとっては些細なことかもしれないが、必要以上に俺は慌ててしまった。
「ごめん、俺気づけなくて……結乃がそんな痛みに耐えていたなんて……」
「え、あの、大丈夫だよ?」
「明日から出勤する時と退勤する時は俺が結乃を背負って運ぶから。他に外出する時もそうしよう、その靴擦れが治るまで!」
「…………冗談だよね?」
呆れと怪訝を混ぜたような面持ちの結乃は中々新鮮で良いもの見れたな、と瞬時に思ってからどうやら言い過ぎたのだと思い至る。
「そ、そうだな……背負うのは目立つよな。かといって抱えるのも目立つし、どうすれば……」
「普通に歩けるし他の靴を履けば痛みも無いから、平気だよ」
「そっか……」
それなら安心だと爽やかに終わればいいのに、僅かに言い淀んだ俺の気持ちを知ってか知らずか彼女は悪戯っぽく微笑んで、玄関に立ち尽くす俺の至近距離までやってきて腕を広げた。
「じゃあ、此処から車に乗るまでの距離だけ運んでもらおうかな? この靴擦れが治るまで」
結乃を抱えるのは初めてではない。感極まった俺が抱きあげて振り回したりテーブルで眠った彼女を布団まで運んだり、その他にも色々とある。しかし、こうわかりやすく『抱っこして』のポーズを取られるのは初めてで、思いきり浮かれた俺は彼女の背中と脚をしっかりと掴んで勢いよくその体を持ち上げた。勢いがよすぎて背中がドアにぶつかり、少しよろけた。
「危ない危ない。でも、いつもこんなに軽々と私を持ち上げられるなんて八一さんはすごいね。よしよし」
褒められた。五歳年下の彼女に、子供みたいに褒められている。彼女の長い髪が頬に触れる。唐突に抱きしめたいという欲求が蘇ったが、両手が塞がった状態なためどうにもしようがない。一旦下ろしてから抱きしめるべきか、もう少しこの状況を楽しんでおくべきか……それは人生において生死を分ける選択のように目の前に存在した。仕方なく俺は、彼女の胸元にそっと顔を寄せる。
「好きだ…………」
「ん?」
「……どうしてそんなに可愛いんだ? どうして…………」
どうして俺に優しくしてくれるんだ、とずっと思ってきた。俺みたいな男に気を許してはいけないと、俺自身が誰より思っているのに。何よりも結乃のことが好きなのに、誰よりも駄目な男だ。秋哉やいろはみたいに歳も近くて考え方や生き方も良い奴らの方がどんなに彼女に相応しいことか。この先俺は一体どれだけ彼女を悩ませることになるのかと思うと不安になる。俺は彼女に相応しい人間になりたい。一緒に隣を歩んでもいいような人間に。
「……ふふ、たぶんそれはね、私が八一さんのことが大好きだからだよ。八一さんには、あなたにだけは……世界で一番可愛く見えたら嬉しいなって思ってるから」
結乃の吸い込まれそうな瞳に、俺の影が映る。チョコレートを焦がしたような、ミルクを煮詰めたような、キャラメルを溶かしたような……甘い匂い。脳裏をよぎるのはいつかの思い出。あの時からとっくに彼女に夢中だった。抗えるわけがない。俺が顔を上向けて唇を重ねると、さっきまで結乃が飲んでいたハニーミルクラテの温かい甘さが口の中に広がっていった。
-END-