空き教室に監禁された遠矢正宗(正こは) 誰の目から見ても明らかなぐらい、こはるは遠矢正宗を慕っていた。こはるのクラスの担任でもある彼は苦労性過ぎるきらいがあるものの、誰にでも分け隔てなく接し相手の気持ちをよく考えて発言出来る心優しい教師だ。正宗の言葉に幾度となく励まされてきたこはるはすっかりその寛容さに敬服し、心酔といって差し支えないほどの憧れを抱いて彼の教えを聞き実りある日々を送っていた。
しかし、古典や技術など受け持っている教科は勿論担任であるため会わない日は無いに等しいが、正宗は校内の雑務もあれやこれや常に任されっぱなしで奔走しているため、中々こはるが彼とゆっくり話を出来る時間はなかった。その度に見過ごせず手伝いを申し出るこはるだったが、いつも「悪いから」とか「こはるにそんなことはさせられない」と断られる。こはるとしてはただただ正宗の役に立ちたい、傍にいたいという一心だったが上手く想いも伝えられず人知れず悔しさを感じていた。
「こはる、そろそろ帰るわよ。七海も下駄箱で待っているわ」
「あ……深琴ちゃん。その、申し訳ありませんが、今日はお二人とも先に帰っていてください」
「あら、どうして? 何か補習でもあったかしら? 日直でもないわよね」
「ええと、補習でも日直でもないのですが、古典のわからないところを遠矢先生に訊きに行こうかと思いまして……」
今日の古典は正宗が現れず、副担任の室星ロンによる完全自習の時間だった。先日からわからなかった古語の文法や意味がそのままになってしまい、教科書を何度読んでも理解が難しかった。駆や深琴に訊けばすぐに答えが得られることに気づいてはいたが、何よりもこはるは正宗に直接会って訊きたいという強い願いがある。
待ってくれている二人に対して申し訳なく俯くこはるを見て深琴は悪戯っぽく笑ってからかう。
「ふふ、正宗が心配なのね。憧れの遠矢先生に今日は会えなかったから」
「深琴ちゃん、ごめんなさい……」
「大丈夫、わかってるわ。暗くなったら危険だから、遅くならないようにね」
こはるを心配する一言を残して去った深琴に、こはるは多少の罪悪感を持っていた。深琴と七海はこはるの大切な女友達だ。共に寮で生活し勉学に励み、時に遊び笑ったり泣いたりしながら仲良くなってきた。こんな不純な想いを一人で黙っているのは忍びないが、どうしても未だ話すことが出来ない。どう話したらいいか、言葉が見つからない。
夕焼けの光が窓から差し込んで、廊下が橙色に染まっている。まるで光の橋のように綺麗で、光の上を渡るように楽しげに歩いているこはるの視界の端に、長身の男の背が見える。副担任の室星ロンだ。窓から身を乗り出し煙草を燻らせる様子はおよそ教師に似つかわしくなく、足元の来賓用スリッパを気怠げに爪先に引っかけている。夕焼けが反射したサングラスの眩しさにこはるが目を奪われると、サングラスの奥の無機質な瞳が瞬時にこはるを見やった。
「あれ、キミまだ帰ってなかったんだ。なんだっけ……バッグが甘い匂いがする子」
この前にやった持ち物検査で何故かロンにバッグの匂いを嗅がれていたこはるは、その発言を聞いて思わず持っていたバッグを後ろ手に持つ。
「その、校則で禁止されているお菓子とかは持ってきていませんが、どうしてなんでしょうか……」
「さあ。キミの持ち物とか、キミ自身が甘い匂いなのかもね。遠矢先生は大変だ」
「と、遠矢先生がどうしているかご存知なんですか!?」
不意に出てきた探し人の名前に反応したこはるを興味深そうに眺めながら、燃え尽きそうな煙草の灰をパラパラと散らすロンの口元には僅かな笑みがあった。
「んー、確か今日一日中、三階の使われなくなった空き教室に監禁されてるらしいよ。お偉いさんの命令で」
「ええっ!? 大丈夫なんですか!?」
「さあ。ダメじゃないかな」
「そんな! わたし、すぐに遠矢先生を助けに行きます!」
さっきまでの暢気さは何処へやら、脱兎の如く駆けていったこはるを見送ることもせず燃え尽きた煙草を窓から外にポイ捨てしたロンは、新しい煙草を取り出してオイルが切れかけのライターで火を点けた。
職員室では吾妻先生に黙秘され、化学実験室では加賀見先生に苦笑され、廊下では室星先生に翻弄されつつもようやく遠矢先生の所在を知ったこはるは三階の空き教室の前までやってきた。沢山の使われなくなった椅子や机が収納されてもいる物置部屋を兼ねていて、年に一度の大掃除の時以外はそうそう立ち入ることも無いと聞いていた。きっと埃もすごいだろう、そんな場所に閉じ込められた正宗の健康を思うとこはるは気が気でなかった。
「遠矢先生! こはるです! ここにいらっしゃると室星先生に聞きました!」
早速教室の扉を開けようとするが、どんなに引いても開かずどうやら扉に鍵がかかっているようだった。もう片方の扉を試しても開かず、ガチャガチャと扉の金属がぶつかる音が響くばかりだ。
「……こはる、こはるか?」
教室の中からこちらを伺う声が聞こえて、会いたい人の存在を確認したこはるは扉の隙間に顔を寄せて声を伝える。
「はい、こはるです! 遠矢先生、ですよね。すみません、早く扉を開けてさしあげたいのですが鍵がかかっていて……」
「ああ、凪沙さ……俺の上司がしっかり鍵をかけていったからな。扉を壊さない限り開きはしないだろう」
「そんな……どうしたらいいんでしょうか。わたしでは扉を開けることも、壊すことも出来ません……」
途方に暮れているこはるを扉越しに見透かすかのように、彼の声は静かに続く。
「……こはる、大丈夫だ。俺はこの扉ぐらい自分で壊すことが出来るよ」
「ええっ!? それならどうして……!」
「それはな、この罰を甘んじて受け入れているからだ。それだけのことを、俺はしてしまう危険があるからだ」
「で、でも……遠矢先生は何も悪いことなんてしてません! 危険があっても、罰を受ける必要なんて……」
「そうだな、こはる……お前が来てくれたなら、この罪は本物になる」
唐突に声色が変わり、扉の向こうで椅子か何かを引きずる音がする。音は徐々に扉に近づいて、大きな物体が教室の中から扉にぶつかった。続いて何度か扉の端々に小さなノック音のような叩く音が加わり、扉の強度を確かめているのだとこはるは思った。
「遠矢先生……扉、壊せそうですか? わたしに出来ることがあれば、何でもします」
提案について考えているのか教室は静かになり、こはるは扉に顔を寄せて耳をそば立てると扉の向こうに熱を感じる気がした。
「何でもか……それがお前自身を傷つけることになってもか? 大切な友達も傷つけるかもしれない。それでも、俺の言う事を聞くのか?」
いつになく真剣な彼の物言いにこはるはたどたどしくも真面目に了承するが、何故か彼は普段の優しさにそぐわない嘲笑に似た声音でこはるを戸惑わせる。
「こはるが純粋で優しいのは素晴らしいことだ。だが、お前は俺を信頼しすぎる。頼れる兄みたいな教師だとでも思っているのかもしれないが、俺は今にもお前に縋りつきたくて仕方ない余裕もゆとりも面白みもない男だ。授業中に目が合う時、お前は何を考えていた? もし俺が何を考えていたか知りたいなら、こちらに来てくれ……」
本当に、この扉の向こうにいるのは遠矢先生なのだろうか。こはるは今にも壊れそうな扉の軋みを聞きながら、扉の向こうの存在について考えていた。わたしを騙そうとしているのかもしれない。しかし恐ろしいと思うよりは、胸が疼いて少し痛くて、でも嫌ではない不思議な心地に身を委ねながらその時を待つ。
扉の錠の部分がくり抜かれたように床に落ちると、扉は軋みながらゆっくりと開く。こはるは教室の窓から差し込む夕焼けの眩しさに目を細め、逆光になり影が落ちた彼の顔は見えなくても差し伸べられた黒い手袋の上にそっと手を乗せる。思いの外強い勢いで手を握られたかと思うとそのまま教室の中へと引っ張り込まれ、開いた扉は再び固く閉ざされた。
-END-